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わたしというにんげん
著:久坂 蓮
わたしというにんげんは、ほんとうは、どこにもいない。みんながわたしのことをどう思っていて、なにを感じているか、わたしは知らない。ともすればわたしを、馬鹿みたいなやつだと考えたり、あいつ、嫌いなんだよね、なんて、飲み会で、言われているかもしれない。けれども、わたしは、だれにもほんとうのわたしなんて、見せたことがない。ほんとうのわたしとはなにか、わたしだってわからない。わかるのは、あ、今少し、苦しいとおもいながら笑って、帰ってからひとりでベッドにうつぶせて、泣くくらい。しかしそうして泣いているときのわたしの悲しみは、わたしだという、実感がある。わたしは悲しみ。ただなにがわたしをこうも悲しくしているのか、じぶんでも理解できない。じぶんでも理解出来ないのに、だれかに、わかってほしいと思う。いつもひとりでいるような、からだに、薄い膜が張られているような、気がする。
わたしは、へんてこな小説を書く。小説を書くのは楽しくない。中毒性のある毒物だ。わたしという自己顕示欲の吐瀉物。だれが、読むのかしれない。わたしは期待しない。読んだ、という言葉は、読んでいない、という言葉と、ほとんど変わらないことだから。わたしもきっと同じで、好きな作家たちの作品なんて、一度も、読めたためしがないのだ。結局人間と人間とのあいだの溝は、どう頑張ったところで、埋められない。一過性の恋も、終わってしまえばますます、わたしは悲しくなるだろう。それなのにどうして、愛されたい、と思うことをやめられないのか。
ひとりで生きていけるように、つよくなりたい。と、思っても、強くなれない。どうしようもなく、甘ったれている。わたしは弱い。ひとりきりになるのは、怖い。夜、新宿駅構内の人波にもまれて、歩きながら、髪を染めたわたしと同い年くらいの集団が、あんなに楽しそうに笑っていてわたしだけ、こんな悲しみを抱いていると考える。みんなほんとうは泣いているのかもしれないし、悲しいのに悲しくないふりをしているのかもしれない。ふいに振りかえって、わたしは、だれかよくわからない、だれかのことを、探してみる。だれかがわたしを見つけて、くれたらいいなあと。だれかは知らないが《あなた》が、わたしのもとに、走って今すぐ、来てくれることをつよく、眼をつむり祈るが、あなたは来ない。
あなたはいま、どこにいるのだろう。どこにいて、なにをしているのだろうか。なにを考えているのか。わたしが悲しみに暮れているあいだあなたが、わたしとおなじ気持でいたら、わたしは、あなたを好きになるだろう。あなたに、会いたい。どこにいるのか、わからない。あなたがそばにいないので、眠ることもできない。あなたが、わたしのこんなにも醜い、罪を許してくれたら、わたしは、もうなにも、いらないのだ。小説だって、書かなくていい。うまくなれずに泣くことも、もう辞められる。ああ、やっぱりそれは、嘘かもしれない。わたしは小説を書きつづけるかも、しれない。とにかく、あなたがいない以上、わたしも、いない。今のわたしは、あなたに会うために、小説を書きつづけている。
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『わたしというにんげん』 著:久坂 蓮
担当編集:水井くま
日本大学芸術学部文芸学科所属 出版サークルKMIT