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【紀行記】日常の中の非日常

見慣れぬ天井がある。
午前5時20分
目が覚めた。

平日の起床時間ではあるが、休日にその時間に起きることはまずない。
僕は、北茨城市の旅館に泊まり来ている。海なし県に住んでいると、海が非常に特別なものに感じる。昨夜はアンコウ料理に舌鼓を打った。

普段と違う布団では寝つきが悪いのだか、案の定深い眠りにつけなかった。
僕は、このままうだうだしているより、少し眠いけどスパッと起きて朝風呂にでも入ろうと思い立った。

北茨城の冬、この時間の外はまだ暗い。
気が変わった。
せっかく早起きできたし、海に近い宿だし、散歩に行ってから風呂に入ることにしよう。
身なりを整え、完璧な防寒対策をした僕は、人気のない薄暗いエントランスをそーっと抜けて、海岸へ向かった。

う~寒い!
外に出た瞬間、少しあった眠気が完全に吹き飛んだ。
11月下旬、寒さが肌に刺さる。

誰も歩いておらず、街灯の明かりが心強い。
空は雲もなく、空気が澄んでいて星がよく見える。
まだ、鳥の鳴き声はしてこない。
コツコツと靴の音と呼吸音だけがしっかりと聞こえていた。

5時45分、空が少し白み始めた。
日の出に間に合うか?
すこし早足で海岸へ向かう。
普段仕事の日は、朝の支度に追われ、通勤の時も日の出を拝めることはまずない。
ワクワクしながら、防砂林を抜ける。

「あー曇っている…」

独り言が思わず出てしまった。
水平線の太陽の昇るところには厚い雲が覆っていた。
しかも、波もすごく荒れている。
頭上は快晴だったから、勝手に水平線の方も快晴だと思い込んでいた。
冬の厳しさを物語る荒れた海は、澄んだ薄暗い空からは想像ができない。

護岸まで行き、冷たいコンクリートに腰を下ろす。
誰もいない。
手をこすり、寒さに耐えながら日の出を待つ。

6時00分
待つ間、スマホで調べたら日の出は6時20分だった。
空が、暗い紫色から朝焼けのオレンジ色に染まってきた。
日の出前でこんなに明るくなるなんて!

6時20分 
水平線から昇る太陽は見えない。
でも生まれたての太陽が、水平線にかかる雲を下から強力に照らしており、空と雲との輪郭がくっきりと力強く見える。
それはまるで、オレンジ色のキャンバスに赤鉛筆で雲の線を描いているようだった。
その光景は、絵画の中に飛び込んでしまったかのような錯覚に陥る。
寒さを忘れ、立ち上がり、あの雲がかかる水平線の明るい一点をジッと見つめていた。
孤独で無心だった。

6時30分
太陽に照らされた雲の輪郭が、ぼやけ始めた。
雲を突き破ろうとする太陽の昇る速度は速い。
つかの間、太陽の新しい一筋の光が、矢のごとく胸元へ注がれた。

このとき、絵画ような世界から現実世界へと一気に引き戻された。

まるで絵画のよう

寒いし帰ろう。
キンキンに冷えた体を風呂で早く温めたい。美味しい朝食も待っている。
鳥の鳴き声を聞きながら、一日が始まる。


この世に生を受けて以来、1日1回は必ず日が昇る。
こんな毎日の当たり前の出来事に対して、非現実感、非日常感を抱くのはなぜだろう。
そして感動するのはなぜだろう。

如何に日常が、自然というものから離れているのだと実感させられる。
朝起きて、会社に行き、帰宅する。
これは社会生活を送るうえでは、人間としてよくあることだが、そこに自然が入り込むことは少ない。

養老孟司氏も、著書の中で社会が高度がしたことで「自然はないものとされている」「自然には社会的・経済的価値がない」「自然が現実ではなくなった」と指摘している。(”ものがわかるということ”,養老孟司,祥伝社,p41)。
そういえば、ヘンリー・D・ソローの「森の生活」も孤独に自然を見つめ、生きる意味を考えさせられる名著だ。

いつからだろう。
自然を探しに行かないといけなくなったのは。
いつからだろう。
いつも難しいことを考え、面倒な人間関係に悩まされるようになったのは。

そうでなく、自然がそこに現実としてある。
丁寧にゆっくり。
ヒトでありたい。
そう切に思った。

波と日の出



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