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縁と円

平川克己著「21世紀の楕円幻想論」を読了。

寒かったので熱燗を飲みながら、知人を西小山の居酒屋で待ちつつ、いつの間にか読み終えていた。

「その日暮らしの哲学」と副題が付されていたが、その日暮らしの哲学というよりも、現代の消費社会が著者ならではの見識と見解で分析されており、「よりよく明日を生きる哲学」が記されていた。

筆者は早稲田大学の理工学部を卒業後、翻訳を主業務としながらも、会社経営を行っていたが、現在、会社は清算し、珈琲店店主を行っているとのこと。

この書の骨子は、貨幣(円)の普及により、我々が生きる消費社会は爆発的に加速していったが、その結果、人間関係の基本モデルが崩壊しつつあるという事を丹念に紐解いていったところだろう。

資本論や文化人類学のいくつかの書を通じて、既知の事ではあったが、現代の日本社会の例を挙げながら、丁寧に解説されていたので、腑に落ちる点が多かった。

貨幣(円)とは等価交換の道具であり、個々のもつ価値を迅速に交換することが出来るようになったが、反面、互いの関係性をドライに分断する機能があり、この関係性を断つ機能こそが、現代日本の無縁社会につながっているという点は大いに頷けた。

濃密な地域共同体や家族のしがらみがあった有縁社会から、面倒なしがらみや束縛はないが自己責任という名のもとに社会からの疎外者を大量に生み出す無縁社会。

そして、著者は「有縁」「無縁」どちらが正しいのか、悪いのか、是々非々を問うのではなく、どちらも認めることをゆるやかに提唱していた。

また、現在、我々がどのような社会にいるのか、卑近な例を交え、丹念にわかりやすく語っていた。

花田清輝のエッセイ「楕円幻想」を通じて、著者は以下のような事も記していた。

花田が言っていいることの意味は、相反するかに見える二項、これまでわたしが言及してきた言葉でいえば、「縁」と「無縁」、田舎と都会、経験と猥雑、死と生、あるいは権威主義と見主主義という二項は、同じ一つのことの、異なる現れであり、そのどちらもが、反発しながら、必要としているということです。
どちらか一方しか見ないというのは、ごまかしだということです。
ごまかしが言い過ぎだとすれば、知的怠慢といっていいかもしれません。
ここで、「同じ一つのこと」とは、何を意味しているのか、それが問題です。
ひとは、完全な縁、つまり一つの中心しか持たず、その中心から等距離にある点が描く図形に憧れるものです。
日本国を象徴する日の丸は真円です。
大相撲の土俵も、日本人が描いてきた十五夜の月も、太陽も真円でなくてはならない。
真円でないとかたちが整わない。落ち着かない。
二つの焦点によって規定された点の軌跡を、どっちつかずで、あいまいで、優柔不断なものだと思いたい、という性向があります。
二つの焦点を持つということは、たとえば人間の生と死が描き出す人間模様を、同じ一つの図像として眺めるという態度です。
生きている人間よりは、死んで動かなくなった人間を観察して、これが人間というものだという判定をしたほうが、分かりやすいのです。
しかし、生きているということ、現実というもの、現場というものは、そういうふうにわかりやすくはできていません。対立しているかのように見える二つの事象は、同じ一つのことが生み出したものであり、一方だけを見てわかったつもりになるというのは、ただ、「そのように見たい」という人間の性向を示しているだけで、現場に降り立って、注意深く観察すれば、そこにはもう一方の見えない引力がつくる磁場が見えてくるはずです。人は円の亡霊にとり憑かれたいのです。

ややもすると、この二項対立的な真円思考で自分も物事を図りがちだ。
前職においても、この硬直した思考で二者択一を迫られ、迫りもしてきた。

読み終えた頃、待ち合わせしていた知人がやってきて、久しぶりの会話を楽しみ、別れたのだが、ふと帰りの電車でこの書とその知人が不思議とつながった。

前職において所属も異なり、さほど関りもなかった知人だったのだが、自分と自分の上司の折り合いの悪さを見かねて、その知人にとって何のメリットがないにも関わらず、助けてもらったことがあった。

その時の印象は強烈で、いまもなお鮮明に覚えているのだが、なぜ覚えているのか、本書の言葉を借りると、そこには「交換(合理)」ではなく、「贈与(不合理)」があったからであろう。

思えば、特に合理性(円)を追求する前職の企業において、常に顧客に対して、不合理(縁)を提供し続けていた知人であった。

自分はそれがポーズ(見せかけ)だと思っていたのだが、実際にはそうではなかったのだ。

そして、なおかつ、合理性(円)も両立させ、成果もあげていた。

まさに、矛盾する2項を両立させ、本書で言うところの、楕円幻想を実現させていた。

そして、現在は自ら会社を創業し、円と縁の両立を体現していることが、僅かな会食の時間ではあったが、十分にみてとれた。

縁と円、自分自身も負けずに磨いて行きたい。

そう思える夜であった。

縁と円 人をつなぐは その愛か はたまた銭で 繋がらしむか 





人の世に熱あれ、人間(じんかん)に光りあれ。