平等が嫌い
平等が嫌いだ。
平等が好きな人、平等を声高に謳う人も嫌いだ。
人の能力や出自、個性はそれぞれ異なり、これを平等にすることは不可能だ。
こういった自明の事を無理やり平等な方向へと押し進めようとする馬鹿は手に負えない。
大抵「かわいそう」だとか「やさしくない」という耳障りの良い言葉を口にするのが特徴の輩だ。
自分の嫌いな学校教育ではこれがとても多くみられ、その洗脳を受けてきた「いい子」たちが社会でもまだ、幅を効かせていると感じるのは自分だけだろうか。
世界は過酷で残酷な一面がある。
だからこそ、中途半端な平等を謳うよりも、現実を見据え、公平、公正を志していくことが重要だと自分は考える。
「平等」「公平」「公正」が同義として捉えられやすい所も問題であるが、英語にしてみると、かなり違いが明快だ。
平等は「equality」で、みんな同じということ。
公平は「fairness」 偏りや、えこひいきのないこと。
公正は「equity」 正しいとされることであったり、社会の秩序維持に適うことだ。
「equality」はみんな同じということなので、これが厳格に適応された社会は自分にとって恐怖に他ならない。
みんな同じということは全体主義、没個性であると同義だからだ。
「fairness」や「equity」の完全な実現も不可能だ。
しかし、だからこそ、それを目指すことは貴いことであり、重要だと考える。
キング牧師やネルソン・マンデラ、水平社の偉大さはここにあり、ひ弱な平等ではなく、勝ち取ることが困難な「equity」、公正を追い求めた所にあると思う。
か弱きもの、劣っているものを助けるのは人として当然の事であり、弱さや障害を個性といって理想を謳い、権利や平等を求める人たちの偽善や欺瞞には辟易してきた。
そして、こういった高い理想を謳い、掲げる人々の特徴として、すぐ目の前で困っている人を素通り、もしくは見なかったことにしているのがほとんどだった。
また、平等は或る意味、簡単に手にすることができる。
それは目に見える範囲の中で、最も下位のものに基準を合わせ、遇すればよいのだ。
公教育ではこれが非常に多かった。
しかし、公正さ、正しさを手にすることは難しい。
正しさに正解はないからだ。
常に揺らぎ、個々により、社会により異なっている。
故にそれを目指し、戦う人を心から尊敬する。
ただ、俺、個人としてはもう、平等も公正さも目指すことはやめにしている。
ある時より、自分の欲する高さを目指して、一人で行くしかないのかと腹を括った。
社会に対して、平等も公平も公正も求めない。
1人でゆく。
1人でやる。
平等であるより、ただ、誇り高く、孤高でありたい。
ひとひとりいきてたかみをきわむればししてあとへとつづくものあり
人の世に熱あれ、人間(じんかん)に光りあれ。