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戦前名古屋におけるジャズの普及展開(2)映画館の奏楽について〜大須世界館と赤坂幸造③
(前回の続き)
世界館ジャズバンドの活躍
世界館ジャズバンドは、1926(大正15)年6月10日の初演奏後、7月8日に第2回ジャズバンド演奏を行い、8月4日にはJOCKのラジオ放送で「フー」「ハーモニーラーダ」「銀色に光る流のほとり」の3曲のフォックストロットを演奏している。その後も、休憩奏楽やラジオ放送への出演などで実践を積み重ね、ジャズの演奏技法やフィーリングを体得していったことと思われる。1927(昭和2)年7月19日の名古屋新聞の映画欄には、名古屋の常設館の中でも奏楽に定評のある千歳劇場、港座と比較して、世界館の奏楽をジャズになぞらえるファンの投書が掲載されている。
三館音楽評 千歳―静かなセレナーデといった感じ、少し高級的な嫌ひはあるがスマートな一級館らしい落着きと品格と権威をもっているのは流石である 世界―陽気なジャッズといった感じ、大衆的な所がこの館の強みである。和洋合奏、接続曲などは皆よし、選曲の当を得ていることは三館一であろう 港―のんびりとした芝居気分の日本的な感じ時代劇にふさわしい三味線の情調など嬉しいものである家族同伴の一夕の映画見物には以ってこい寛いだ親しみある音楽を聴かせてくれる
また、この当時の映画には、流行のカフェーやバー、ダンスホールなどの風俗を取り入れた作品か増えてきており、世界館ジャズバンドの伴奏は、こうした映画の世界に彩りを添えるものとして大きく作用したであろう。1927(昭和2)年8月に公開された松竹蒲田映画「近代女房改造」(池田義信監督、栗島澄子主演)では、ダンスホールでフィリピン人のジャズバンド[注1]の演奏シーンかあり、その場面で世界館ジャズバンドの伴奏が大いに効果を発揮したと伝えられている[注2]。
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(1927(昭和2)年8月19日『名古屋新聞』)
そして、翌年の1928(昭和3)年4月、大阪松竹座で上演されて大ブームを惹き起こした「道頓堀行進曲」が名古屋松竹座へやってくる。「道頓堀行進曲」は、映画の合間に上演された岡田嘉子一座の小芝居で、特にテーマ曲の「道頓堀行進曲」(日比繁三郎作詞、塩尻精八作曲)は全国にジャズの知名度を一気に拡げるほど大流行し、名古屋でもジャズが一般に認知される契機となった[注3]。
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(1928(昭和3)年4月3日『名古屋新聞』)
この名古屋松竹座の公演と全く同時に、松竹蒲田が映画化した「道頓堀行進曲」(野村芳亭監督、松井千恵子主演)が世界館で公開されている。道頓堀行進曲の人気にあやかった便乗商法であろうが、名古屋新聞の殿島蒼人は松竹座の実演と映画版の両方を観たうえで、映画版の方に軍配を上げ、特に伴奏で赤坂幸造の果たした役割に最大級の賛辞を与えている。
蒲田の「道頓堀行進曲」―よくもかばかり無内容な新派劇が作れたもの、してまたよくもかばかり映画的に当代のカフェ情調を写し得たものである・・・(中略)かうした間にも世界館楽長赤坂幸造氏は、腋と額にぽたぽたと汗を流して、経費節減のため八名となったバンドを、指揮棒にて張り倒すがごとく、そっと撫でるがごとく、或は突如目を光らして眺めると見るやまた突如として日向ぼっこの猫のやうに目を細くして「いい子だいい子だ」てな手つきであやしたり、大の字、棒立ち、千変万化、秘術をつくして指揮八苦(シャレです)奏で出だされるは、調べもかなしき道頓堀行進曲!これが、私はあへて特筆大書したいのである。なんと赤坂幸造氏は名演出家であるかよ、タカの知れた小唄映画の伴奏にさへ、彼の凝り性と名人気質は石油成金の夢に現れた油田の大噴騰のごとくに條々として発露するのである。野村芳亭が赤坂幸造の存在を大きく頭に描いてこの写真を作ったのではあるまいか、たしかにそれに違いないと、思はれるほど、それは尾張名古屋が城をもつ以上に「道頓堀行進曲」は赤坂幸造の伴奏で持っているのである。しかも赤坂幸造は「道頓堀行進曲」で持っちゃいないから、彼は名演出者なのである。
殿島の赤坂贔屓を差し引いたとしても、他愛のない小唄映画に過ぎない「道頓堀行進曲」に、伴奏によって新たな生命を吹き込むことができたのは、名古屋ではジャズに最も長けた赤坂幸造をおいて他にいなかっただろう。そういう意味で、この映画が世界館で公開されたことは運命的だったといえる。しかも、映画「道頓堀行進曲」は赤坂幸造のために作られたとまで言わしめたほどの感動は、赤坂のいる名古屋市民にしか体験できないこどであり、名古屋以外ではこの映画にこれほどの高い評価は与えられたであろうかとさえ思うのである。
それにしても、殿島をこれほど興奮させた赤坂幸造の率いる世界館の演奏とは実際にどのようなものだったのだろうか。地元のアサヒ蓄音器(ツルレコード)に世界館管絃楽団の吹込はあっても良さそうだが、管見の限りでは存在しておらず、確認できないのが残念である。
豊富館管絃楽団
この頃、赤坂は、世界館だけではなく、名古屋円頓寺にある豊富館の楽長も兼務している。豊富館は、明治時代からの芝居小屋である笑福座を前身とする大雲劇場(1918(大正7)年3月開場)を須崎喜代治が買い取り映画館に改築し[注4]、1920(大正9)年10月31日に開館した。しかし、1924(大正13)年8月11日、映画試写室からの発火により全焼し、新たに建て直されて、1927(昭和2)年3月15日に再び開場した。この時、豊富館管絃楽団の楽長に赤坂が就任している。開館披露では、世界館管絃楽団との合同演奏で盛り上げている。ジャズを披露する時には、豊富館ジャズバンドを名乗った。
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(1927(昭和2)年9月15日『新愛知』)
豊富館は、当時の常設館にしては珍しい鉄筋コンクリート造で、当時の新聞には「壮麗なる外観にも劣らぬ内部の新設備、東京市内でもこれくらい立派な常設館はかぞへるほどしかない」と謳われた[注5]。戦災を免れ、戦後は須崎喜代治の実子、喜久雄[注6]が館主となり経営を引継ぎ、円頓寺の名物映画館として永く親しまれたが、1982(昭和57)年に建物は解体された[注7]。
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(1927(昭和2)年3月11日『名古屋新聞』)
このように、ジャズの流行に乗って、名古屋の映画館における存在感をますます高めていった赤坂幸造であったが、築いてきた名声を灰燼に帰しかねない危機がもう目の前に迫っていた。発声映画、いわゆるトーキーの台頭である。
楽士の解雇のはじまり
映画館の楽士の受難は、まず1929(昭和4)年に現れる。同年5月30日の新愛知に、「楽手さん 恐慌時代来る」の見出しで、常盤劇場のオーケストラ解散の記事が伝えられている。
東京の映画常設館では発声映画問題と共にレコード伴奏流行し、映画伴奏楽手は一大恐慌を来しているが、この潮流に依って相当地方の大都会も影響を見ると予想されていた折柄、名古屋市萬松寺境内常盤劇場でこの方法を東海第一に着手することになった。これはビクターエレクトラを取付け世界の名曲レコードを伴奏として映画を映写するのであるが、近代の観客の音楽常識発達し来った際とて頗る好評を博し、且つ常設館も経済的に有利なので東京では各館相次いで用いられているが、名古屋常盤劇場でも直ちにこの方法に着手の計画を立て、従来のオーケストラ部員に本月中を以て解散の旨を言い渡したが、更にオーケストラ代表者の板津楽長と事務所側と協議した結果、延期し六月十五日を以て解散、直にレコード演奏を行うことに決したが、これが実現の上は中京映画界に多大のセンセーションを捲き起すものとなるべく、又一方この方法流行の際は楽手の失業問題なども併記するわけで相当重要視されている。
片岡一郎『活動写真弁史』によれば、この頃、東京では、浅草電気館が蓄音器を設置してレコードによる伴奏音楽を開始したのを皮切りに、他館が追随する動きが強まっていた。また、同年5月には初めてのトーキー映画が新宿武蔵野館で上映されている。昭和金融恐慌のあおりも受け、名古屋でも映画館経営主による経費節減を目的とした楽手の解雇が始まったのである。常盤劇場は、武蔵野館にも比せられた高級常設館として2年前に開館したばかりで、楽長の板津文一は世界館管絃楽団の出身であることから、赤坂幸造にとっても他人事ではなく、胸を痛めたことであろう。なお、板津はこの後、楽士を廃業し、中区大池町で楽器・楽譜卸商を開業している[注8]。
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(1927(昭和2)年5月28日『名古屋新聞』)
さらに、常盤劇場に続いて、名古屋の映画館の草分けである大須の文明館も、同年6月16日に音楽部員を解雇して蓄音器伴奏に転じる[注9]。しかし、名古屋の映画館の蓄音器導入の動きはこのくらいに留まり、大きな潮流にはならなかったようだ。映画館では楽団の生演奏を聴きたいという観客のニーズは、まだまだ根強かったと思われる。
(この回、④へ続く)
[注1]青木学『近代日本のジャズセンセーション』では、このバンドはアルカンタラ・ジャズバンドであることを雑誌『蒲田』からの引用で示しているが、1927(昭和2)年9月8日『名古屋新聞』には、千歳劇場のカールトン・ジャズバンド公演を紹介する記事で「蒲田作品、「近代女房改造」」に出てくる舞踊場のパンドはこの連中です」とあり、食い違いがみられる。
[注2]1927(昭和2)年8月24日『名古屋新聞』
[注3]道頓堀行進曲のブームを受けて、名古屋でも「広小路行進曲」が製作され(平井潮湖・北島紫月合作、森下利幸作曲)、1928(昭和3)年6月12日にJOCKでピエロット管絃楽団の演奏により放送されている。
[注4]1924 (大正13)年8月12日『名古屋新聞』
[注5]1927(昭和2)年10月30日『名古屋新聞』
[注6]『大衆人事録 第22版 東日本篇』によれば、須崎喜久雄は1923(大正12)年1月2日生まれ。1948(昭和23)年に慶応大学を卒業。豊富館、笠寺松竹劇場の経営主となった後、戦災で焼失した東宝大須劇場(父親の須崎喜代治が設立。建築中に死去)の跡地に名画座を開館した。1950(昭和25) 年、新世界興行株式会社を設立して社長に就任、映画興行の経営に永く携わった。後年は春日井市に居住。なお、名画座は大須に最後まで残った映画館であったが、Webサイト『消えた映画館の記憶』によれば、1988(昭和63)年、須崎喜久雄の死去に伴い、閉館した。
[注7]円頓寺商店街新興組合『円頓寺商店街のあゆみ アーケード設立50年を迎えて』
[注8]1929(昭和4)年7月11日『新愛知』
[注9]1929(昭和4)年6月12日『名古屋新聞』
〈見出し画像〉
「道頓堀行進曲の歌」宣伝チラシ 筆者所蔵
〈参考文献〉
青木学『近代日本のジャズセンセーション』2020年 青弓社
国立劇場近代歌舞伎年表編纂室編『近代歌舞伎年表 名古屋篇 第十巻』2016年 八木書店
『円頓寺商店街のあゆみ アーケード設立50年を迎えて』円頓寺商店街新興組合
帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第二十二版 東日本篇』1962年 帝国秘密探偵社
小林貞弘『名古屋の映画館の歴史 一九〇七―二〇一八』2019年 河合文化教育研究所
片岡一郎『活動写真弁史』2020年 共和国
田中総一郎『日本映画発達史Ⅱ 無声からトーキーへ』1980年 中央公論社 国会図書館デジタルコレクション
『新愛知』新愛知新聞社
『名古屋新聞』名古屋新聞社
〈参照Web〉
かんた『消えた映画館の記憶』