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戦前名古屋におけるジャズの普及展開(1)大正時代の外国人によるジャズ公演②
(前回の続き)
カリフォルニア大学グリークラブ(1922年6月 愛知県会議事堂)
これまでに紹介した外国人演芸団の公演は、いずれも演目に「ジャズ」と明記されておらず、あくまでジャズが演奏された可能性があるに過ぎない。
明示的に「ジャズ」が演目として確認できる公演は、1922(大正11)年6月15日、愛知県会議事堂でのカリフォルニア大学グリークラブの音楽会で、おそらく名古屋では最初のジャズバンド公演である。
カリフォルニア大学グリークラブは、青木学『近代日本のジャズセンセーション』によれば、1920(大正9)年にも来日しており、今回が二度目の来日公演となる。初来日の時は、東京、横浜、大阪などで公演を行ったが名古屋には立ち寄っておらず、今回が名古屋は初お目見えであった。主催は日本蓄音器商会で、来日した際にレコード吹込みも行っており、レコードの宣伝も兼ねていたものと思われる。
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(1922(大正11)年6月15日 『新愛知』)
新聞記事によれば、演奏会の曲目は以下の通り紹介されている。
[一]印度の歌(ジャズバンド)[二]金色龍[三]アイリッシュ薔薇(サクサフォン・ソロ)[四]アウト・ホエヤ・ゼ・ウエストビギンス[五]アイブ・イン・ゼ・セラ(バスソロ)[六]インヴイクターズ[七]歌及舞踊[八]サクサフォン四部合奏[九]四部合唱[十]スナイダース・バンド[十一]ポロチイス(ピアノ独奏)[十二]ソングスアンド[十三]ジャスバンド[十四]大学の歌
1922(大正11)年6月17日の新愛知に、「グリークラブを聴く」の見出しで、演奏会を観覧した記者のレポートが掲載されている。
十五日夕、県会議事堂にカリフォルニア大学グリークラブの音楽会を聴いた。夏の夜に相応しい軽快な、そして華麗な楽の音は聴衆の魂を陶然と酔わせるに充分であった。サクサフォンという珍しい楽器、悪ふざけにならないソングエンドダンセスなど見た眼にも面白く、始めから終りまで若々しい元気の溢れた愉快な近来に無い肩の凝らない音楽会だった。中で光って見えたのはピアノの弾き手とサクサフォンソロをした学生バスの唄い手などだった。
ジャズを軽快で若々しく、肩の凝らない音楽として好意的に受けとめており、当時、洋楽といえばクラシック音楽を指すといわれた時代に、始めてジャズに接した記者の率直な印象が伝わってくる。
萬国街大演芸団(1922年9月 御園座)
次いで、1922(大正11)年9月9日から3日間、御園座で開かれた萬国街大演芸団の公演にジャズバンドの出演が確認できる。
平和博で人気を集めた萬国街大演芸団は愈々本日午後六時から御園座で開演するが、呼物は人間同様鮮やかに曲芸を演ずる二頭のオットセイで、ロープ渡り毬受け、階段登り、喇叭吹奏等目覚しい技芸をもって居る。演芸種目は(中略)
独唱ハワイ俗謡(モケラ氏)ロプの操縦(カーボーイ)筋肉?動ダンス(カザリン嬢)ジャズバンド(アタウト氏一行)フラフラダンス(ヘレンモケラ嬢)チヤプリン二世(ロング氏)ニグロダンス(スミス氏一行)射的(カーボーイ)サロメダンス(カザリン嬢)オットセイ大演技等
* ?は判読不能
萬国街大演芸団は、同年3月10日~7月31日に、東京で開催された平和記念東京博覧会の展示施設「萬国街」に出演していた演芸団と思われる。平和記念東京博覧会は、第一次世界大戦の終結を祝うとともに、大戦を機に発達を遂げた我が国の産業の成果を内外に示すことを目的に、上野公園を会場に開催された大規模イベントで、当時、博覧会としては過去最大の1.1千万人の来場者が訪れた。萬国街は、博覧会の目玉の一つであったと言われている。
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(筆者所藏)
当時の雑誌記事には、萬国街について下記のように紹介されている。世界各国の舞踊や音楽、曲芸などのショーが売りものであった。
櫛引弓人、和田守菊次郎両氏の出願で各国の美人を集めてダンスをやるのみならず、日本美人の歌劇「萬国街」が呼物である。またアラビヤン大魔宮殿では美人が空中で楽を奏する、其他布哇のカナダ踊、ジヤンダーク嬢の最後、自転車の空中飛行といふ奇抜なものや、歌を唄ったりタイプライターを叩いたり計算したりする,。
出願者の櫛引弓人は、これまでに数々の博覧会で海外との交渉を手掛けた大物興業師として有名である。また、和田守菊次郎は、元々弁護士で、明治20年代に記憶術で一世を風靡したが、この時期は興業師として活躍していた。
萬国街は、世界各国の舞踊や音楽、曲芸などのショーが売りもので、中でもオットセイの曲芸は人気があった。このショーの中に、ジャズバンドが含まれていたらしい。アタウト一行の詳細は不明であるが、1922(大正11)年9月10日の新愛知の公演記事には、「数人のものが曲芸をやりつつ奏する楽が一種の音楽として立派に調をなせるジャズバンド」との記述があり、アクロバティックなジャズ演奏を披露した様子が伺える。
松旭斎天勝大一座(1926年4月 末廣座)
この後、暫くの間、名古屋でジャズバンドが出演した公演記事は途絶えて、次に確認できるのは、1926(大正15)年4月10日から15日まで開演された松旭斎天勝の末廣座公演である。天勝は前年、1年に渡るアメリカ巡業から帰国し、本場仕込みのジャズやダンス、寸劇などを目玉に国内各地で巡業していた。
座員中、花形女優は美代子、かめ子、しげ子を始めとしてアメリカ巡業に加わった十余名、男優はお馴染みの土井平太郎 三好今太郎 早川畯二に今回新たに加入せる歌劇界の第一人者杉寛 黒木憲三 花井敏郎等、特にアメリカ土産として欧米一流のピアニスト、フレデリックオクネッフ氏、声楽のオクネッフ氏夫人及び美人舞踊家として有名なるヴァジニア嬢を招聘し、其の外ジャズバンドは本場の布哇より八名呼寄せ内容の充実せる大一座で道具背景装置等凡て新調輸入せるものであると
初日の新聞に掲載された演目は、下記のとおりである。
1ジャズ音楽、数種 ジョセフ・カーバロー・カンパニー 2ジャズ舞踊 、数種 ヴァジニア嬢娘子連 3少女独唱 4サキサホン合奏 5 ヴァイオリン・ソロ 土井平太郎 6独唱大小奇術 天勝 7新舞踊 オーキャソ・リーナ娘子連 8同ツカン・スキー 永末サム 9同奇術柱抜き かの子 10寸劇(欧米流行の諷刺芝居)自動電話室、曽祖父まで、有りそうな事、君にも一杯、魂消た人形 天勝一座総出演、16曲芸 林東洋、金花 17独唱 ミセス・オクネッフ 18ピアノ・ソロ フレデリック・オクネフ 19日本踊りカッポレ ヴァジニア嬢 20封切大魔術 天勝 21番外としてオペレット 地獄祭り二場
天勝の帰朝公演は、昨年6月の帝劇公演から始まり、当初、ジャズバンドは米国巡業から連れてきたカール・ショウ一座であったが、しばらくして大半のメンバーが帰国してしまい、その後は、ハワイからダン・ポキバラ、ジョー・カバレロ(カバ ロという表記もある)、ジョニー・ハーボトルなどが参加したと言われている。本公演のジョセフ・カーバローは、ジョー・カバレロのことではないだろうか。
4月13日の新愛知の記事では、初日から大盛況であることを伝え、「近ごろはやり出したジャズバンドにしろダンスにしろ美しい連中揃いであるだけに見ていても心地よい座興を与える 寸劇も気の利いた皮肉を盛り込んだもので微苦笑を禁ぜしめる」と評している。その後、天勝は1927(昭和2)年1月に末廣座、1928(昭和3)年1月に新守座でもジャズバンド(いずれもダン・ポキパラ一行)を連れて来名しており、名古屋の人たちにジャズの認知度を高めるうえで、大きな貢献を果たした一人といえるだろう。
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(1926(大正15)年4月8日 『名古屋新聞』)
大正時代の名古屋における外国人のジャズバンド公演は、確認できる限り、これが最後である。
以上より、名古屋でジャズバンドを目に触れた可能性のある外国人の公演について列挙したが、ジャズが本格的に全国へ広がりを見せ始める大正末期以前、1921(大正10)〜1922(大正11)年に公演が集中している点は注目される。ただ、この時期の公演に関しては、カリフォルニア大学グリークラブを除き、ボードビルやサーカスなどの演目の一部として組み込まれているものが多く、純粋な音楽というよりも、異文化の変わった見世物として扱われている印象を受ける。当時、名古屋は洋楽熱が高まりを見せていた時期であるが、洋楽といえばクラシック音楽を指すことが普通の感覚であり、見世物で演じられるジャズに対して、洋楽に携わる人たちが興味や関心を示す向きは少なかったと思われる。
一方で、カリフォルニア大学グリークラブの公演を報じた記者のように、おそらくはクラシック音楽と対比して、ジャズを若々しく、愉快で、軽快な音楽として好意的に受けとめていることは、後のジャズの行き方を予感させるものがある。
事実、ジャズは、単なる見世物芸にとどまらず、社交ダンスの流行とあわせて、音楽の一つのジャンルとして大衆的な知名度を獲得していくことになる。特に、1923(大正12)年9月1日の関東大震災後、大阪でダンスブームに火がつき、カフェーを改造したダンスホールが陸続と出現する。ダンスホールは、ジャズバンドが演奏する場所を提供し、ジャズを演奏するプレイヤーの増加をもたらす。ダンスの流行に感化され、ブラスバンドの演奏会や映画館の休憩奏楽などにおいても、ワンステップやフォックストロットなどがレパートリーに入り込んでくるようになる。さらに、1925(大正14)年に開始されたラジオ放送や、レコードなどを通じて、大阪だけでなく幅広い地域でジャズが一般大衆に耳なじんだものになっていった。次回からは、大正後期から昭和初期の名古屋において、こうしたジャズの普及がどのように展開されたか、具体的に述べていくことにしたい。
(この回、終わり)
〈見出し画像〉
萬国街大演芸団の写真 1922(大正11)年9月9日 『新愛知』 新愛知新聞社
〈参考文献〉
青木学『近代日本のジャズセンセーション』2020年 青弓社
藤野義雄『御園座七十年史』1966年 御園座
平和記念東京博覧会神奈川県出品協会『平和記念東京博覧会神奈川県出品協会事務報告書』1923年 国会図書館デジタルコレクション
東京博覧会協賛会編『平和記念東京博覧会協賛会事務報告書』1923年 国会図書館デジタルコレクション
『文化農報 第8号』1922年 文化農報社 国会図書館デジタルコレクション
星野高「松旭斎天勝のブロードウェイ・レヴュー 一九二〇年代日本の娯楽舞台におけるブロードウェイ・レヴューの影響について」『演劇学論集 日本演劇学会紀要』2022年 日本演劇学会
早津敏彦『日本ハワイ音楽・舞踊史〈アロハ!メレ・ハワイ〉』1986年 サンクリエイト 国会図書館デジタルコレクション
村松梢風『魔術の女王 近世名勝負物語』1957年 新潮社 国会図書館デジタルコレクション
大森盛太郎『日本の洋楽(1)』1986年 新門出版社
毛利眞人『ニッポン・スウィングタイム』2010年 講談社
瀬川昌久『ジャズで踊って 舶来音楽芸能史』2005年 清流出版
『新愛知』新愛知新聞社
『名古屋新聞』名古屋新聞社