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戦前名古屋におけるジャズの普及展開(2)映画館の奏楽について〜大須世界館と赤坂幸造②
(前回の続き)
世界館の奏楽について
服部弘は、先ほど引用した記事の中で、世界館が他の映画館の追随を許さないものとして、下足番制度とともに、世界館管絃楽団の存在をあげている。
世界館といへばまだ絶対に他館の追随を許さぬものがあった。それは赤坂幸造氏を指揮者とする世界館管絃楽団の存在と下足番制度の存置である。チョビ髭を生して燕尾服をつけた赤坂氏のタクトにつれて東西の名曲が流れでた世界館の休憩時間はちょっと愉しみなもので、当時のインテリさん達がその同伴者に「あゝ、ありゃア、君イ、ヨハン・シュトラウスの“碧きドナウ”だよ」とかなんとか囁いたものである。
1946(昭和21)年10月
実際、当時の映画館案内において、世界館の奏楽はアピールポイントの一つとして常に言及されるくらい定評の高いものであった。1927(昭和2)年10月30日の名古屋新聞「全国的に先駆せる中京の映画興行界 代表的常設館の紹介」と題された記事では、世界館について下記の通り紹介されている。
世界館には諸種のみ惑がある。一つは解説部の充実であり、一つは奏楽部の特長である。(中略)奏楽部は民衆楽人として中京ファンから愛慕されている赤坂幸造君のタクトによって十六名のオーケストラ部員が演奏しているが、その大半は陸海軍々楽隊出身者である。選曲の妙、演奏の絶佳は、常に映画伴奏の標準として斯界に鳴っている。また間奏楽の大衆的なるは浅草帝国館のそれと併称されてファン滑仰の的となっている。
世界館の奏楽とはどのようなものだったのか。下記は、名古屋新聞のキネマ欄に載った無署名の記事であるが、名古屋新聞の名物映画記者、殿島蒼人の筆と思われる。
大衆音楽とでも名付けやうか、世界館の音楽はいつに変らぬ嬉しきものだ。どんな音楽のわからぬ人にでも、居眠りもさせず退屈もさせず、映画のことさへ忘れてしまって陶酔させる。妥協的だとか下等だとかいふ玄人評があるかも知れぬが、あれだけ聴衆を喜ばせている事実は動かせない。常設館の間奏楽といふものが映画鑑賞の目的に付随したものである以上は、音楽ファンを喜ばせるための高尚な音楽を奏楽することは考へものだ。ホンの少数の音楽ファンを喜ばせるために大多数の映画の映画ファン(映画を見るために入場した人達)を退屈させるという法はない。この意味で、多数の映画ファンを如何に喜ばせやうかに腐心している世界館のオーケストラは感心である。「燃ゆる情炎」の上映の時の「自動車旅行」、それから今週の「旅行鞄」など聴衆をすっかり狂喜させている。赤坂幸造先生の健康を祝し、ますます大衆のために解りよき嬉しき音楽を推奨されんことを祈る次第である。
殿島は世界館楽長の赤坂幸造を贔屓にしていたようで、赤坂を称揚する記事を屢々ものしている。
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(1926(大正15)年8月25日 『新愛知』)
映画館の紹介記事、殿島蒼人の論評とも、世界館の奏楽を評する際に、大衆的、大衆音楽といった言葉が使われている点が注目される。当時の洋楽ファンはインテリ層が中心で、洋楽といえばクラシック音楽と考えられている中で、世界館管絃楽団は、そうしたファンからは「妥協的」、「下等」とみなされようとも、聴衆を喜ばせることを第一とした選曲、演奏に重きを置いていたことが伺える。こうした世界館の大衆本位の姿勢は、当時最先端のポピュラー音楽であったジャズにいち早く取り組む素地を形作ったといえよう。
それでは、こうした世界館管絃楽団のアイデンティティを象徴する存在として、殿島蒼人から「民衆楽人」と評されている楽長の赤坂幸造とはどのような人物であったのか、探っていくことにしたい。
世界館と赤坂幸造の出会い
赤坂幸造について、生年月日や死亡年月を含め、何らかの経歴が記された文献や資料はこれまで見つかっていない。よって、断片的な資料によってわかる範囲の記述となるが、ご容赦いただきたい。
(なお、当時の文献や新聞記事では、苗字が「赤坂」、「赤阪」の異なる表記が混在しているが、本稿では「赤坂」で統一する)
東京芸術大学の「海軍・陸軍軍楽隊データベース 海軍軍楽隊在籍者一覧」によれぱ、赤坂幸造は愛知県出身、1909(明治42)年6月1日に入隊とある。また、1915(大正4)年11 月7日勲七等瑞宝章、同年11月10日大礼記念章とあることから、同年に挙行された大正天皇の即位の礼に、海軍軍楽隊の一員として参加したことがわかる。除隊年は不明。
赤坂の映画館楽士としての関わりについて初めて見出せる資料は、世界館が小林系列の直営となった1921(大正10)年3月11日の名古屋新聞に掲載された下記の記事である。
世界館革新興行
従来西洋映画専門として知られたる大須世界館は更に一進展為すべく、館主須崎氏は東都の小竹喜三郎氏と提携して東京浅草帝国館に封切さるる映画を直ちに上場し、尚奏楽に力を注ぎ説明も在来の様式を離れ新機軸を出すべく、赤阪帝国館主任、林天風を説明主任とし、之と共に西村楽天を始め国井紫香、金子晴洋を応援弁士として中京キネマ界に新記録を作り出すべし
[筆者注] 「小竹喜三郎」は小林喜三郎の誤字と思われる
この記事における「赤阪主任」が赤坂幸造である かはやや曖昧で、浅草帝国館に赤坂幸造が在籍したことを示す資料も今のところ確認できていないが、仮にそうだとするならば、赤坂幸造は世界館が小林直営となった時に、浅草帝国館から移ってきたことになる。柴田康太郎『映画館に鳴り響いた音 戦前東京の映画館と音文化の近代』によれば、浅草帝国館は銀座金春館と並び管弦楽団の拡充に力を注いだ代表的な洋画専門館であった。また、浅草帝国館は1921(大正10)年3月に松竹キネマの傘下に変わっておりタイミングが重なることから、直営化した世界館の奏楽体制の強化を図るため、浅草帝国館に在籍していた赤坂を小林が世界館に送り込んだと考えてもおかしくない。
赤坂幸造の名前が明らかに確認できるのは、1922(大正11)年9月7日『名古屋新聞』に掲載された中京連合管絃楽団の鶴舞公園での演奏会の記事である。中京連合管絃楽団は、前年、第三師団軍楽隊の解散により名古屋の管弦楽団が無くなったことを惜しみ、名古屋市内の活動常設館の楽士や陸海軍軍楽隊出身者が中心となり、1922(大正11)年6月に結成された。そのメンバーの中に赤坂幸造の名前が(誤字ではあるが)みえる。
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(1922(大正11)年9月7日『名古屋新聞』)
メンバーの中には、同じ世界館に所属した板津文一、加藤流調や、千歳劇場で活躍した中山義雄、宮島島吉などがおり、当時の名古屋の楽士の顔触れがわかる点で興味深い。中京連合管絃楽団は、同年6月29日に商品陳列所で第1回演奏会、9月9日に鶴舞公園奏楽堂で第2回演奏会が開催されているが、その後の動向は不明で、活動はあまり長続きしなかった模様だ。
世界館の音楽部員
この頃、名古屋でも映画常設館が奏楽に力を入れ始めていた。各館とも音楽部員は6〜7名ぐらいだったと言われており、世界館も赤坂が加入した時はそのくらいの人数だったと思われるが、徐々に体制を拡充し、1924(大正13)年には20名近くまで増強している。当時の楽団メンバーは、1924(大正13)年5月15日発行「世界館ニュース184号」によれば、下記の通りである。
指揮者 赤坂幸造
ピアノ 加藤流調
ヴァイオリン 平山紫峰、筒井藁邨、加藤誠二、大池清調
セロ 川端千種
ヴィオラ 余合仁三郎
バス 岩西四郎
フリュート 荒川秋三
クラリネット 奥村豊、原田隆雄
コルネット 山田順一、曾根邦二
スライトロッポン 細川武雄
フレンチホルン 堀川喜一
ドラーム 沖本静馬
チンパニイ 岸本民謡
オルガン 鈴木健
この当時、楽団の名称は小林大管絃楽団で、代表者は赤坂ではなく、加藤流調であった[注1]。メンバー中、赤坂幸造のほかに「海軍・陸軍軍楽隊データベース」で軍楽隊出身者であることを確認できるのは、バスの岩西四郎(海軍、1911(明治44)年6月入隊、千葉県出身)、ドラムの沖本静馬(海軍、1913(大正2)年6月入隊、広島県出身)のみである。また、ヴィオラの余合仁三郎は、正しくは余吾仁三郎で、名古屋のヴァイオリン奏者として戦前、戦後にかけて活躍した人物である。名古屋の鈴木バイオリンの創業者、鈴木政吉の三男で鈴木カルテットを率いた鈴木鎮一に師事し、戦前にはラジオ放送の出演や、アサヒ蓄音器商会にレコードを残している[注2]。戦後は、スズキ・メソードで知られる才能教育研究会の指導者として名古屋で数多くの音楽家を育てた。余吾が若い頃、映画館の楽士であったことはあまり知られていないため、貴重な事実である。
世界館管絃楽団の誕生とジャズへの接近
1925(大正14)年10月、世界館が松竹直営に変わったことを機に、小林大管絃楽団から世界館管絃楽団に名称を変更。楽長は、この頃にはもう赤坂幸造が務めている。先ほど引用した名古屋新聞の記事の通り、既に世界館管絃楽団の奏楽に対する評判は高まっていたが、一方でその時期、大阪や東京においてはジャズへの関心が急速に高まってきており、名古屋でもその影響が及び始めていた。
先鞭をつけたのはラジオである。ラジオは、1925(大正14)年3月に東京放送局(JOAK)で初めて仮放送が開始され、名古屋放送局(JOCK)では、1925(大正14)年7月15日にラジオの本放送が開始された。ジャズのラジオ放送は、東京や大阪(JOBK)が先行し、名古屋では同年10月31日に「JOCKジャズバンド」が「おもちゃの兵隊」「淋しいハワイ」「学生時代」など8曲を演奏したのが最初である。翌11月1日にもJOCKジャズバンドは7曲を演奏した。その後、同年12月13日には松坂屋音楽隊のメンバーによる「松坂屋ジャズバンド」、翌1926(大正15)年3月28日に「中京ジャズバンド」が出演している。これらの中で、素性がわかるのは松坂屋ジャズバンドのみで、JOCKジャズバンド、中京ジャズバンドはラジオ放送用に集めた即席のバンドではないかと思われる。
ジャズバンドと名乗っていないものの、フォックストロットやワンステップであれば、「オーション管絃楽団」が1925(大正14)年9月26日、同年10月3日にJOCKで演奏している。オーション管絃楽団もラジオ放送用の匿名オーケストラと思われるが、クラリネット独奏で奥村貞義、ピアノ伴奏で永田忠雄が出演しており、2人とも世界館管絃楽団のメンバーであることから世界館の楽士が中心であった可能性がある[注3]。映画館の楽団では、1925(大正14)年11月8日、12月10日に港座のミナト管絃楽団がJOCkに出演し、フォックストロットを演奏している。松坂屋音楽隊も、ジャズバンド名義ではないラジオ出演時にフォックストロットやワンステップを何度も演奏している。世界館管絃楽団は、この時期のラジオ出演は見当たらないが、休憩奏楽では下記の写真の通り、1925(大正14)年10月にフォックストロット「キャラバン」を演奏している。このことから、1925(大正14)年には、ダンス音楽の曲目をレパートリーに入れることが名古屋でも流行り始めていたことが伺える。
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(1925(大正14)年10月15日『新愛知』)
こうした中、クラシック音楽に比べて親しみやすく、大衆に支持がひろがり始めたジャズに対して、何よりも聴衆を楽しませる演奏を志す赤坂幸造が興味を示さないはずはなく、冒頭で述べた「名古屋最初のジャズバンド」の結成に駆り立てていく。関東・関西へ出向きジャズバンドを視察し、楽器や楽譜を調達して練習を積み重ねた結果、世界館ジャズバンドの初披露は、1926(大正15)年6月10日に決まった。その時の「世界館ニュース」には、「ジャッズ・バンド試演奏について」と題し、ジャズバンドの結成の意義が高らかに謳いあげられている。
今日八つの分類にある芸術形式の上に、音楽こそは最古の歴史と最高の位置を持つものである―。今や大衆の音楽に対する理解と、諸音楽芸術家の精神努力とは空前の『音楽黄金時代』を形成せんとしている。時にあたり―東海楽壇の権威なる我らが世界館管絃楽団は茲に新しく『ジャッズ・バンド』を編成し、軽快無比の音楽陣を張りて愈々諸彦の拝聴に適はんとす。 ジャッズ音楽の軽妙愉快なるは、すでに贅言を要せざるところ、聴者はその妙味に自づと四肢の乱舞するを知らざるべし。 欧米人士は今や全くジャッズに陶酔し、ジャッズに眩殺されジャッズ音楽は将に全世界を風靡せんとしている。 我が国に於ても東西両都にては漸く好楽家間に珍重せられつつあるも、わが中京に於ては只外国人のボードビル芸人によりて二三回演奏されしにとどまる。 即ち―名古屋最初のジャッズバンド―と云ふも未だその質に於て完全を誇るに足らず、只通俗なる二曲を選んでその演奏を試みるのみ。幸ひにわれ等がこの新しき門出に絶大なる御声援を贈られんことを!
1926(大正15)年6月
同じ『世界館ニュース』に、世界館ジャズバンドのメンバーが下記の写真の通り紹介されている。サクソフォン、トロンボーン、バンジョーなど、ジャズバンド定番の楽器に加え、マンドリンが入っているのが面白い。
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(『世界館ニュース 第34号』1926(大正15)年6月)
1924(大正13)年の小林管絃楽団には入っていないメンバーの中で、ヴァイオリンの板津文一は、軍楽隊出身(海軍、1909(明治42)年6月入隊、愛知県出身)で、赤坂に次ぐNo.2として世界館の奏楽を支えた実力者である。休憩奏楽では、しばしば木琴の独奏も披露した。1927(昭和2) 年5月、大須萬松寺に新築された常磐劇場[注4]の楽長に就任している。
世界館ジャズバンドは、あくまで世界館管絃楽団がジャズのレパートリーを演奏する時の変名であり、ラジオ放送でそれより前にジャズバンド名義の出演があることなども踏まえると、厳密には名古屋で最初のジャズバンドとはいえないかもしれない。しかし、人前で演奏する楽団の中で、名古屋で最初にジャズバンドを名乗ったという意味で、記憶に留める価値はあるだろう。
(この回、③へ続く)
[注1]『世界館ニュース 184号』に、「小林大管絃楽団 代表者 加藤流調」の署名で挨拶文が掲載されている。加藤流調の経歴は不明だが、『一宮市史』によれば、戦前に「大一宮行進曲」を作曲している。
[注2]戦前のSP盤復刻を数多く手掛けている、ぐらもくらぶのCD『大名古屋クラシック』所収のアサヒ蓄音器商会のディスコグラフィーによれば、余吾仁三郎は、アサヒ蓄音器商会の廉価盤レーベルであるルモンドに「アベマリヤ」、「ユーモレスク」2面のレコードを吹き込んでおり、「ユーモレスク」は本CDで聴くことができる。
[注3]奥村貞義は、1927(昭和2)年4月15日『新愛知』の世界館の映画広告に、音楽部のメンバーとして名前が載っており、奥村豊と同一人物と思われる。
[注4]常磐劇場は、小林祐蔵が設立した小林キネマ商会の直営で、洋画専門館として良質な欧州映画を中心に上映するなど、武蔵野館に比すべき高級映画殿堂として名古屋の玄人映画ファンを魅了した。その後、名称を常磐館に改め日活封切館となったが、1937(昭和12)年12月には名古屋に進出した吉本興業が経営権を取得し「常磐館花月ニュース劇場」と改称、映画とニュース漫才を売りにして観客を集めた。運良く戦災を免れ、戦後は「キャバレー・トキワ」として、進駐軍向けのダンスホールに転じた。
〈見出し画像〉『世界館ニュースNo.50』1922年3月14日発行 世界館ニュース社 筆者所蔵
〈参考文献〉
『映画サロン 第壹巻 第三号』1946年10月 戯場社
一宮市史編『一宮市史 下巻』1939年 一宮市
柴田康太郎『映画館に鳴り響いた音 戦前東京の映画館と音文化の近代』2024年 春秋社
『世界館ニュース 184号』1924年5月15日付 世界館ニュース社
毛利眞人 CD『大名古屋クラシック Classic in The Central City GREAT NAGOYA's TSURU・ASAHI Classical music collection 1929-1937』ブックレット解説 2016年 ぐらもくらぶ
『世界館ニュース 第34号』 1926年6月 発行者未記載
近代歌舞伎年表編纂室『近代歌舞伎年表 名古屋篇 第十七巻』2023年 八木書店
『映画サロン 第弐巻 第四号』1947年1月 戯場社
『新愛知』新愛知新聞社
『名古屋新聞』名古屋新聞社
〈参照Web〉
東京芸術大学「海軍・陸軍軍楽隊データベース 海軍軍楽隊在籍者一覧」