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人を不幸にする”ねたみ”心

「ねたみ」を漢字で書くと「妬み」「嫉み」です。
「妬み」は羨ましくて憎らしく、「嫉み」は羨ましくて悔しい、ふたつの漢字を合わせると「嫉妬」です。
「嫉妬心」は人間誰しもが持っている情念の中で最も根深いものです。
そしてそれは老若男女を問わずに起こるとても厄介なものです。
哲学者ラッセルはこう言いました。

「読者はある芸術家のことを別の芸術家の前でほめるという軽率なことをしたことがあるだろうか。ある政治家を同じ政党に属する別の政治家の前でほめたことがあるだろうか。もしあるなら、太鼓判を押してもいい、爆発的な嫉妬を誘発したはずである」

この比喩はじつにわかりやすいと思いませんか。
どんな人にも根深い「ねたみ」があるということです。
どんな人格者にもあるんでしょうね。当然ながら凡人のわたしにもあります。

自分自身の「ねたみ」発生に対する処方箋は、比較をやめるということしかありません。
ラッセルは、比較をやめることで不幸の原因である「ねたみ」を取り除くことができると考えました。しかしながら比較をやめるということができるんでしょうか。

「ねたみ」を埋め合わせる情念として、人間は賛美の念を持っています。
だから賛美することで、「ねたみ」を解決できるともしていますが、そもそも賛美したり褒めたりすることも、まだ何かと比較していることです。
「ねたみ」もやめる、賛美もいけないとなると、どうすりゃいいんだろうか?

そこでラッセルは、根本的な解決策として、目いっぱい楽しむことを提唱しています。
世の中、上には上が必ず存在するから、無益なことは考えないほうがいいし、さらにいえば、不必要な謙遜もやめなければならないといいます。楽しむとは、自分のまわりの小さな世界にとらわれず、もっとおおらかに発想し生きなさい、ということでしょうか。

それはねたまれている人にも言えることです。
たとえねたまれても、淡々とたえず大きな世界をみていればいいんですよ、ということでしょう。「ねたみ心」から抜けられない人も、ねたまれて苦しむ人も、大きな夢を持てばすべての「ねたみ」など吹けば飛ぶようなものだということですね。

しかしそれも難しそうですから、人間の人間らしい「ねたみ」にはほどよく付き合っていくくらいがわたしのような凡人には無難かもしれません。ほどよく「ねたみ」、ほどよく「ねたまれる」くらいがちょうどいいかもね。

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