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2023年9月裏磐梯旅行備忘録

日本三大天満宮を知っていますか。
天満宮とは、学問の神様菅原道真公を祀った天神様のことです。太宰府天満宮と北野天満宮が総本社とされるため、この2社は異論がありません。3社目は日本最古を称する防府天満宮を入れるのが一般的なようです。ただ、いくつもの異論があります。今回の旅の目的地のひとつ小平潟天満宮もそのひとつです。村上天皇の命で彫られた道真像を奉ることから三大天神の3社目という説があるのです。
6月に岩手県の八幡平に行って以降、酷暑を耐え忍ぶしかありませんでした。熱中症にならないように、体調を崩さないように、無理をしないで規則正しく生活するのが精一杯でした。そんな盛夏の終わりが見え始めた9月中旬、福島県の裏磐梯に行ってきました。
最近の一泊旅行の計画立案で何度も使ったことがある、インターネット検索の「泊まってよかった宿ランキング」を利用しました。見つけたのは福島県裏磐梯の「猫魔離宮」。異常な暑さが終わりかけているとはいえまだまだ平年より暑い日が続いている。メインの観光は屋内で絵画を鑑賞する諸橋近代美術館とした。これを軸に観光スポットをいくつか見つけた。
こうして出来あがった計画は下記の通りです。

1日目。自宅→東北自動車道→郡山JCT→磐梯猪苗代IC→小平潟天満宮→
道の駅猪苗代→土津神社→土津神社奥宮→諸橋近代美術館→猫魔離宮
2日目 猫魔離宮→磐梯ゴールドライン→各展望台→慧日寺跡→
道の駅ばんだい→磐梯河東IC→郡山JCT→帰宅

天候には恵まれました。最初の目的地、小平潟天満宮は猪苗代湖の湖水浴場、天神浜の名前の由来にもなっているようだ。リサーチで写真は見たが、全体像はつかめていない。少しの期待と、日本三大がっかり名所が脳内の奥の方、隅っこの方に浮かんでいた。札幌の時計台。土佐のはりまや橋。長崎のオランダ坂。いずれも過去に行ったことがある。共通して「えっ!これ?」という感想だった。
ナビゲーションシステムで猪苗代ICから一般道、そして狭い未舗装の道に誘導される。道の両側は松林。ところどころに広場がある。湖でのレジャーを楽しむためのボートやサップなどが並ぶ小屋がある。車も止まっている。視界に湖は見えないが湖畔を走っているようだ。一段と道幅が狭くなる。対向車が来ても離合は出来ない。注意しながら進んでいく。この先に本当に日本三大天満宮のひとつがあるのだろうかと不安になってくる。長く感じたが10分に満たない時間だった。パッと視界が広がった。木々の隙間から湖面が見える。大きな広場だった。どうやらここが天満宮の駐車場のようだ。11時7分、走行距離160.9キロメートルで小平潟天満宮着。




社殿は1682年(天和2年)に会津藩主松平正容によって造営された。御祭神は菅原道真。
小平潟天満宮の造営についての伝承がかかれた看板があった。948年(天暦2年)、近江国比良神社の神主・神良種が摂津国須磨で見つけた菅原道真の神像を持って旅をし、猪苗代湖畔に辿り着いた。良種はその地で休み、再び歩き出そうとして立ち上がった。しかし、道真の神像が急に重くなり動かなくなってしまった。よくみるとその地は須磨とよく似た景色であった。そのため良種はここを神像の鎮座の地とすることにし、天満宮を勧請した。このとき、小出方村という地名だったこの地を摂津国平潟にちなんで小平潟に改めたという。この菅原道真像は前年の947年(天暦元年)に村上天皇の命によって彫られたれたものでした。ところが何か問題か不具合があったのか新たに彫り直され北野天満宮に奉納したそうです。最初に彫った像は彫刻家が家に安置していた。その後何人かの人を経由して、近江国比良神社の神主・神良種が手にすることとなったようです。
一組の参拝者がいましたが、その後は誰もいなくなりました。この時期平日は社務所も無人のようです。猪苗代湖を背に、鳥居を潜って参道を進んでいく。規模は北野天満宮や太宰府天満宮、防府天満宮と比べようもないほどコンパクトだ。それでも、拝殿に向かって歩を進めていくと、自然と厳かな気持ちになってくる。気力がわいてくる。看板通りのパワースポットだった。参拝。心穏やかな気分だ。三大○○は脳内から消えていた。来てよかった。お参りできてよかった。
11時25分、次の目的地に向かって出発。


11時32分、走行距離164.5キロメートルで道の駅猪苗代着。ここで昼食。    12時31分発。





土津神社は2022年3月の旅行で初めて参拝した。その時は積雪で拝殿前に行くのがやっとだった。今回は、積雪で近づくのを諦めた奥の院、保科正幸の墓所も参拝できた。

2022年3月の参拝時の様子。一面の銀世界、積雪は15センチメートル程だった。
13時10分出発。
13時33分、走行距離184.8キロメートルで諸橋近代美術館着。


隅々まで手入れが行き届いた庭園。磐梯朝日国立公園内に5.5万平方メートルあまりの敷地があるそうです。洋風でゴージャスな造りの施設は、説明によれば「中世の馬小屋」というコンセプトのもと厩舎をイメージさせる建物だそうです。内部の展示ホールは、100メートル×20メートルで2000平方メートルの広さです。天井高は約9メートル、コレクションを展示するのにふさわしい空間となっています。神社仏閣とは違ったすこし華やかな雰囲気が味わえました。
スポーツ用品でおなじみのゼビオ株式会社の創立者 諸橋廷蔵(もろはし・ていぞう)(1934~2003)氏が蒐集した美術作品を保存展示しています。
「広く多くの方に西洋近代美術の秀作の数々を鑑賞し、感動していただきたい」という氏の意思で1999年に故郷である福島県の景勝地、会津磐梯高原に開館しました。
所蔵する作品は、ダリの絵画、彫刻、版画作品など約330点、印象派からシュルレアリスム期までの絵画作品約40点、英国現代作家PJ クルックの絵画約30点です。中心となるダリのコレクションにおいては、ダリ美術館(アメリカ・フロリダ)、ダリ劇場美術館(スペイン・フィゲラス)、ソフィア王妃芸術センター(スペイン・マドリード)につづく規模であり、アジアで随一のダリ所蔵美術館ということです。2時間ほどかけて作品を鑑賞しました。           15時26分、美術館を後にホテルに向かう。

15時35分、走行距離189.0キロメートルで宿泊するホテルに到着。

部屋から檜原湖が見えるローケーション、趣の異なる二ヶ所の温泉大浴場でロングドライブの疲れをいやす。

2日目。9時6分、ホテル発。磐梯山ゴールドラインを走って猫魔ヶ岳、厩岳山を越えて磐梯町方面に向かう。途中、いくつかの見晴らしポイントが用意されている。


磐梯山の爆烈火口壁が間近に見られる小金平。                                                9時21分。194.1キロメートル。
ゴールドラインの最高地点で、磐梯山や猫魔ヶ岳、雄国沼への登山口がある八方台。

最近になって遊歩道が付けられ、滝まで入られるようになった幻の滝。        9時49分。199.0キロメートル。

とび滝展望台、滑滝展望台、どちらも音は聞こえたが、生い茂る木葉で視界が遮られ滝は見つけられなかった。積雪期が終わり、木々が生い茂る前の短い期間だけ見えるのかもしれません。

眼下に広がる猪苗代湖の姿が一望できる絶景ポイントの三湖台。                 10時25分。201.6キロメートル。


慧日寺跡。10時47分着。走行距離211.5キロメートル。
慧日寺は平安時代初め、807年(大同2年)に法相宗の僧・徳一によって開かれた。徳一はもともと南都(奈良)の学僧で、布教活動のため会津へ下って勝常寺や円蔵寺(柳津虚空蔵尊)を建立し、会津地方に仏教文化を広めていた。842年(承和9年)に徳一が死去し、今与(金耀)が跡を継いだ。この頃の慧日寺は寺僧300、僧兵数千、子院3,800を数えるほどの隆盛を誇っていたそうです。源平合戦が始まると平家方に付いた。木曾義仲と信濃国横田河原で戦った際には、慧日寺衆徒頭の乗丹坊が会津四郡の兵を引き連れて駆けつけた。しかし、この横田河原の戦いで敗れ、乗丹坊も戦死し、慧日寺は衰退した。
その後、中世に入ると領主の庇護などもあり伽藍の復興が進み、室町時代には複数の伽藍とともに門前町が形成されていたようだ。しかし、1589年(天正17年)の摺上原の戦いに勝利した伊達政宗が会津へ侵入した際にその戦火に巻き込まれ、金堂を残して全て焼失してしまった。その金堂も江戸時代初期の1626年(寛永3年)に焼失し、その後は再建されたものの、かつての大伽藍にはほど遠く、1869年(明治2年)の廃仏毀釈によって廃寺となった。その後、多くの人の復興運動の成果が実を結び、1904年(明治37年)に寺号使用が許可され、「恵日寺」という寺号で復興された。
広大な寺跡は1970年(昭和45年)に国の史跡に指定された。慧日寺関連文化財の保存・公開や発掘調査の成果を展示する磐梯山慧日寺資料館が1987年(昭和62年)に開館した。また、2008年(平成20年)4月には金堂が復元され、一般公開されている。金堂の内部にはこちらも復元された薬師如来坐像が鎮座している。
12時46分出発。
道の駅ばんだい。12時22分着。走行距離212.3キロメートル。
ここで昼食。一休みして13時10分帰路につく。
途中、安達太良SAで休憩、15時43分帰着。通算の走行距離は386.7キロメートルでした。

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