とあるプリキュア論について、私のスタンスと反論 その5
《※2024年2月17日 主張はそのまま、大幅な加筆修正あり。事情は以下の記事にあります。
書き直す前に頂いた「スキ」の数:5》
KLPです。
今回も男の子プリキュア批判派の一部への反論記事第5弾です。
コンスタントにシリーズ化しようとしているわけではなかったのですが、今回は単に違う立場から反論したいというよりも、そのまま広まると困るいい加減な発信なども見えたので、抗議のつもりで書きます。
※ひろプリについての普通のレビューはこちらをどうぞ
情報の切り取り・印象操作
一部批判派の発言は、とにかく夕凪ツバサ/キュアウィングの批判で溢れています。
ただ、一つ一つ挙げるのにばかり熱心で、文脈の前後関係や、話全体におけるバランスを無視しているように見えることがほとんどです。
厳しい口調なら「邪魔だ」と言い、カッコいい言葉が出てくれば「優遇だ」と言い、女性陣とのやり取りはとにかく忌み嫌い……こうした批判には、そこに至るまでの過程も、割り振られた役割も関係がないようです。
何としてでもウィングの粗を探そうとしているのか、逆にウィングを見たくなくて流し見しているせいで断片的にしか捉えられないのか、どちらかは分かりませんが、ともかく情報の切り取りばかりが目立ちます。
そうして切り取っておきながら、「男の子がいるせいで話全体がおかしくなっている」とストーリーの流れや設定までつなげて批評したりします。中にはストーリー以外の、グッズ展開や各種ビジュアルイメージなど、戦略的な部分にまで話が及ぶこともあります。
しかし、これだけウィングにばかり気を取られていては、話が追えないのは当たり前ではないでしょうか。
悪く言ってやりたい気持ちが最初にあると、本当に何もかも悪く見えてしまうということをたまには思い出してほしいものです。
仮にウィングの行動に不可解さや問題があったとして(私には思い当たりませんが)、それは本当に「男の子」という要素に原因があるのか、ということは別に考えなくてはなりません。
男の子プリキュアがよほど気に入らないのは分かりましたが、引っ掛かったところをむやみに性別の問題とし、「男の子プリキュアがいるのは良くない」という話に持っていくのは論理の飛躍というものです。
「男の子プリキュアがいるのは良くない」という結論が先にあって、そこにこじつけているようにすら見えます。
人によってはキャプチャを証拠のように乗せた上で情報の切り取りを発信することもあります。
きちんと視聴していればどんな情報が切り取られたか分かるのですが、それこそ流し見しているようなライトなファンが「詳しそうな人がこんなことを言っている」と信じてしまわないかと心配です。下手すると印象操作になりかねません。
現実の問題とリンクしているか?
ウィングの行動というより、プリキュアに男の子がいることそのものを、「女性の権利の侵害である」という見方をしている人もいるようです。
例えば最近では、公衆トイレのうち、女性用だけがなく、男性用と共用という作りになっているものが増えていることが議論を呼びました。
ジェンダーフリーやバリアフリーを履き違えているのではないか、と問題視されています。
女性差別の議論で、一見平等のためにしていることが、かえって女性の権利を侵害してしまうということはたびたび指摘されています。批判派は男の子プリキュアがその現象に当てはまると捉え、「女の子だって暴れたい!」から始まったプリキュアは女の子だから意味があるのであり、男の子が入るのは平等ではなく女の子の活躍の場を奪うもの、と主張しているようです。
トイレの問題は私も気になっていますし、何のために女性用トイレが必要なのかを見失ってはいけないと思います。
トイレが男女別であるのは安全上の理由があり、もし共用トイレばかりになれば特に女性の安全が脅かされます。よってこの問題は、女性の権利に直に関わります。
対してプリキュアは、公式サイドはかなり前から男の子プリキュアがありうると示唆しており、男の子がプリキュアになることが直ちに女性の権利に関わるとは言えないと思います。
トイレのように、安全上の理由で女の子しかメンバーがいなかったわけでもありません。
プリキュアの根幹とされる「女の子だって暴れたい」は、突き詰めれば女性の権利につながりますが、男の子プリキュアのせいで女の子が暴れられなくなるわけではないことは以前述べました。
よって、現実の世界で目に見えて女性を脅かしている問題を、男の子に「プリキュア」と肩書きが付くことになぞらえるのは、私には違和感があります。
なお、あまりにひどいのでわざわざ載せたくない気持ちが勝ったため、具体例は挙げませんが、批判派は凶悪な事件と男の子プリキュア誕生がリンクしたかのように言ったり、ウィングが犯罪者であるかのように言ったりする発言もしています。
これは印象操作の中でもかなり悪質なもので、ツバサ/ウィングというキャラクターの、ひいてはプリキュア全体の評判を不当に下げかねない言説です。
批判的な感想を持っているからといって、作品そのものまでこんなふうに貶めるのは、本当のファンと言えるでしょうか。
プリキュアを熱心に見続けていることを表明し、意見の違う人をあげつらうほどの勢いで「プリキュアとはこういうものである」と主張しながら、しれっと限りなく嘘に近い情報を広めようとしていることは、プリキュアファンとしては看過できないものがあります。
「デパプリ以降がダメ」という結論
以前の記事で、批判派がブラックペッパーからキュアウィングを結びつけ、「デパプリ以降のプリキュアはダメだ」という結論を出すことへの反論を書いたのですが、この点でもう少し気になることが出てきました。
【はぐプリはどんな作品だったか?】
正式メンバーという条件をなくすと、初めての男の子プリキュアは、「HUGっと!プリキュア」で一時的に変身したキュアアンフィニ/若宮アンリということになります(諸説ありますが一番有力です)。
さて、以前も述べたように、批判派は時々、キュアウィングの布石としてブラペの他にキュアアンフィニも引き合いに出します。一時的な変身であり、ブラペのようにいつも参戦していたわけではなく、参戦頻度と「プリキュア」である事実のどちらを重視すべきかは微妙なため、あくまで「時々」なのでしょう。
とはいえ、批判派の間で話題に上るときはやはり批判にさらされていることが多いようです。
一方、前述のとおり批判派は男の子プリキュアの登場を女性の権利の侵害と見なします。
しかし、思い出してほしいのです。初の男の子プリキュアを誕生させたはぐプリは、どんな作品だったでしょうか。
女性の権利の侵害どころか、むしろ、プリキュアシリーズの中でも特に強く女性の生き方の自由を訴えた作品ではありませんでしたか?
はぐプリは元々「お母さん」がモチーフであり、プリキュアの様々な職業体験を見せたり、出産や育児といったデリケートな題材でさえも取り上げたりして、時に物議を醸してでも女の子にメッセージを送る内容でした。
その点で言えば、キュアアンフィニは数あるトピックのうちの一つに過ぎず、「男の子をプリキュアにしたから平等」などというような、安易なジェンダー意識で作られた作品ではありません。
つまり、はぐプリは男の子プリキュアと女性の権利を両立させた作品なのです。
批判派が、はぐプリの内容を無視してアンフィニの誕生ばかり気にするのは、私には片手落ちな態度に見えます。
デパプリの数作前に登場したピカリオが男の子プリキュアへの道を拓いていたと認めず、はぐプリの内容を深掘りしなければ、「男性キャラが参戦するとプリキュアは崩れる、現にデパプリのブラックペッパーから崩れ始めた」という論調になるのも無理はありません。
それとも、意識的かそうでないかはともかく、ブラペをウィング以前で一番の悪者にする結論が主張よりも先にあるのでしょうか?
【マリちゃん批判】
時々、ブラペ批判のとばっちりのように、デパプリのクックファイター・マリちゃんことローズマリーも批判されているのを見かけます。
戦闘力を持って参戦していることに加え、成人男性としては女子中学生の間に入りすぎている、ということが理由だそうです。
ところで、批判派が概ね理想的な男性キャラとして絶賛している5/5GoGoのココですが、ココがキュアドリーム/夢原のぞみといい雰囲気になるのは、もっぱら成人男性の姿をしている時です。そして成人男性としてのココは、「国語教師・小々田コージ」としてのぞみの中学校に勤務しています。二人は「大人と子ども」「教師と生徒」です。
近年、性暴力についての議論が高まり、大人から子どもへの接し方にも厳しい目が注がれているのは、女性の権利に敏感な人なら知っていることでしょう。
友達のように接するマリちゃんの距離感を責めるなら、恋仲になるココは言語道断ではないんでしょうか。
また私としては、マリちゃんとの比較をするなら、ドキプリのジョー岡田も忘れてほしくありません。
正体は騎士ながら、戦闘力はプリキュアに劣るジョー岡田は、当初何かと不審だった上、女子中学生を「マイスイートハート(普通は恋人を呼ぶ言葉)」などと呼んでおり、ちゃんと事情が分かるまでは変質者に見えてもおかしくありませんでした。
しかし、批判派からジョー岡田がマリちゃんのような責められ方をしているのを、私は見たことがありません。
たまに言及されているのを見かけても、行動が不審なのをおもしろがられている程度です。
初めから身元を明かし、真っ当にプリキュアと親交を深めたマリちゃんを責めることが、理不尽に見えるのは私だけでしょうか?戦闘力さえなければ、変質者めいた行動が許されるのでしょうか?
【ただの狙い撃ちでは?】
もちろん、私自身はココとのぞみの関係と描写を、大人が子どもに手を出すことを助長するようなものとは捉えていませんし、ジョー岡田にも悪い感情は持っていません。
私が気になるのはただ、批判派の言う「女の子の自立を邪魔しない男性キャラ」とやらの基準がどこにあるのか、ということです。
整理すると、元から論外扱いの男の子プリキュア以外では、
・プリキュアと友愛を結び、参戦もする成人男性
・幼馴染を「守りたい」と思い、プリキュアとは違う力で参戦する男の子
これらが批判の対象で、
・プリキュアと恋仲になる成人男性
・不審な様子でプリキュアに近付いた、味方ではあるがあまり役に立たない成人男性
・自分の過ちで生じた戦いに、そうとは伝えずプリキュアを駆り出し、恋愛禁止を言い渡す成人男性
・プリキュアになりたいと願い、最後にプリキュアと同じ力で参戦した男の子
これらはスルーということですよね。
私には女の子の自立のためというより、デパプリを狙い撃ちするための基準に見えます。
何度も言いますが、好き嫌いは個人の自由です。ピカリオは好きだがブラペは苦手、と言うのも自由。ココやジョー岡田やブルーは平気だがマリちゃんはうっとうしい、と言うのも自由。男の子プリキュアを受け付けないと感じるのも自由。デパプリやひろプリを面白いと思わないのも自由。自身が何をもってそう思うのか分析するとして、必ずしもそこに何か立派な理由を付けなくてもいいのです。
無理な理屈をこじつけた挙句、違う意見の人達を見下すような発言をしていることが問題なのです。
批判派の自分こそがプリキュアの根幹を理解し正しい主張をしていて、公式サイドや擁護派はそうではない、とでも言いたいんでしょうか。
だとしたら、擁護派として強く抗議します。
「女の子のため」?
男性キャラの参戦をよく思わない人たちの多くは、プリキュアを「女の子のためのものであり、ジェンダーバイアスに抗って女の子の自立を促すもの」というように定義しています。
これ自体は私も同感ですし、それがプリキュアを支持している理由でもあります。
そして批判派はこの信念をもって、ブラペのような男性キャラが参戦するのは許せない、まして男の子プリキュアはもってのほかだと主張しているわけですよね。
だったら考えていただきたいのです。当のプリキュアファンの女児が、一部の批判派によるプリキュアに対する態度を見たらどう思うでしょうか。
批判の域を超えた暴言を放送のたびに発信。その中に切り取りや印象操作を紛れ込ませる。先にある結論のために無理なこじつけをする。作品で気に障ることをやたらとキュアウィングや男の子プリキュアのせいにする。違う意見の人をバカにする。
そういう態度は本当に、楽しくプリキュアを見ている女児のためになるでしょうか。ウィングを大切な仲間、素敵なお兄さんと思って応援している女児が、これは女の子の自立のためにやっているんだ、と聞かされて喜ぶでしょうか。
あるいは成長すれば「批判」も理解してもらえると思いますか?いいえ、むしろ分別がつくようになるほど、その態度の本質も分かるでしょう。
ひろプリが嫌いでも、男の子プリキュアが嫌いでもいいし、自分が思うプリキュアのセオリーに合っていないと考えるのもいいですが、「女の子のため」と言えばどんな理屈や物言いも正しさが保障されるわけではありません。
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