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あらためて自己紹介
はじめましてtakaといいます。
ある物流企業で人事を中心とした管理部門所轄役員をやっています。1961年生まれの61歳です。
0. 学生時代
地頭が悪いのかいくら勉強しても成果が上がらず、偏差値55の県立にやっとの思いで進学。勉強よりバイクに夢中で、アルバイトで400ccバイクを乗り回していました。
当然現役ではどこも受からず。一浪でもダメ。
背水の陣で二浪に突入。バイトで予備校代捻出、学費も奨学金+学費ローンで行くことで覚悟を決め猛勉強。成績急上昇し、国立まで狙えるところまでいきましたが、あえなく玉砕。それでもなんとか慶応大学に合格。
このときから「道を切り開くのは能力ではない。努力だけでもない。覚悟である」と思うようになりました。
1.日立時代
勉強についていけず一年生を2回やってしまい2浪1留で卒業、さらにはサーフィンに明け暮れ低空飛行の成績でしたが、なんとか日立製作所へ入社することができました。しかし年齢ハンディ3年は大きく、年下上司にもひどいイジメにあいましたが、エネルギー政策に沿った電力施設開発というスケールの大きい仕事を任され、楽しくやりがいのある日々でした。
仕事とはいえ、私のことを必要としてくれている人が世の中にいる、いままで味わったことのない幸せな気持ちになっていました。
私には夢がありました。それはMBAをとること。もっと有体にいえば、米国で経営の勉強をすること。その先になにがあるかはわかりませんでしたが、MBA留学をひたすら目指して英語の勉強、そして社費推薦をとるための全力での仕事。TOEICは500点からのスタートでしたが、猛勉強で800点まで底上げし、仕事面でも奇跡的な業績を上げることができて、1996年アリゾナにあるビジネススクールへ行くことができました。
偏差値55の県立出身の自分が米国MBAを取れたというのは大いに自信になりましたが、のちにこの自信過剰さが道を外すことになります。
結局、帰国後に日立を辞めることになるのですが、いまになっても思うのは、とんでもなく器のでかい会社だったということ。3年遅れでも受け入れてくれたこと、そのハンディ関係なく社費留学へ行かせてくれたこと、志があるので会社を辞めたいといったときに役員が握手で送り出してくれたこと・・・
本当に感謝しています。
2.戦略コンサルティングファームへ
さて、志というのは経営者になっていい会社をつくるということでした。そのためには目線を上げ、経営トップとの対話ができる道場のような場所へ行くことが必要だと思い、外資系コンサルティングファーム数社に応募。本来は私のような経歴(私大3年遅れ、トップ10ではないMBA、メーカー法人営業)は箸にも棒にひっかからないはずなのですが、1社が採用してくれました。
しかし、現実は厳しかった。ハーバード、東大、京大卒の超がつく秀才がごろごろしているなかでダントツに自分は仕事ができない。言うなれば草野球の人間が間違ってプロ野球に入った感じかもしれません。
戦力外通告の恐怖に毎日怯えつつ週100時間(≒15時間/日)を超えるハードワーク。それでも追いつかず、人生ではじめてというくらい自己有用感ゼロの日々を過ごしました。
1日が日立時代の1年に感じるくらい知識を詰め込み、仕事に没頭した結果、3年かかりましたが、マネジャーに昇格。
ところがこのころから少しずつ歯車が狂い始めました。
・自分はここまで頑張ってこれたのに、なぜあなたには出来ないのか
・これがあなたのベストのマテリアル(クライアント提出資料)なのか
・生活に必要な時間以外はすべて仕事に投入すべきではないのか
こんなことをメンバーに言いはじめてしまいました。自分としてはクライアントのため、メンバーの成長のため、のつもりでした。
あるときシニアマネジャーに呼ばれました。
「君とは誰も組みたくないという状況です。どうしますか?」
さすがの私も事の重大さに気が付きました。しかし、もうどうしようもありません。
マネジメント・・・うわっつらの知識はそのときはたくさん持っていましたが、何一つ自分に生かせていませんでした。
知識は実務に生かせないとまるで意味がない、実務に生かせるのが正しい知識だと、はじめて気づきました。
そのうち私自身がメンタルを病み、数ケ月病床に伏せることになったのです。
続く