なぜ写真を見に行くか
写真を見にゆくと言うのは面白い行為だと思う。なぜかと言えば、写真には大抵、写された本物が有るからだ。海を見たいからといって、バケツの海水を見に行くだろうか? でも写真は見に行くのだ。写真を見るとは、一体何を見る事なのだろう?
美の基準はもしくは感性は人それぞれとは言え、美しいものを見ると嬉しいと言うのは本能だと思う。しかし逆に、本能は心の奥底に隠されているものだ。第一、見てきた写真が単純に美しいかと言えばそうでもなく、単に美しいだけなら、田舎に有る実家の居間にかかってるカレンダーの写真の方が美しかったりする。
なら、何でわざわざそんな写真を見にゆくのかと考える時、何となく、古代ギリシャの人が述べた人が他の人の言葉を聞く時に必要な3つの要素、パトス、ロゴス、エートスという言葉を思い出す。そもそも聞きたと言う気が有るかどうか、内容は納得出来るものか、そして誰が話しているかだ。
写真を見る動機も似ているかもしれない。つまり、撮った人に愛を感じたいまた自分の愛情を自分の命を少し削っても撮った人に投げかけたいという気持ち。そして何より、それを見る事によって今までの自分の内の何が破壊されるだろうとの期待。こういうものが写真展には有る。
ちゃんと文章に書くと何だか変態的な感じもするが、誤解されても嫌なので少し解説を加えたいと思う。
●愛
なぜ自分の不都合をおして、時間と体力と精神力を削ってまでそれをしたいかと言えば、1つには愛だと思う。
ただ、一言に愛と言っても意味は広い。ここで述べるのはどちらかと言うと自己本位でおせっかいで、押し付けがましく迷惑な愛の事だ。
頭の中にはビューンと音を立てて回っているエンジンが有る。これが紡ぎ出すものが愛で、愛する対象が無くなってしまうとエンジンは空回りし、困ったことになってしまう。
愛は再帰的で自己言及的だ。なぜそれを愛するかと言えば、それを愛しているからであり愛したいからだ。他の人も似たものを撮っているかもしれない。でも他の人のそれではなくその人のそれを見たい。彼の人の写真とその人の写真の間には、写真自体には大抵本質的な差はない。
私が新納翔の写真展に行ったのは生新納翔をひと目見たかったからで、写真ももちろん良かったけど。
●破壊
人の視覚と認識についての説明が、内部モデルという考え方によって説明されることが有る。例えばそこに椅子があるのが見えるとすると、実は見えているのは視覚情報そのものではなくて、見ている人の頭の中に有る記憶を見ているらしい。
人は体の外から受け取る人は刺激そのものを意識することが無い。その代り、脳は刺激から自動的にその人の人生の中で積み上げてきた記憶を参照し、そしてその記憶によって加工された何かを意識し、認識する。
何でもそうなのだ。馴染みの音楽を聴く時、聴いているのは聴覚刺激ではなく、頭の中に記憶されている音楽であるとか、料理を食べる時、味を感じるのは記憶を再生しているそれを感じているとか、知っている道を歩いている時、道順を見て馴染みの場所であると感じ続けているとか。
それはもちろん理由があってそうなっているわけだけど、しかしそれは嫌だ。何がいやかって無意識にも自分が自分のものの見方を決めてしまっているからだ。そしてそれはあまりにも予想通りな為、飽き飽きしてしまう。そんな自分は自分自身で破壊してしまいたい。
ある本で、経頭蓋磁気刺激による治療を受けた自閉症スペクトラム障害の人が、治療後にそれまで全く認識できなかった人の微妙な感情を表情から読み取る事ができるようになって、世界の見え方がそれまでとは全く変わったという話を読んだ。それは本人にとっては大変な経験だろうと思う。
そこまで劇的ではなくても、芸術作品に触れた事を切っ掛けに世界の見え方が変わるという事はある。外部からの刺激に対する解釈のされ方が、まるで脳の回路が変化してしまうように変わってしまうのだ。
私は2016年のさいたまトリエンナーレに出品されていたある作品に触れて、正にその体験をした。そして、その後も大なり小なり同様の経験を、展示を見る時にする事があった。
社会学者の宮台真司はYoutubeの番組の中で、コンテンポラリーアートに触れることは心に二度と消えない傷をつけられる事だと言っていたけど、それは大げさでなく本当だと思う。
単に美しいとか単に興味を引くという以上のものが、写真展にはある場合がある。それ、つまり自分のよって立つ人生経験を破壊し、ものの見方を変えてしまうような作品に出会いたくて、また見に行きたくなる。