「さよなら」だけが人生ならば
こんにちは。文学部で歴史の勉強をしている、クレオの横顔です。
今回はじめて記事を書くので自己紹介代わりに、「別れ」をテーマに「さよならだけが人生だ」で有名な詩をめぐってさまざま書いてみようと思います。
出会いと別れの季節
君にすすめる黄金のさかずき
なみなみとついだこの酒を受けないことがあるものか
花が開けばとにかく雨と風
人の世には別ればかりが多い
于武陵「勧酒」(前野直彬『唐代詩集(下) 第18巻』(平凡社,1970年))
三月に入り、まさに三寒四温のこの頃ですね。寒さに身を震わせながら桜の木を見上げると、枝に固いつぼみが見えてたしかに春は近づいているのだと気づかされます。
みなさんは、この春は見送る側でしょうか。見送られる側でしょうか。
先日、この春移動される先生が宴会を催して下さいました。いつもは厳しい先生が楽しそうに杯を傾けておられる様子を見ると、お世話になった日々を思い出してさびしさがこみあげてきました。
「花に嵐のたとえもあるぞ さよならだけが人生だ」
御存じの方も多いと思いますが、井伏鱒二が唐代の詩人・于武陵(うぶりょう)「勧酒」の後半を和訳したものです。于武陵の「勧酒」は冒頭に現代語訳を引用してみました。この漢詩は旅立つ友人と最後の別れを惜しみながら杯を交わす場面を歌っています。
「勧酒」の原文・書き下し文と、井伏鱒二訳を並べてみます。
于武陵「勧酒」
勧君金屈巵 君に勧む 金屈巵
満酌不須辞 満酌 辞するを須いず
花発多風雨 花発けば風雨多し
人生足別離 人生別離足る
井伏鱒二訳
コノサカヅキ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトヘモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ
「花開けば風雨多し」を「花に嵐のたとえもあるぞ」と訳し、「人生別離足る」を「「さよなら」だけが人生だ」と訳す井伏鱒二の才能に脱帽です。
別れの多いこの時期、あらゆる人の胸に響く詩ではないでしょうか。
「さよなら」だけが人生ならば……?
井伏鱒二は人生にあるのは「さよなら」だけだと歌いました。
もし本当に人生が「さよなら」だけならば、そんな人生の意味とは何なのでしょうか?
寺山修司は「さよなら」だけが人生である、という井伏鱒二の言葉に応える形でこんな詩を遺しています。
寺山修司「幸福が遠すぎたら」
さよならだけが 人生ならば
また来る春は 何だろう
はるかなはるかな 地の果てに
咲いている野の百合 何だろう
さよならだけが 人生ならば
めぐり会う日は 何だろう
やさしいやさしい 夕焼と
ふたりの愛は 何だろう
さよならだけが 人生ならば
建てた我が家 何だろう
さみしいさみしい 平原に
ともす灯りは 何だろう
さよならだけが 人生ならば
人生なんか いりません
寺山修司はもしも「さよなら」だけが人生ならば、人生なんかいらない、と答えました。
井伏鱒二訳を読んだ私の感想として一番近いのは、「さよならだけが人生ならば めぐりあう日は何だろう」の一文です。別れなければならないなら、出会ったあの日は、過ごした日々はなんだったのか。
「さよなら」だけが人生であっても、私は寺山修司とは異なって人生なんかいらない、とは思いません。むしろ「さよなら」が悲しくなるほど大切な人と出会えた自分の人生を愛したいです。「さよなら」だけが人生ならば、「さよなら」までも愛しましょう、と言ったところでしょうか。
みなさんはどうですか?
人生は「さよなら」だけだ、とするならばその人生をどのように考えますか?
「人生別離足る」と「「さよなら」だけが人生だ」
ここで一度、井伏鱒二の訳を見直してみましょう。井伏鱒二は「人生別離足る」(人生には別れが多い)を、「「さよなら」だけが人生だ」(人生には別れだけだ)と訳しています。つまり、かなり悲観的かつ断定的に訳しているのです。
于武陵「勧酒」は、楽しみには水が差されやすく人生には別れが多い、だから友よ今夜は多いに楽しく飲もう、という吹っ切れた明るさがあります。
一方、井伏鱒二訳は、別れだけが人生なのだとしみじみさびしく杯を交わしている様子が感じられます。
別れをめぐる于武陵と井伏鱒二の思想が「人生別離足る」の原文・訳文に端的に表れています。みなさんの別れへの思想は于武陵と井伏鱒二どちらに近いでしょうか。
おわりに
別れの多いこの季節、親しくした人々との別れを惜しんでどうぞ大いに杯を交わしてください。別れはさびしいですが、幸福なことにいつでも出会いの方が別れよりも多いのです。この春、みなさんにすばらしい出会いと別れがありますように。