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わたしとおばあちゃん

おばあちゃんの夢を見た。
寝たきりになった母方の祖母が床ずれしないよう、声をかけて寝返りを打たせる夢だ。

夢の中の祖母はしっかりと返事をしてくれるけれど、見るからに弱っていて、もう数日の命なのではと思わせるところがあった。けれど、私にいつもありがとうねえと私に言う。
いいんだよおばあちゃん、痛くない?大丈夫?と私は返事をする。

けれど、この夢は現実と違うところがある。

まず、祖母は寝たきりではない。今日もパーマあてにいってくるわね、と言っていた。
そして、現実の祖母は認知症がはじまっている。夢の中の祖母にはその兆候が微塵も見られなかった。


身近な死の経験がない

私はまだ、ありがたいことに身近な人の死を経験したことがない。
4人いる祖父母はみな存命中であり、80歳~90歳前後で、年齢的に病気を抱えてはいるのだろうけれど、入院するような大病を患っているわけでもない。
一番身近な死は、子供好きなため、私をとびきり可愛がってくれていた大叔父の急死ぐらいかもしれない。あまりに急な話だったので、いまだに大叔父の死が実感できず、どこかで元気でやっているような気さえする。

祖母のこと

祖母は、若いおばあちゃんだった。
祖母自身が20代前半で母を産み、母も同じく20代前半で私を産んだため、40代のおばあちゃんだった。

祖父とともに自営業を営んでおり、私たちと同じ市内に住んでいたため、母がPTAなどでどうしても私たちを姉妹を見れないときは一時的に預かってもらっていたし、年の離れた妹が生まれるときの(同じ市内なのに)里帰り出産のときは数か月一緒に暮らしたし、毎週のように遊びに行っていた。学芸会も運動会も見に来てくれていた。

小学3年生の時、妹と祖母と三人で真夜中の電車にのって旅行に行った。電車の中で夜寝るのははじめてで、どきどきした。
高校の入学祝いだと二人で京都旅行にいった。「おばあちゃんに気を使って旅先選んでない?」と言われた。それもあったけど、当時私は新選組が好きだったので、「そんなことないよ!」と笑った。

就活の時、家族が全員インフルエンザにかかってしまったときも泊まりにいった。
夏休みになれば祖父母の仕事を遊び半分に手伝ったりした。
とてもとても可愛がってくれていた。

私は祖父も大好きだったけれど、誰より祖母が大好きだった。
甘やかされていたわけではない。むしろ厳しくされていたと思う。妹とけんかの絶えない姉妹だったため、よくよく怒られた。

けれど、怒られても祖母には大事にされているという絶対的な信頼感があった。
理由はよくわからない。
上に書いたみたいに、祖母が積極的に思い出を作ろうとしてくれていたのがわかっていたからかもしれない。
会うたびに私をおんぶして見に行ったクリスマスのライトアップの話をしてくれていたかもしれない。
「ちれー、ちれーって、ずっと言っていたんだよ」
いつの、何歳の話なんだろう。私に一切の記憶はない。そうなんだ、と返事をするだけだったけれど、祖母にとってはもしかしていつまでも私って赤ちゃん?と思った。

祖母と認知症

けれど、そんな祖母が認知症になってしまった。
初めて聞いたのは一人暮らしする家まで父に送ってもらっていた時だった。

「お母さんから言うまでは知らないふりをしていてほしいけれど、おばあちゃん、認知症みたい」

そういわれて、実際に母に聞かされたのはそれから半年も後だった。

よくあるように、物忘れが激しくなったところから、祖父が異変に気付いたみたいだった。
半年後に聞かされたのは、たぶんその間に病院にかかって診断をもらっていたのだと思う。

とはいっても、ちょっと忘れっぽいだけでしょ?と思っていたけれど、私の考えがあまかったのか、初めて会ったときはショックだった。

シャキシャキとしていた祖母はなんだかおっとりした?と聞きたくなるようなゆっくりした動作になっていた。これは年齢的に体力が落ちたのもあるとは思うけれど、話の受け答えがなんだかテンポがスローになったように思えた。

「いつまでこっちにいるの?」「お正月はいつまで?」
という言葉が、私が滞在しているたった数時間のうちに5回は聞かれた。
どこかで、認知症の人に「さっきも言ったでしょ」と答えるのはダメだと目にしていた私は都度「明後日までいるよ」「〇日までだよ」と答えていたけれど、祖父と母はもう慣れたのかまたか、とという顔をしていた。

私が想定していたよりずっと進行していた認知症は、祖母を祖母ではなくしていくような気がして恐ろしかった。
帰省し、母と会うたびに「おばあちゃんの認知症の進行度はどう?」と聞くようになった。
母は「大丈夫だよ」という。

でも祖母は泣いて喜んでくれた私の結婚式を忘れてしまった。
夫を連れて帰ったとき、台所で私と二人になったときに泣きそうな顔をしながら「ねえ、あなたたちって籍はいれたんだっけ?おばあちゃん、ちゃんとお祝いしてあげたっけ」と小さい声で私に言った。

結婚式はきっと、両親のために挙げるという人が多いと思う。
私の場合は、私をずっと大事にしてくれた祖母のための結婚式だった。
孫が4人いるのだけれど、私以外の3人は結婚式を挙げることにあまり興味がないことはすでにわかりきっていて、ならば一人ぐらい式を挙げて孫の晴れ姿を見せてあげようと思って挙げた式だった。
私の式に他の孫たちも呼べば、みんなドレスアップして素敵な姿を見せてあげることもできる。
私ができる数少ない孝行の一つだとずっと思っていたことだった。
結婚式を挙げるとき、既に祖母の認知症はわかっていた。でもどうか祖母に覚えていてほしいと思って、できうる限り最短で挙げた式だった。

「大丈夫だよおばあちゃん、おばあちゃんは私のことを祝ってくれたよ」
と、答えたけれど、そのとき私はちゃんと笑えていただろうか。
泣きそうな顔をしていなかったろうか。

私の好きな祖母は

私の好きな祖母は、まだ存命中だ。
足腰もすっかり弱って…なんてことはなく「忘れてしまう」「覚えていられない」祖母になってしまった。

夢で弱り切った祖母を見て、目が覚めた私は信じられないくらい号泣した。
おばあちゃんが死んでしまうかもと思った。それもある。
けれど、夢の中の祖母は認知症になってはいなくて、私の些細なことをずっと覚えてくれていた。
目が覚めた私は「私の好きだったあのおばあちゃんはもうどこにもいないんだ」というショックからだった。
今日は夜何度も目が覚めて寝不足だったのもあって、メンタルがおかしくなっていたのかもしれない。

別にそんなことはない。祖母は生きているし、認知症の進行度は多分軽度だ。
私の思う「おばあちゃん」は「若かったおばあちゃん」であって今のおばあちゃんは「年老いたおばあちゃん」の上に「認知症」があるから、変わっていて当たり前なのだ。私だっておばあちゃんの「可愛い初孫」から随分と変わってしまっているのだから、当たり前だ。

起きて冷静になった今ならそうわかるのに深夜目が覚めた私は自分でもびっくりするくらい泣いた。

受け入れられてると思っていたのに、私はまだ全然祖母が認知症であることを受け止め切れてなかったらしい。

それでもおばあちゃんが一番大好き

でもおばあちゃんはまだまだ元気だ。

認知症はあるけれど、軽度で、私と会えば私とわかってくれる。
ここ数年の記憶が定着しなくなってしまっているだけで、おっとりしはじめたのも年齢のせいだと思う。

いまここで祖母の現状を嘆くぐらいなら、私のおばあちゃんがいない、と嘆くより先に少しでも後悔しないように祖母に会いに行って思い出を作ることが一番だろうな、と思った。

ので、再来週祖母に会いにいってくる。
日帰りで行って帰ってこれる距離だからこそ、なかなか足を運ぶことがないので、少しでも会えるうちに会おうと思う。

おばあちゃんにそのことを伝えるために電話をした。
受話器越しに「はい、〇〇です」と答える祖母の声は、働いていた時の祖母となにも変わらなかった。

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