サカナクション『目が明く藍色』に隠された縦読み/遺書を解釈する
サカナクションのファンのあいだで、最も有名な謎がある。
サカナクションのいろんな歌詞を読み、彼らのテーマを解釈していくうち、「恐らく縦読みはこれではないか」と、考えがまとまってきた。
単なる妄想かもしれない。聴き手が自分で縦読みを見つけるのに意味があるならば、文章にすること自体が野暮な気もする。
しかし、サカナクションが復活した今、彼らの現在と過去を対比するため、あえて文章にする意味があるのではないか。サカナクションの「これから」を理解するには、「いままで」を知っていたほうが良いのではないか。
そんな思いで『目が明く藍色』の遺書の解釈をまとめてみる。
遺書
結論を言えば、『目が明く藍色』の縦読みとは
「糸、染み、もう捨てた」→「いとしみ もうすてた」
の文章のことだと考えている。
歌詞に登場する「制服」のあとの言葉を順番に拾っていくと「糸」「染み」「もう捨てた」となる。
「もう捨てた」の次の歌詞を「僕は逝く 逝くんだ」と読めば、より信憑性が増すかもしれない。この意味を、サカナクションの背景を踏まえて解釈してみる。
「いとしみ もうすてた」
「愛しみ」の言葉は、「愛すること」と「悲しむこと」の両面性を持っている。両面性は、『目が明く藍色』の収録アルバム「kikUUiki」のテーマだ。
「kikUUiki」は、サカナクションの造語である。淡水と海水がちょうど混じり合うところを「汽水域」と呼ぶ。同じ発想で、本来混ざり合わないはずのものが混じり合う場所。それが「汽空域」だ。
この両面性を踏まえれば、「いとしみ もうすてた」は「愛することをもう捨てた」と「悲しむことをもう捨てた」の表裏一体と解釈できる。そうすると、その対象が何か気になってくる。「僕」は何を愛していたのか。何を悲しんでいたのか。個別に見ていこう。
1.「愛することをもう捨てた」
サカナクションの歌詞の「君」は、「音楽」そのものを指す場合が多い。その文脈では「愛しみもう捨てた」は「音楽への愛をもう捨てた」を意味する。「音楽への愛を捨てた自分は、もう生きていても仕方ない」。素直に解釈すればそのようになる。
2.「悲しむことをもう捨てた」
「悲しむことをもう捨てた」が、なぜ遺書になるのか。悲しみを捨てるのはポジティブだから良いことではないのか。この違和感を考えるため、『ボイル』の歌詞を見てみよう。
この歌は、「僕」の作詞の様子を生々しく歌っている。「僕」が悲しみだけを題材にする理由。それは、喜びや幸せは一過性のものであり、悲しみや恐怖の感情こそが芸術になると考えているからだ。「僕」にとって、「悲しむことをもう捨てたとき」は「音楽をやめたとき」と同じなのである。
さよならはエモーション
この解釈を踏まえて他の歌詞を読むと、サカナクションのとある曲が、そのまま遺書だったことに気づいてしまう。
『サヨナラはエモーション』のカップリング曲は『蓮の花』。「僕」が地獄で苦しむ歌だ。このとき「僕」は比喩的に死んだのである。
「死ぬ」とはどういうことか。『サヨナラはエモーション』を境として、サカナクションは「悲しみ」を封印した。
「サヨナラはエモーション」では、「悲しみ」にサヨナラする行為自体が「エモーショナル(=悲しみ)」だと認識し、「悲しみ」に依存しない新しい方向性を模索しているのである。
これ以降にリリースされた『新宝島』や『多分、風。』では「悲しみ」は歌われていない。「悲しみ」の欠如を、ギミックで覆い隠している。しかし、「僕」はこの方向に進み続けることができず、『陽炎』や『茶柱』の歌詞のように、「悲しめないことを悲しむ」状態に陥ってしまう。
その終着点が『ショック』だった。「悲しみ」にサヨナラすること自体が、悲しむ行為になってしまうのであれば、本当に悲しみにサヨナラするには、「僕」の感情を捨てるしかないのである。
そうして、「涙」=「悲しみ」のない「僕」は、機械/奇怪 になるしかなかった。