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サカナクション『目が明く藍色』に隠された縦読み/遺書を解釈する

サカナクションのファンのあいだで、最も有名な謎がある。

はい、これは「目が明く藍色」という曲なの。(中略)
実はね、この歌詞の一部分を縦読みにすると僕の遺書になっているの。
そういったこともこの曲には隠されているんだな。まだ聴いたことがない人は聴いてみてもらいたいと思う。ミュージックビデオも素晴らしいんでね。

https://www.tfm.co.jp/lock/bbb/smartphone/index.php?itemid=11076

サカナクションのいろんな歌詞を読み、彼らのテーマを解釈していくうち、「恐らく縦読みはこれではないか」と、考えがまとまってきた。

単なる妄想かもしれない。聴き手が自分で縦読みを見つけるのに意味があるならば、文章にすること自体が野暮な気もする。

しかし、サカナクションが復活した今、彼らの現在と過去を対比するため、あえて文章にする意味があるのではないか。サカナクションの「これから」を理解するには、「いままで」を知っていたほうが良いのではないか。

そんな思いで『目が明く藍色』の遺書の解釈をまとめてみる。

遺書


https://www.youtube.com/watch?v=xOqvFHwh3rk

結論を言えば、『目が明く藍色』の縦読みとは
「糸、染み、もう捨てた」→「いとしみ もうすてた」
の文章のことだと考えている。

歌詞に登場する「制服」のあとの言葉を順番に拾っていくと「糸」「染み」「もう捨てた」となる。

制服のほつれた糸 引きちぎって泣いた

制服の染みみたいな 嘘ついて泣いた

制服はもう捨てた 僕は行く 行くんだ

『目が明く藍色』

 「もう捨てた」の次の歌詞を「僕は逝く 逝くんだ」と読めば、より信憑性が増すかもしれない。この意味を、サカナクションの背景を踏まえて解釈してみる。

「いとしみ もうすてた」

愛しみ(いとしみ)
〈「かなしみ」とは、自分が何かを愛した証しである。
それゆえに「愛しみ」と書いても「かなしみ」と読む。
「かなしみ」とは~鈴木大拙『無心ということ』:日本経済新聞

https://twitter.com/nikkei_kotoba/status/1725712275494068286

 「愛しみ」の言葉は、「愛すること」と「悲しむこと」の両面性を持っている。両面性は、『目が明く藍色』の収録アルバム「kikUUiki」のテーマだ。

「kikUUiki」は、サカナクションの造語である。淡水と海水がちょうど混じり合うところを「汽水域」と呼ぶ。同じ発想で、本来混ざり合わないはずのものが混じり合う場所。それが「汽空域」だ。

「暗号っぽいですよね。淡水と海水が混ざり合っている部分を「汽水域」って言うんですけど、水の部分を、僕たちが住む空に置き換えた「汽空域」という造語です。混ざり合わないものが混ざった『違和感』みたいな感じです。

https://www.tfm.co.jp/lock/staff/onair/2010/0317/index.html

 この両面性を踏まえれば、「いとしみ もうすてた」は「愛することをもう捨てた」「悲しむことをもう捨てた」の表裏一体と解釈できる。そうすると、その対象が何か気になってくる。「僕」は何を愛していたのか。何を悲しんでいたのか。個別に見ていこう。

1.「愛することをもう捨てた」

サカナクションの歌詞の「君」は、「音楽」そのものを指す場合が多い。その文脈では「愛しみもう捨てた」は「音楽への愛をもう捨てた」を意味する。「音楽への愛を捨てた自分は、もう生きていても仕方ない」。素直に解釈すればそのようになる。

2.「悲しむことをもう捨てた」

 「悲しむことをもう捨てた」が、なぜ遺書になるのか。悲しみを捨てるのはポジティブだから良いことではないのか。この違和感を考えるため、『ボイル』の歌詞を見てみよう。

テーブルに並ぶメニュー
僕は悲しみだけ選び取り
口の中詰め込んだ

 この歌は、「僕」の作詞の様子を生々しく歌っている。「僕」が悲しみだけを題材にする理由。それは、喜びや幸せは一過性のものであり、悲しみや恐怖の感情こそが芸術になると考えているからだ。「僕」にとって、「悲しむことをもう捨てたとき」「音楽をやめたとき」と同じなのである。

さよならはエモーション

 この解釈を踏まえて他の歌詞を読むと、サカナクションのとある曲が、そのまま遺書だったことに気づいてしまう。

『サヨナラはエモーション』のカップリング曲は『蓮の花』。「僕」が地獄で苦しむ歌だ。このとき「僕」は比喩的に死んだのである。

「死ぬ」とはどういうことか。『サヨナラはエモーション』を境として、サカナクションは「悲しみ」を封印した。
「サヨナラはエモーション」では、「悲しみ」にサヨナラする行為自体が「エモーショナル(=悲しみ)」だと認識し、「悲しみ」に依存しない新しい方向性を模索しているのである。

これ以降にリリースされた『新宝島』や『多分、風。』では「悲しみ」は歌われていない。「悲しみ」の欠如を、ギミックで覆い隠している。しかし、「僕」はこの方向に進み続けることができず、『陽炎』や『茶柱』の歌詞のように、「悲しめないことを悲しむ」状態に陥ってしまう。

その終着点が『ショック』だった。「悲しみ」にサヨナラすること自体が、悲しむ行為になってしまうのであれば、本当に悲しみにサヨナラするには、「僕」の感情を捨てるしかないのである。

そうして、「涙」=「悲しみ」のない「僕」は、機械/奇怪 になるしかなかった。

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