循環する生命のフォークロア

 令和になってから1stのソロアルバムを作り始めたのにもう令和二年から三年に移ろうとしている。とても早い。今年のコロナは本当にひどかった。現在進行形でひどいのだが、いつかは終わるはずだし、今年感じた事はそれらが終わる前に形にしておきたい。なので2ndを作る。その時に形にしなければ伝えられないものもある。平成が遠ざかるにつれて平成という曲を歌うことに対しての違和感が増えるが10年すればどうでもよくなるだろう。ちょっと古いくらいのものが一番ダサく感じられるものらしくて、だとすればこの先数年が恐らく最も平成という曲に違和感を感じる時期かもしれないがそんな事は流行り廃りと同じくらい気にする価値もない。今でもKlagenicoleの今夜は眠いを歌う事があるし10年後に田中事件の平成を歌うこともあると思う。その時に自分がまだ田中事件であるかどうかはわからないが、それでも歌うのなら、いくらかはその頃の気持ちで歌うのだ。

 曲にはその頃の記憶が封じられている。バンドマンとして、プレイヤーとして時を経るごとにそう思う。リスナーとしてだってもちろんそうだと思う。a transparent girlを聴けば思い出す光景があるし、ruruxu/sinnを聴けば思い出す光景がある。10年後、れもんを、タローキジウマを、SHIROSTを聴いて何かを思い出す事があるだろう。感傷に建設的な意味は無いが自分にとっては大切なものなんだから意味付けをするのは勝手だ。自己完結している。小さな世界で完結していて別に構わない。内輪だとか自己満足だとかいうのは大きなお世話である。その是非は自分で判断する。


 長くやっていれば、多くの事を体験するものだ。特に長くやるということだけは長くやっていなければ体験できない。ひとつひとつの嫌いなものや好きなもの、読んだ本や聴いた音楽、職業や付き合って来た友達や、育って来た環境、トラブルの数、全部の積み重ねで、他のどこにもない、他の誰も持たない経験の複合体ができあがる。誰だってそうなる。みんな違ってみんないいなんて言うつもりはないしその言葉は嫌いだ。でも、みんな違うのは事実だ。みんないいなんて事は絶対ない。みんな良くも悪くも違う。それを形にすればこれまた良くも悪くも違う。悪いかもしれない。結果として僕にしか作り出せないものはある。それなら作りたいと思う。  


 遠い昔の誰も知らない個人的な思い出を語る事にはきっと意味がある。その人にしか語れないからだ。もちろん直接話すのならば相手は選ばなければならない。特定の誰かに向けて話すのならばよほど慎重にならなければ。個人の思い出なんていくらその人にしか語れないものだろうと大体の人にとってはゴミだ。無理矢理聞かされたって困る。ぜんぶ独り言にすればいい。MCは独り言だ。歌も、独り言だ。その独り言が誰かに向けられていたとしても。だって届くと思って期待してると届かなかった時つらいじゃないですか。歌えばいい。鳴らせばいい。MCで喋ればいい。曲にすればいい。受け取るかどうかは聴く人次第でいい。間違っても手拍子なんかいらない。勝手に鳴らしてるから。それを聴いてくれたら嬉しいと思う。勝手ながら。

もう35歳だ。
すぐ36歳になる。

 伝えたいことなんかないなんて言いながら何か伝えたい人達がたくさんいて、でもしばらくすると本当に意味のないものになってしまう。自分自身を含めた多くの物事に意味がなくなってしまった事に耐えられない無意味な中年男はそれに無意味な意味付けをする。

 無限に繰り返された事を繰り返そう。それを形にする。あらゆる時代の人が繰り返し語った物語を、またほんの少し違う風に話しているだけだ。

だいたい同じ、大切な話だ。

最近、フォークってそう言うものかなと思う。

循環する生命のフォークロアのひとかけらをアルバムとして形にしようと思う。

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