「歌壇」1月号の時評
「歌壇」1月号の時評は斉藤斎藤さんの「歌会で、脳内で何をしているか」。
「ボーダーを着てボーダーの服買いに行くのはながいきのおまじない」(橋爪志保)という歌が無記名で歌会で出ていたとして、脳内でどう読み取っていくかを文章化したものが全体の3/4くらいを占める。そして末尾で歌会における読みとして考えねばならないと思われる要素をあげ、読みについて問いかける(と、いうのは私の恣意的まとめですので気になる方は実際に読んてみてください)。
これを読みながらぐるぐる考えていたのは「これは時評なのか」ということでした。末尾というかうしろ1/4くらいは現在の状況に対するまとめというか疑問というかがあり、いわゆる時評らしいところもあります。
しかし、これ、1ページ目だけ読んだ段階で言い切れるだろうか、総合誌の時評のワクだからそう読んでしまっているのではないか、歌会における歌の読みが話題になっている今だからこそ成立する時評なのではないかという気持もあり。
と、疑問を書いたけれど私はこれは時評であると思う。総合誌の「時評」として掲載されているからではなく、「今」これを差し出されたからだ。
時評とは何かを考えた時、もちろん「その時々の話題を評する」くらいの意味の場合もある。短歌の時評の場合は「実作を引いて評価し、その時々の傾向を評する」ということが求められることが多いと感じる。歌を引かなくても成立する時評はあると考えているけれど、建前としてはそういう傾向があると思う。
時評を書ける人というのはかぎられている。その時に最もふさわしい歌を選び、正しく読み取り、時代に位置づけるというのはなかなかできることではない。歌集やできごと紹介で終わってしまう時評は多い。※
「歌会で、脳内で何をしているか」は「実作を読み取る」というところに紙幅を割いた。歌会での読みが取り沙汰されている今しか成立し得ない時評だった。時評のスタイルとしては攻めたものだったと思う。
内容云々より時評とは何かに思いが行ってしまう文章でした。
※蛇足付記。私は時評を書くことのできる人は少ないし、書ける人がずっと書く訳にはいかない(かつ時評を書ける状態は長期間は続かない)ことも知っているので「歌集やできごと紹介」で終わってもよいと思っています。1ページでも6ページでもきちんと読者に読ませる文章になっていることを望みます。