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「柑」のころ

 「海図」に続き「同人誌「柑」総目次」をアップした。少なくとも私にとっては「柑」は「海図」の後継誌です。ふたつとも私が参加していた短歌人の結社内同人誌です。

同人誌「柑」総目次
https://note.mu/klage/n/ndf8b0c768dc0

 興味のある人がそんなにいるとは思えないけれど、目次作成をしていたらいろいろ気づいたこともあるので自分用メモをかねてこの記事を作成します。


「柑」のはじまり

 1996年1月に「海図」が終わって、翌1997年、青柳さんから電話があった。
 「くらげちゃん、同人誌やらない?」「うん、やるー」くらいのやりとりだった。根回しとか前フリはまったくなかった。
 「海図」のころもだけどメールはないので、手紙か電話のおつきあいな訳です。あのころ、青柳さんと何十時間しゃべったんだろうか。むちゃくちゃ電話してました。夏の大会や新年歌会でも青柳さんとしゃべらなかったことはない(当時はお互い全出席だったと思う)。それでも、青柳さんが同人誌をやりたいと思っていたとは知らなかった。
 この会話がいつごろかよくおぼえていないけれど、温かい季節だったような気がする。

(2日後の追記)
 1997年と書いたけれど、1996年だったかもしれない。特別親しい訳ではなかった前川かおりちゃんを口説いたのは私で、書面ではなく対面で話したような記憶がある。そうなると居住区域が離れているわれわれは、夏か新年に話したはず。
 しかし、1996年の春?だとしたら準備期間に1年以上使った記憶もなく。記憶にある温かい季節とは1996年の夏の大会前くらいなのかもしれない。私の記憶はアテにならないので、物証が出てきたらなおします。他にも何かあったら直したり、追記したりします。

 「柑」という誌名は話し合いで決めた。私と青柳さんとあと誰だったのか。少なくとも同人全員で投票……みたいなことはしていない。電話か、対面で決めたとしても典子さんがいたくらいだと思う。漢字1文字のタイトルにしようという方針だったような気がする。
 一文字タイトルいいよね。でも、よほど特殊な字でないかぎり、いい意味の簡単な字は他誌が存在すると思ったほうがいいです。でも、今だったら「常用漢字内の二文字(もしくは二語)以上で構成」「検索で競合しない」を優先させたと思う。そういう意味で、近年多い文章っぽいタイトルは悪くないと思います。
 私は七が3つで構成される「キ」という誌名を推していた。7号ということはこの時点で決まっていて、毎号ノンブル49ページまでの本(つまり50ページはノンブルなしで奥付とする)を7冊作ろうというアイデアを出した。「特殊文字はいかがなものか」という理由で反対された。「柑」は誰が出した案だったか忘れたけれど、最後の最後になってよく見えてきて「これ、いいんじゃない?」ということで話がまとまったと思う。「柑」という誌名にあわせて創刊号の表紙はオレンジ色の紙にした。

 「海図」がなぜなくなったのか。単に「そういう時期だった」ともいえるし、いろんな要因があったともいえる。なくなる要因であったかはともかく、少なくとも問題のひとつとして藤田さんに負担をかけすぎていたというのはあった。なので、最初に考えていたのは「無理はしない」「内輪むけにしない」「売る」ということだった。

 「売る」といっても利益があがるほどではない。発送費と原稿料(後述)の足しにする程度。各同人の負担ははあった。「海図」は同人から印刷費を割った金額をあつめて、その冊数まわすというやり方でスタートした(5000円出したら10冊とかそういうカンジです)。
 「売りたい」と言ったら結社内一部から反発があった。内輪意識が強固だったころの話だ。本誌500円で売っていたら、「5000円寄付するからそういうみっともないことはするな」と忠告されたこともあった。これは1回だけで、実際にカンパもいただいた(今だったら言われないと思う(カンパもないと思う))。
 後に発送は別の人になって、お金についてどうなったのかよくわからない。今さらな話だけど、負担してもらってそのままになっているのではないかと思う。

 外部への寄贈は多くはないけれどやっていた。最初にタカセさんに相談したら年鑑の住所録部分をひっちゃぶいたものに印がついたものをくれた。それが贈呈リストの元になった。

 「海図」の終刊はバタバタしたので、「柑」は7号までと決めて創刊した。「十弦」のぱくりです。なんで10号じゃなくて7号だったんだろうか。「海図」が4年弱で、最後の1年ちょっとが苦しかった。3年くらいやって、続けられそうだったら次の同人誌をつくればよいみたいなことだったような気はする。気はするけれど不明。

 はじめは新年と夏の大会あわせで年2回刊行の予定だった。順調にいけば3年半。2000年夏には終了している予定だったが、7号が出たのは2001年8月。
 年2回でやりたいということを人に話したら「年2回では忘れられてしまうから4回にしなさい」と言われたのです。「それもそうだなー」と思ったものの、本誌4回は大変なので、増刊号として「.5」を出すことになった。

「柑」初期の内容

 「歌を見てもらいたい」というのがあるので、批評は掲載したかった。「当号批評」というあまり聞かない形式は誰が言い出したのか記憶にないけれど、「海図」終刊号でもやったので私なのかもしれない。少なくとも「当号批評にする」というのは私がこだわった。次号が出るころには前の号のことは忘れてしまうし、2~3首引用された記事を読むだけでなく、同じ本のなかで全首確認できたほうがよいと考えたから。ただ、これはスケジュール的に大変厳しく、何度か「やめないか」という提案があったように記憶している。
 「柑」は結社外からの作品批評のみ原稿料を出していた。そのため各号2人までとした。同人10名(の予定だった)だから、これにより負担が500円から1000円増えることになる。付記すると、私は同人誌で稿料を出さねばならないとは思っていない。「柑」のように条件をつけて「出す人もいる」というやり方だと、出さない人も出るということでもある。そこの説明ができるのかどうかだと思う。
 その割には増刊号の作品批評は掲載されることはなかった。同人間の批評も1号でなくなった。結局、「歌を読んでほしい」「反応がほしい」という欲求はそんなに強くなかったということなんだろうか。

 「文章を載せる」もこだわった。青柳さんも同じだったと思う。青柳さんが実質編集であった後半の号にも文章は多く掲載されている。
 1号はいきなり館石さんの「『日光』の特質」。これは大学でやっていた研究の流用をしてもらった。今は復刻版も出て「日光」というとどういうものかイメージわく人が多いと思うが、当時は著名歌人の経歴に誌名が登場するのは知っているけれど、どういうものかよくわからないという人が多い状況だったと思う。
 こんな無茶をしたのは書けるメンバーがいると信じていたからだ。「書くのにチャレンジ」も大事なことでやっていきたいけれど、「ある程度の内容のあるものもほしい」という気持があった。
 1号掲載の川本さんの「短歌お墓参り」は墓参を詠んだ歌の鑑賞文で、今読んでもたのしい読み物だと思う。

 私の連載の「『菅家文草』詩篇の構成」だけ激しく浮いている。これは青柳さんのオーダーだった。「いやー、短歌じゃないじゃん」「いいじゃんいいじゃん、同人誌なんだから好きなことしようよ」みたいな会話があったと思う。これも大学で書いたものの流用なので、載せるだけだからまあいいんだけど内容はハンパなうえに、読者は理解できないことがほぼわかった上でやっていたし、執筆の苦労も「柑」とは関係ないものだったので私としてはあまり思い出がない。7号で連載についての感想を青柳さんからの依頼で書いてもらったけれど、本当に無理矢理だったと思う。引き受けてくださった方々には感謝している。

 文章は増刊含め、最後まで必ず載っていたので、これは最後まで皆がやりたいことだったのだとと思う(「書かされた」と感じた人もいただろうとは思うけれど少なくとも文章を書くのがイヤだという話題は出たことがなかった)。短歌以前もしくは短歌と並行して小説や詩を書いていた人が多かったので、「短歌について書くこと」はともかく、文章を書くこと自体は慣れている人が多かった。※

※「海図」は文章を書きなれていなさそうな雰囲気がする人が(私を含め)チラホラいた。メンバー的にひきついでいるはずの「柑」が文章を書きなれている人が多い印象になるのは不思議といえば不思議。同人数が少ないのでもともといた文章書いていた人の割合が高く見えているのか、「海図」を経て「はじめて感」が消えてしまったのか。

 最初は毎号企画を組もうとしていて、穴埋め問題、俳句に七七をつける付け句、階段しりとり(後述)の3つをやっている。2号はパロディ短歌をやった。3号は返歌の予定だったけれど実現せず。
 「俳句に七七を付け足す」というのはどうなのか。他人の歌に勝手に穴埋め問題を作るのも、「やっていいのか」と迷うところだ。内輪のノリならまだしも、おそろしいことに河野裕子さんのガサッとー歌の穴埋めをタカセさんがやっていたりします。本当に怖いもの知らずだった。

 こんな怒られそうなことばかりして、何がやりたかったんだろうか。もちろん内輪の世界だからこの程度で怒るような人はいないという油断はあった。
 1.5号では1号企画(主に俳句に七七をつける企画について)について議論が掲載された。扶呂さんが俳句に七七をつけるのに疑問を投げたのがきっかけだ。扶呂さんは俳句も書く人だった。俳句も書く守谷さんにも意見を書いてもらっている。……こう書くときちんと議論が成立していたようだけれど、ちょっと文章を書いただけで答えが出るようなテーマではない。おふたりは反感や違和感のようなものを表明していた。
 扶呂さんに対して青柳さんは「とにかく、愉しくないことはやりたくない」(p.28)と書いている。こうした態度で、すでに完成された作品を改変する。蛇足というか、汚す行為というかだと思う。
 常道以外のことは挑戦と見られることもある。挑戦は、自分の短歌に資するため、短歌全体のためにするものだと思う。だからこそ疑問を付された。
 われわれがやったことは、そういったこととはちがっていた。愉しいと思うことをやっただけ。短歌で遊んでいただけである。しかし、これは批判されてまですることだろうか? 少なくともよく知らない人の作品を許諾なしに改変したものを活字にする必要はあっただろうか。今だったらクローズドな場以外ではしないほうがよいと判断するような気がする。とはいえ、批判はネタにされた人からではなく、結社内からだったのでクローズドにしても何かしらの否定的意見は出たのではないかと思う。

 こういうことをしていたのは、短歌と関わっていくなかで「短歌を作る」「短歌について書く」以外のことはできないかということを考えていたからのだと思う。私自身、穴埋めも俳句に七七も「えー」と言いながら、むりやり書いたのでそんなに楽しめなかったけれど、「やってみよー」というのが大事だというのはわかっていた。
 そして性懲りもなく続く2号ではフジワラ作品のパロディ企画をやっている。3号は小池さんの『現代歌まくら』に出てくる歌枕を使った歌を作る企画。

 結局、こういうチャレンジ実作企画は続かず、鑑賞文企画が残っていく。「やってみよー」より「読む」が同人に求められていたということか。それとも「自分たち」から「ヨソ様」に興味が移っていったというべきか。

「階段しりとり」とは

 「階段しりとり」は、今でいうルールがちょっとキツいバージョンの「いちごつみ」である。当時はいちごつみはなく、私が勝手に考えた遊びです。おそらく「柑」以外ではやっていないと思う。

 一語ではなく「一句」、前の歌のどこからかとるのではなく指定の句というとり方してつなげていく。

2首目「1首目の2句を使って作成」
3首目「2首目の3句を使って作成」
4首目「3首目の4句を使って作成」
5首目「4首目の結句を使って作成」
6首目「5首目の4句を使って作成」
  ・
  ・
  ・

 というふうに続けていきます。何首で終了というのはなく、誌面の都合で歌数は決めていました。

 目次を見てわかるように、「柑」は大会の懇親会の最中に割と原稿を取っていました。階段しりとりはそういう場でも作られました。
 青柳さんと吉田優子ちゃんがハマって、後半になっても続けていました。

「柑」の増刊号

 増刊は「本誌のフォロー」「本誌でできないことをやるもの」としてスタートした。1.5号は1号の内容に対する議論が載っていたり、同人による本誌の作品評が載っているのでそのとおりだと思う。

 2.5号は書かれていないが、小木さんと私の短歌作品は「今ハマっているもの」をテーマに書かれている。

 3.5号は小池さんのインタビューが載っている。4号の特集「おしゃれ」を意識したインタビューだったけれど、夏の大会の1日目の夜遅くにやっていて、飲酒後のためグダグダである。「扶呂さんがお風呂」とかこれまでの人生と膝枕問題などどーでもいい話題が満載。それでいて、この日に行われた森岡貞香さんのお話についてなどまじめな話も少しはしている。今読んでもおもしろいし、実際、この号が一番売れた。他の号は5部ずつくらい在庫あるはずだけど、この号は本当に完売した。もし2部目がみつかったら今度こそNDLに納本します。
 小池さんのこんなインタビューは他にないと思うので、何かあったらどこかに再録してほしい。

「柑」の体裁

 「海図」とちがうところは「柑」は表紙をページの起点としているところ。つまり、本文1枚目のオモテが3ページとなる。
 「海図」より同人は減ったのに、ページ数は多い。「海図」が16-54(つまり「柑」の数え方だと20-58)、「柑」は46-80(「海図」数え方だと42-76)。ちゃんと数えていないけれど、「柑」は3000字超える記事はめずらしくなく、5000字を超える文章も何本か載っているはず。こういうことができたのはページが多かったからだと思う。こういうことをやっていたから多くなった、のかもしれないが。
 分厚いだけあって無駄なページもある。埋め草を用意していた割には謎の捨てカットのみのページがあったりする。こういうところはツメが甘い。

 「海図」では作品は1人1ページだったのを見開きを基本とした。1号は作品10首程度だったのが(10~15首で依頼したのではないかと思う)、1.5号によると「10首では少ない」という意見が出たらしい。記憶にない。2号からは歌数が増えているので、おそらく話し合いを元に増やしたのだと思う。
 15首だと見開きだが、16首になると見開きだったり、3ページだったり。見開きを基本としながら割付の都合でテキトーにやっている。歌数もまちまちだったので作品ごとにレイアウトがちがう号がある。今だったら絶対やらないです……。
 今回、見返していて一番ショックだったのが、5.5号の奥付だけ発行日が「平成」になっているところ。他の号は西暦です。変更するのはいいけど、次の号にもひきついでほしい。

 その他にも今だったら絶対しないという部分がたくさんあって、本としてどうにかしようとがんばった形跡はあるのだけれど、完全素人仕事でした。

 「海図」は表紙・裏表紙を川本浩美さんにお願いしていたけれど、お忙しいということで「柑」のロゴだけやってもらった。「明朝系でこれくらいの大きさ」みたいなオーダーを出したと思う。ロゴといってもデザインではなく写植です。号数を示す数字部分も7号分を最初に出してもらった。

 表紙のイラストとデザインをやってもらった田丸吉伊さんは短歌をやっている人ではない。あのロゴとワクと号数位置が固定というデザインは田丸さんが決めた。こうしてほしいという要望は出していない。
 アマチュアのイラストを描く人で、お願いしたらやってくれた。人物は苦手ということで、風景や植物、動物の絵を描いてくれた。最初は中のカットもやってくれていたけれど、途中から忙しくなってしまって、表紙のみになっている。
 「柑」の表紙は1色だったのでいろんな色のインクを使ったけれど、紙との組み合わせがいまいちな時もあった。絵がキレイに出ないことがあって、それは申し訳なかった。

 版下は私が作成していた(1号の企画1と企画2は、書体がちがうので青柳さんが版下までやっていると思う)。郵送されてきた原稿(手書きもワープロもあった)をわが家のパソコンで入力・印刷する。印刷した紙をきりばりしていわゆる同人誌用のマンガの原稿用紙に貼る。入稿は宅配だった。ノンブルはノンブルシールを使っていた。印刷所は「海図」からひきつづきで栄光さん。他は検討していない。
 わが家は「柑」のころにはワープロからPCに切り替わっていた。最初のほうにメールはなかったと書いたが、1998年頃にプロバイダに加入しているので「柑」の途中からはメールは存在した。ただ、「柑」同人が連絡をとりあうツールとするまでは普及しなかった。電話と手紙が基本だった。
 ネットがあるといってもできたのはメールがせいぜいで、原稿はまだ紙ベースだった。テキストファイルのデータ入稿をもらったのは1人だけだと思う。そのデータ入稿もフロッピーディスクと印刷した紙を郵送するという方法でした。ハードをつけるのは、文字化けがあった場合の確認用、万が一ファイルが壊れた場合などの保険として存在していました。


「柑」後半

 懺悔コーナー。

 後半は私は名前ばかりの編集人で遅刊しまくりだった。増刊号と本誌が1週間ちがいで出たり、同日に刊行されたりしている。本誌が1月と8月、増刊号のその間ということしか決まっていなかったとはいえ、ひどいと思う。
 後半の「柑」がなんとか出ていたのは青柳さんや典子さんといったまわりの方々がやってくれていたから。このことは本当に頭があがらない。
 最初に考えていた美しいプランも、「こうすればやっていけるのでは」というラインのプランもことごとくつぶれました。「できない」という状態になるとそんなこと言ってられないのです。最後は「とにかく出そう」になっていたと思う。

 3号まで、つまり創刊から1年ほどは予定どおりに刊行されていたものの、3号を見ると早くもあやしい雰囲気になっている(私のやる気が)。

 3.5号を見るとあきらかに青柳さんの采配で記事が決まっていて、私がやっているのは小池光インタビューだけ。しかもこれ、本当は青柳さんが聞き手の予定だったのです。予定では発行のあれこれ以外何もしないことになっていた。
 夏の大会の初日の夜にインタビューというアポを(青柳さんが)とっていたのだけど、諸事情で青柳さんが来られず。質問をホテルあてにファックスしてもらって、なんとかやったものです。いろんな人に助けてもらいました。インタビューとったのが会場ホテルのロビーで、それまで小池さんとしゃべっていた人がそのままついてきたともいう。
 小池さんのアポとり、下準備、朱入れのやりとり、テープおこし等は青柳さんがやっています。

 このころになると、私は短歌をあまり作らなくなっていて、「短歌人」も欠詠ばかりになってくる。どうしてそうなったのか記憶がない。4号、5号と作品はかろうじて出しているけれど、本格的に何もしていない。6号は欠詠。短文だけ。7号は作品10首だけ。あれこれやっていた「海図」の終刊号とはえらいちがいだ。

 4号で小池さんの『現代歌まくら』の刊行にひっかけた特集を組んだあたりから古典に関する企画が出るようになる。これは私ではなく青柳さんの趣味だったと思う。私もかつては国文の徒だったので特に抵抗なく。他の人たちも「古典にふれたことがない」ではなく、なんやかんやで万葉集から好きな歌をあげるくらいのことはできるメンバーだった。ただ「この一首」特集での時代区分がやや謎だったり、引用元未記載だったりで、慣れていないカンジにあふれている。表記があやしい歌などもある。
 最終号の7号は特集が「古代歌謡」。版下作成と入稿はずっとやっていたはずだが、この号の編集についてもあまり記憶がない。

 このころは、転職したり、私が短歌自体をほとんど書かなくなっていた時期である。無職期間が半年ほどあって時間はあったはずだけど、1日単位で生きるだけでせいいっぱいみたいな状況で、「柑」のことだけでなく、短歌関係、生活のこともだいたいは記憶にない。
 7号を発行した2001年というのはタカセさんが亡くなった年でもある。それでなんとなく短歌関係の場に復帰して、最終号も出せたというのはあったと思う(内容はタカセさんとまったく関係ないです)。

「柑」の参加者

 「海図」を見返して同人とそうじゃない人がハッキリしているのが意外だった。それというのも、私が「柑」の同人が誰だったのかよくわからないから。

 2号に同人紹介がある。ここに載っている人は確定だと思う。篠宮さんは同人だったような気がするけれど、紹介に入っていないし、1号以外は書いていないので、1号だけ(か1.5号まで)の同人だったのではないかと思う。個人的には篠宮さんのエッセイも読みたかったと思う。逆に館石さんは紹介に入っているけれど、作品は載ったことがない(文章と階段しりとりだけ)。

 前川さんのエッセイは最初からあった。1ページの埋め草を書いてもらってページのアキがあったら載せる、ない場合は次号送り。載ったら次のを書いてもらうという手順。
 送ってくれた直後の号かその次の号には載せていたと思う。前川さんが文章を書ける人なのかわからずにお願いしたので、もらう前は「いきなり頼んだりして迷惑じゃなかったか」「書けないって言われたらどうしよう」という気持があったけれど、もらったものを見たら即安心した。前川さんの文章は気持ちのいい文章で、とても評判がよかった。
 最初から最後までこんな調子で、内容についての打合せや相談などもないままやっていた。「×月通信」という前川さんがつけた。「読む人が警戒するようなクセがない」「どんな内容でも違和感ない」「執筆から時間の経った号に載ってもいい」という融通のきくすてきなタイトルだった。

 「柑」は同人は多くないけれど、レギュラー参加者がいらした。川村さんとかエリさんとか、途中からは私より書いていたと思う。

 全国大会で即詠してもらったり、アンケートとったりして記事を作っていたので載った人は多い。同人以外が60名を超えている。「海図」は10名程度だったので、どれだけ多いかわかると思う。

(2号時点での同人)
青柳守音
秋山裕子
小木晶羽
川本浩美
館石正男
花笠海月
前川かおり
森典子
山本奈於子

(表紙、カット類)
田丸吉伊

(作品評の外部寄稿)
大辻隆弘
片山昭子
加藤治郎
鈴木竹志
田中綾
東直子
穂村弘
吉川宏志

(ゲスト・3号以降の参加者)
※アンケートだけの人も含めます。
※同一人物別名義は、そのまま別の場所にあります(改名表示がないため)。

青城翼
阿部久美
荒木美保
岩下静香
宇田川寛之
エリ
生沼義朗
大森益雄
岡田経子
織田香寿子
小田原漂情
梶智紀
鎌倉千和
川明
川村廣実
如月圭
菊池孝彦
倉田陽子
小池光
粉河史朗(おそらく粉河子朗の誤記)
粉川子朗(「川」であっていると思うが「河」の時もあったような気がする。こちらは誤記がどうか微妙)
小菅由貴子
榊原敦子
篠宮千秋
白石祥子
高瀬一誌
高澤志帆
高田流子
高野裕子
高橋浩二
瀧田麻由
竹花沙羅
多田零
橘夏生
堤亜沙子
坪直喜
鶴田伊津
梨田鏡
夏八木碧
西王燦
西橋美保
西村美佐子
長谷川富市
原田隆
春畑茜
平野久美子
藤原龍一郎
扶呂一平
三井ゆき
守谷茂泰
八木博信
山寺修象
横山絵里
吉岡生夫
吉田優子
依田仁美


くぎりせん


(関連記事)

同人誌「海図」総目次
https://note.mu/klage/n/n60afce97ddd2

「海図」のころ
https://note.mu/klage/n/nc277027b80e4

同人誌「柑」総目次
https://note.mu/klage/n/ndf8b0c768dc0

「柑」のころ
https://note.mu/klage/n/nd9041c7bb4cb



20220825 更新。誤字をみつけたので修正。ついでに少々加筆。
20191019 更新

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