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人間のいのちのきはのみじめさをきのふ見けふ見あすもまた見む(小宮良太郎『雨』)

 りんてん舎さんの入荷tweetに小宮良太郎さんの『雨』(短歌人会)があった。

https://twitter.com/rintensha/status/1151793501215977472

https://twitter.com/rintensha/status/1151796764308959232

 こんなやりとりも。

https://twitter.com/hanaklage/status/1151806395324305408

https://twitter.com/rintensha/status/1151808591633928192


 ひっぱりだしてきたついでに一首紹介します。


人間のいのちのきはのみじめさをきのふ見けふ見あすもまた見む p.91


 どうですか。

 私にとって『雨』は困るというかどうしたらいいのかよくわからない歌が多いです。この歌にいきあたった時も困惑しました。

あはあはと光をとほす花びらにうちかさなりてゆらぐ追憶 p.3

 この歌集はこんな淡いきれいな雰囲気ではじまっています。それが数十ページ後には「いのちのきはのみじめさ」です。

 すさんでます。

 どうしてこんなことに。

 この歌の前にはこんな歌も。

裁くものと裁かるるものと相対し心はつひにふれあふことなし p.90

 何とも身もふたもない世の中の歌としか言えない。

わが生活正しきや否かかにかくに日日の飯に事かくべからず p.173
冬眠よりさめていくばくすでにしてむくろとなりてむなしき蛙 p.187
ある日のわれのこころに染みたりしよごれて赤き萎え落椿 p.193

 このあたりもすさんでいる。『雨』はまだ文語定型とされる時代の歌集ですが、破調の歌もまじっています。そこも何かはみだしたカンジを受ける。

 掲出歌にもどります。

 「いのちのきは」はみじめなのか。それを毎日見ているのか。
 この歌集には『ひなた』からもれた戦時中の歌なども入っているのですが、この歌は戦後の歌です。どうもつとめ先が倒産?か何かでバタバタしているらしきことが書かれている章にあります。小宮さんの戦時中の歌は、大変な状況を思わせながら距離をとっているところがありました。しかしこの歌はちがう。

 「人間」とおおづかみにはじめ、「いのちのきは」とまた大きなぼんやりしたものの話をし、「みじめさ」という評価をする。状況はわからないながらも戦後ですからいくら切迫した状況とはいえすぐに「いのちのきは」に至ってしまう状況ではないはずなのです。それを「いのちのきは」と書いた。
 そして「きのふ見けふ見あすもまた見む」と続ける。この下句から何を感じるかというと「何もしてない感」です。この人は「見」しかできない。
 なぜなのか。
 それは上句に書かれています。上にあるような身の回りを大きなつかみ方しかできなくなっている状況、大きなものとして相対するしかない状況。そういう身うごきのできない状況にいる。どうしようもない自分。それをそのまま書いた。

 こういうところが小宮さんが現代の感覚に通じると思うところです。

(付記)

 『雨』は国会図書館、都立多摩図書館、詩歌文学館、さいたま文学館などで読めます。歌集は、県立、大学図書館に案外入っているので利用可能なところを検索してみてください。

http://id.ndl.go.jp/bib/000000969382
https://www.library.metro.tokyo.jp/
https://www.shiikabun.jp/
http://www.saitama-bungakukan.org/


(余談)


 この倒産騒ぎ?の章の後に妻と温泉へ行き、入浴中の「老妻」のヌード写真を撮影する歌が出てきたりもします。別の意味でも困惑。

湯にひたる妻の裸形を撮らんとす老いては何のかくすことなし p.100
湯にひたる老妻を撮るとのぞきこみカメラ操るその手もとあやふ p.100

 いや、いいですけど、これ小宮さんの生前最後の歌集なんです……。こういう普通は書かない感情を書いてしまうところが、『草』p.96の「まざまざと吾が性(さが)を受けて來るといふ子の生るるを恐れつつ待つ」みたいな「自分に似た子が生まれるのが恐い」みたいな歌を書かせてもいるのだと思うので、肯定していきたいところです。しかし、身近な人の実生活としては考えたくない歌という何とも触れづらい歌であり、歌集なのです。




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