大辻さんの2つの時評
大辻隆弘さんの朝日新聞の「短歌時評」のうち下記2つについて簡単にコメントします。タイトルから誤解されそうなので一応ことわっておくと、結論の出ないところで、なんか感じたという表明であって、有用な内容ではないと思います。
内容としてはツイートでよかったけれど、議論にかかわるなにかはtwitterむきではないと思うんで、こちらに書きます。twitterは言いっぱなしでもゆるされるところがあると個人的に思っており。ちがう場であるnoteに書く以上は、多少ていねいにやらねばと思ったら、長くなったんでダルい人はまとめ部分だけ読んでください。
2つの時評というのは下記。
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・2017年4月24日掲載「ジェンダーを超えて」
・2017年7月24日掲載「歌会こわい」
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「ジェンダーを超えて」は、瀬戸夏子さんの角川短歌2~4月号掲載の「死ね、オフィーリア。死ね」について。
「歌会こわい」はtwitter上の「歌会怖い」という話題に対する内容。
「歌会こわい」のほうは、事実誤認があり、大辻さん御自身もフォローの連続ツイート・コメントをされたほか、当然のように当時のことをリアルタイムで見ていた人たちも反応(もちろん私の見える範囲であって、特にクローズドな場での反応は重要なもの(直接の関係者の方の発言など)があるかと思いますが把握していません)。
「歌会こわい」は、火元となった歌会に関係していなくても、リアルタイムで話題に参加した当事者の数が多いぶん、全体の流れがわかりづらい。私も少しは話題になったブログを読んだり、ツイートをチラチラ見たりしたけれども、いまだに前後関係、なぜ話がそのように発展したのかわかりません。
わかりません、と書いたけれども、話の順序が追えていないだけであって、ある程度の推測はしています。この話題は「歌会怖い」というハッシュタグで歌会について思うところをつぶやくという方向に発展した。このハッシュタグの「優秀さ」がよくなかったように思う。
「歌会怖い」という言葉に心あたりがある人が多くて、元の話題とは何の関係もない私もそれなりに目にしたのだから、皆でもりあがれる、拡散力のある優秀なハッシュタグだったと思う。語りたいことをそれぞれのTL上で楽しく・真摯に語っていただけなのだから、拡散させた人はまったく悪くないと思います。
大辻さんが御覧になったのもおそらくそれらの一部なのだと推測されます。
私が「歌会こわい」を読んで「うーん」と思ったのは、ことのあらましを述べる中段までの部分です。
歌会に興味薄いのであまり追ってなかったせいもあり、私自身は全体はまったく把握できていません。が、かなり拡散してしまった話題だということは察知しています。多くの人がかかわっているだけに、ある程度リアルタイムで追っている人でもすべては断定できていない状況で、大辻さんがこのように書くことは「ホントかな?」という感想になってしまう。
なんとなくもやもやとしたものを感じながら読み終えて、「これって以前にもあったような」と思い出したのが「ジェンダーを超えて」。
大辻さんが瀬戸さんの怒りを「純粋で感動的」と表現したことについて田丸まひるさんが下記のように反応されました。
https://twitter.com/MahiruTamaru/status/856859270868082688
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朝日新聞の大辻隆弘さんの「短歌時評」は、角川短歌の瀬戸夏子さんの時評を取り上げているのがよくて、わかりやすくまとめてくださって概ね同意でしたが、瀬戸さんのフェミニズムの主張を「呪詛」「純粋で感動的」と表現されたのは、それこそ「かわいい女」扱いと受け取られそうで真意が気になります。
22:15 - 2017年4月25日
(最終アクセス:2017年7月25日)
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これを読んで、たしかに田丸さんがこのように反応するのは無理もない書き方だなーと思って、じゃあどう書けばよかったのかというのを考えてみたんです。瀬戸さんの文章を読み返したりもして、いろいろ捨てながら大事なところを述べるためにつっぱしる姿は「純粋」と思ってしまうところがあり。
田丸さんは続けて下記のようなツイートを続けておられます。
https://twitter.com/MahiruTamaru/status/856862563539107840
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瀬戸夏子さんのフェミニズムの主張は「呪詛」じゃなくて「意見」、「純粋で感動的」なのではなくて、とても当たり前の、言うべきことをきちんと言っているだけなのでは、と思うのですが、どうなんでしょう。感動、ではわたしは回収できなくて。
22:28 - 2017年4月25日
(最終アクセス:2017年7月25日)
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当たり前の主張を「怒り」と表現されたことに対する違和感が表明されています。そして「純粋で感動的」のうち、ひっかかっているのはどちらかというと「感動」なんですね。感動は当事者以外の人がするものだから……と私は考え、田丸さんが「回収できなくて」と書かれたことになんとなく理解がおよびました。
「怒りは純粋で感動的だ」についての私の考えは、それ以上は発展しないままです。「はあ、そうですかねえ」くらいの感想しか持っていなかったのが、田丸さんの発言によってもうすこし具体的にもやっとするところが見えたということです(私はものを考えるのにむいていないので、だいたいこの程度の把握で止まります(もっと言えば把握することは好きだけど、評価することは好きじゃない。そして「歌会怖い」については把握することをあきらめています))。
「歌会こわい」にもどります。
大辻さんのフォローで「大辻さんは全体を把握しているという自己認識で書いた」という部分については解消でき、またまちがっていた部分や批判をある程度(見えている範囲と思われる)をふまえてのフォローでなかなかこれをすばやくできる人はいません。大辻さんの誠実さだと思います。
しかし、なお「うーん」と思うのは、「なんで全体像がわからないものの全体を知っているかのごとくを書いてしまったのか」「自分が見た範囲ではーって書いたほうが誠実では?」と思ってしまうからです。なぜtwitterでは(賛意が得られるかはともかく)理解が得られる内容を書けるのに時評では書けなかったのでしょうか。
大辻さんのフォローのうちのひとつの下記。
https://twitter.com/otsuji28/status/889491038460452864
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【見解②】ネット上にはさまざまな考えを持つ人がいる以上、それを総括的に語ることは非常に難しく、現実的には不可能であるということが分かった。新聞というオフィシャルなものに時評を書く以上、総体的傾向を捉えにくいネット上の言説はソースとして不確かなものである、ということを痛感した。
23:22 - 2017年7月24日
(最終アクセス:2017年7月25日)
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「ネット上の言説はソースとして不確かなものである、ということを痛感した。」というのはいくらなんでもまとめすぎではないだろうか。
ネット上でも、公開されている場での一対一の論争がもしあったとしたら、それは時評として扱うにあたって別に追うのは難しいことではありません(もちろん紙のかたちで刊行しようとしたらすでにアクセスできなくなっていたーみたいな不確かさはある)。
むずかしいのは「「歌会こわい」の全体像を追うこと」である。
大辻さんは下記のようにも書いておられます。
https://twitter.com/otsuji28/status/889490138799063040
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【見解】今回の「歌会こわい」の議論については、どこが発端か分からず、既に様々に飛び火し、炎上した時点から「これは何だろう」と考えを進めた。私の目には「歌会にいきにくい、怖い」という意見が主流に見えた。その意味では私の視座から見た狭い認識に依拠して論を進めた部分はあった。反省する。
23:19 - 2017年7月24日
(最終アクセス:2017年7月25日)
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どうしてこのツイート内容のように書かなかったのだろうか。不確かなものの一端を目にして思考したと、そのまま書いてはいけなかったのだろうか。「私の視座から見た狭い認識に依拠して論を進め」たこと自体は悪くないのでは? 大辻さんの短歌観は大辻さんだけのもので、それを寄稿することはまったく問題ないと思います。むしろ大辻さんオリジナルの見識、思考の流れのようなものは読みたい(という人は多いと思う)。
twitterでおこったことは大辻さんだけのものではない。反省すべきところがあるとしたら、自分の把握していない範囲があることを明示しなかったところではないでしょうか。自分が見たこと=事実と断ずる態度のように見えてしまう。これは字数の問題ではなく、態度の問題だと思います。
実際の大辻さんはリアクションに対し、@ツイートを中心に反応、反省も表明している。そういう人だということがこの文章からはわからない。
この2つの時評で、多少意味はちがっていても「うーん」というところで止まってしまったのは、断定することの傲慢さに対するあきらめのような気がします。そう感じてしまったら、読むほうとしては「まあそう言いたいんだったらいいんじゃないの?」とつきはなしてしまう。それは大辻さんの望む反応なんだろうか。
断定できる勇気は時評子に必要な資質なので、ある程度は勘案して読みます。「この人、ホントのホントに心の底からこう思ってるの?」などとつっこんだりはしません。断定をカッコよく感じる日もあります。
(まとめ)
・「歌会こわい」問題は個人的な把握を全体のように語っているように見えた。
・「ジェンダーを超えて」の「怒り」「純粋で感動的」という箇所は完全見物人っぽい表現だと思う。
これらにより大辻さんが乱暴な書き手に見えてしまって「うーん」となってしまったということです。
了