ジェンダーって言うのはやめないか?(雑短文)
「ジェンダーって書かないほうがいいのではないか」と、いうことをここのところずっと考えていた。
(正確に言うと最近一ヶ月ほど精神が使い物にならなかったので、昨年後半から今年にかけてくらい。)
なんとなく思っていただけだったのから「1回言ったほうがいいかも」と思うようになったのは「短歌研究」の年鑑を読んだ時だ。※
恒例の巻頭の座談会「歌壇展望座談会」(佐佐木幸綱、三枝昴之、栗木京子、小島ゆかり、穂村弘)に「「ジェンダー」をめぐる問題意識」という項目がある(p.15)。
年鑑に目を通していない人がいらしたら、ちょっと想像していただきたい。
2019年の年末に出た一年をふりかえる本に「「ジェンダー」をめぐる問題意識」という項目があったら、どんな内容だと思いますか?
いろいろな時評、あるいは作品、評論、「現代短歌」の特集、ネット上の記事やあれこれ……それぞれいくつも思い浮かべると思う。
実際に出ている単語をいくつか拾ってみる。「女人短歌」「女流の歌を閉塞したもの」「菱川善夫」「阿木津英」……。
この項目が出ただけでも「短歌研究」の目配りはできていたと思うけれど、がっかりしたというのが正直なところだ。
菱川さんの読みの限界があるという阿木津さんの指摘は重要だけれど、申し訳ないが、2019年の「「ジェンダー」をめぐる問題意識」の半分の紙幅を占めるような話題なんだろうか? だったら「菱川善夫生誕90年」「菱川善夫の限界」「塚本邦雄の新しい読解」みたいな小みだしでよかったんじゃないのか。
こういうふうに書くといいがかりのように見えるだろうけど、「ジェンダー」ってわからないままに書くのやめませんか。「ジェンダーって恐いと思います。よくわからないのでこれから考えます」みたいな文章を見るのに疲れた。
「ジェンダー」をわからない人が書いてはいけないという話ではない。書くのは何らかの当事者だからだと思う。実際に何を見たのか、どう思ったのかを書けばいい。twitterでちょっと言いたくなったのはなぜなのか、ブログに、あるいは結社誌に書きたくなったのは何を見たからなのか。
「ジェンダー」という言葉の意味がわからないのに書きたいと思ったのなら、そのきっかけは何なのか。「女性差別」「女性蔑視」「男性優位」「男女でわけて起きた問題」「○○さん(女性)は入らないのに○○さん(男性)が入る」「なぜ○○がテーマの歌となると女性ばかりがとりあげられるのか」……いろいろあると思う(上記はとりあえずの例としてあげたたけで男女逆で思い浮かべる人もいると思う)。それを書けばいいと思う。
フワッとした解釈でフワッと読ませるために「ジェンダー」と使うのはやめませんか。
※もちろん、「短歌研究」以外にも「むむっ」と思うものは目にしている。
このnoteで「短歌研究」を非難しているかのごとき記事がいくつかあるけれど、特に恨みなどはありません。普通に購読しています。
他誌に問題がない訳ではないけれど、個別記事に分け入らざるを得なくなり、確認に時間がかかる上に話が長くなる。それで省略しているのであって、何か言いたくないということではない。また、私の記事は「私はこう思う」「思った」という話であって、雑誌の制作サイドが「差別と言われるデメリットと別のメリットを天秤にかけてこうしている」という判断をされているのなら、それはそれでよいと思っている。
「今月号は問題あったから来月から変えます」みたいなことがあったとしても、私の興味は歴史的に見てどうなのかというところなので、長期的に影響なければ見なかったことにします。社会とのかねあいで自然に変わるところを見たいので、「今対応するかどうか」は私にとってはあまり重要ではないです。