1990年のニューウェーブ
※敬称略です。ときどきさんがまぎれていますが、文章の流れでなんとなくなのでさんのついているついていないは気にしないでください。
細井剛の2冊の評論集に目を通す。ずっと読んでなかったもの。
前衛の論者のうちのおひとりというイメージがあり、前衛にふれている文章を読んでおきたい気持があり、今ごろひっぱり出してきたもの。
両方ともいろんな媒体にその時々のテーマで書いた文章を集めた本で、1冊とおしてのテーマみたいなものはありません。
・『現代短歌の光と翳』(雁書館/1980年刊)
http://id.ndl.go.jp/bib/000001452105
・『歌の転換』(沖積舎/1990年刊)
http://id.ndl.go.jp/bib/000002108096
※両方とも国会図書館で読めます。
『歌の転換』の帯文に目がくぎづけに。
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若い世代を中心とする新しい波、いわゆるニューウェーブを注意深くみつめ、その現実の背後にある意味を常に考えてゆく姿勢で、この十年の様変わりする現代短歌を鋭く論考する。
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誰が書いたのかわかりませんが、この帯文にはなぜか「ニューウェーブ」とあります。もちろん最近話題の「ニューウェーブ」についての文章はありません。
ライト・ヴァースにふれた文章「固定概念からの脱却」という文章はあります。岡井、俵、加藤、中山の名前が出てきます。
ニューウェーブは一般語なのでどこから来てもいいんですけど、それでもこのニューウェーブはどこからやってきたのか。「いわゆる」っていうのもなんなんか。
編集として山崎郁子がクレジットされています。
以下、前衛に関係ありそうなところの紹介。
『現代短歌の光と翳』
この中の「現代短歌史論序説」「短歌史のなかの戦後」あたりに前衛についての記述あり。他にも菱川さんとか岡井さんについてとかちょこちょこ関係する話は出てきます。
「現代短歌史論序説」で細井は、近藤芳美『埃吹く街』と塚本邦雄『水葬物語』を戦後短歌の起点と書き、「今日ではほぼ異論がないだろう」(p.90)としている。
p.93で「前衛短歌の運動」の話題になり、寺山、塚本、岡井、前の名前をあげている。
この展開は同意できるかどうかというところだけれども、一貫性はあり、ひとつの体験的見方としておぼえておいてよいと思う。
『歌の転換』
「菱川善夫論」が収録されている。菱川の論の紹介なのか、細井の意見なのか、細井の意見も入った菱川の論の紹介なのかが取りづらいところもありつつ、前衛についても言及されている。
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昭和二十九年の中城ふみ子、寺山修司の登場は、今日からみると、前衛短歌時代の開幕の華々しさを予告したような、象徴的なできごとであった。
(中略)
批判の多くは、中城ふみ子、葛原妙子、森岡貞香など、当時の女歌の反写実的な傾向を、「難解派」と非難を浴びせるところからはじまったので、当初は女歌否定論と受けとられるむきもあったが、今日からみれば、伝統派の側からの前衛否定であったことは、疑う余地がない。
p.143
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p.143で細井は中城、寺山、葛原、森岡の名をあげている。
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「表現とは何か」のなかで菱川は、前衛短歌を「技法の一面」でのみとらえると、葛原、生方、斎藤史、山中さらには前登志夫等々の歌人達までもが、非写実、抽象歌という点で前衛歌人の範疇に入ってしまう
p.148
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と細井が要約したうえで、菱川の「表現とは何か」(初出は1979年)より次のように引用する。
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前衛短歌の前衛性を、技法の上でなく想像力の犯罪性においてみるとき、前衛歌人の中核的存在はおのずと局限されてくる。塚本邦雄、岡井隆、寺山修司、春日井建の四人こそ、真に前衛の名に値する歌人であった、というのが私の見解である。
p.149
(このnoteは孫引きにあたるので「表現とは何か」が収録されている菱川の著書『飢餓の充足』(桜楓社/1980年刊) http://id.ndl.go.jp/bib/000001450288 のノンブルではない)
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「開幕」だの「実質的な開花」だのいろいろあり、ずばり「前衛である」という文脈ではないのだけど、この文中に名前があがっているのが下記になります。
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中城ふみ子
葛原妙子
森岡貞香
生方たつゑ
斎藤史
山中智恵子
前登志夫
塚本邦雄
岡井隆
寺山修司
春日井建
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現在あげられる前衛短歌とずれているのではないだろうか(2回目)。
前衛歌人ではないという話をするための名前としてあがっている方も多いとはいえ、女性のほうが多いくらいです。一応、1979年時点で「非写実、抽象歌という点で前衛歌人の範疇」として名前があがることもあったと認識されている人たちということになります。
それにしても、今となっては菱川さんの「塚本邦雄、岡井隆、寺山修司、春日井建の四人こそ、真に前衛の名に値する歌人であった」は罪深い文章と思ってしまうところがあります。
菱川は「私の見解である」としているし、「真に前衛」としているから真じゃないけれど前衛みたいなのが視野にあると思う。前衛が拡散し、それぞれ勝手なイメージで語られていた時期に発表された文章で、菱川には強く言わねばならないという事情があったというのもある。四人って言いきっちゃっているけれど、四人だけの話をしている訳ではない。
しかし、前衛は四人は強い。
四人を疑い、前衛そのものを疑うところに私は行きたいと思います。
前衛と関係ないところで、個人的に「現代短歌のニューパラダイム 阿木津英と松平盟子を中心に」がおもしろかった。阿木津・松平というとりあわせが今となっては目新しいというのはある。とくにここ。
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「女流」に対し「男流」ということばがないことでもあきらかなように、このことばは、男がつくった文化体系に基礎をおく、つまり、男のテリトリーに属することばである。この例からあきらかなように、われわれの日常生活自体が、男社会の規範や体系に囲繞しているのである。阿木津英や道浦母都子が、女の生産性を否定したのは、すくなくとも文学において、囲繞しているその規範や体系を解体させたいという、熱い思いから発せられたものであるにちがいない(と想像する)
p.22
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初出は1985年。
※引用文中、「斎」はママ。「塚本」の「塚」は引用元別字。