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自分が『何者』であるか分からなかった私はあがいてあがいて私になった②

おはようございます😃


昨日からの続きです。

朝井リョウさんの『死にがいを求めていきているの』は『何者』とは違い、読めば読むほど不気味な感覚が強くなり、読後感もスッキリとはしません。

この先、主人公たちがどのような道を辿るかは、読書である私たちに委ねられています。


物語はいくつかの登場人物、時系列が入り混ざり、断片的に紡がれます。

一人ひとりの登場人物は物語の冒頭ではどのようにつながってくるのか全体像が見えてきません。


しかし、この物語の中心にいるのは2人の青年です。

1人は堀北雄介。


小学校時代の友人がテレビディレクターに語る堀北雄介像はこうです。

「要は言ってることがコロコロ変わって気持ち悪いって感じなんですけど、でも他にもそういう人はいっぱいいるじゃないですか。それとは違う気持ち悪さなんですよね…意見をコロコロ変えるくせにいちいち本気っぽいからかなー。すぐ命注ぐ感じが不気味なのかなー、うーん」急に、前田が、「あ、わかった」と顔を上げた。「あいつが言ってることがコロコロ変わるのが気持ち悪いんじゃなくて、立ち向かう相手をいきなり定めて、それに合わせてさも昔からずっと腹立ってましたって怒りを急造する感じが気持ち悪いんだ」

『死にがいを求めて生きているの』P346より引用


この言葉に表されるように、堀北雄介という人物は、小学校時代から体育の棒倒し、高校受験の時は、いきなり自衛隊行きます、この国に命注ぎます、(コロッと変えて北海道大学に入学)、大学に入れば入ったで、ジンギスカンパーティーを復活させます。

しかも、その活動すら、もっと合理的な方法で達成する人物が出てくると、一度も寮に住んだこともないにも関わらず、大学寮自治を守る運動に没入。

そして、最後、この物語の肝となる『海の者』と『山の者』の対立構造といういかがわしい伝承に導かれるままに、詐欺師にひっかかります。


しかし、雄介の狙いは、伝承に導かれるままに世界平和を実現することではなかった。


どん底を経験し、そこから這い上がった自分というストーリーを作り上げ、『何かをなしとげた自分』になることだったのです。


一方で、この物語の中心人物である南水智也は物語の中で終始『読めない』人物です。


なぜ南水智也がこの粗野で不気味な堀北雄介と離れないのか。


物語の終盤にその謎が解き明かされます。そして、南水智也自身、いかがわしい伝承を真剣に説く父親を否定し、対局構造にある海山伝承を否定するがために研究分野を選び、そして、堀北雄介と離れないのであるという事実が明かされるのです。


それと同時に、堀北雄介は、新たな歪んだ生きがいを見つけるのです。

しかし、物語のラスト、堀北雄介の思惑とは違い、南水智也は目覚める方向に向かう?

ここで物語は終わります。

浄化される感覚のない不気味さが残るスッキリしないラスト。




私はこれこそが生きていくことなのだと感じてなりませんでした。


『何者』の感想の中で、大学時代、冷ややかにあがく人を冷めた目で見つめていた私は、サークルで、あがいてあがいてあがいたすえに、何者にもなれない、自分が何者であるか分からない、自分が自分であることを許せなかった私は私にしかなれないということに気づきました。


そして、私らしく生きていこう。一度はそう決めました。


しかし、一方で、私があがいてあがいてあがいて自分に向き合っていた時間は、イコール、目の前で困っていた幼馴染の親友が苦しんで困って助けを求めてきた期間でもありました。


私は自分と向き合うことを優先して、幼馴染の手を振り払いました。

そして、後から振り返ったとき、私が自分と向き合うエネルギーすら、彼女から私がむしりとった、彼女が与えてくれた、そういう風にしか感じられないという私にとっての真実を突きつけられることになったのです。

自分らしく生きていきたいとやっと気づいた人生にとって最高にハッピーな時間は同時に自分の人生を豊かに温めてくれた最愛の親友だった人を見捨てた時間でもありました。


これは、自分の中で長年ずっと自己矛盾として、うまく統合できないままでした。


そんな中、昨年思い立ってnoteで毎日頭の中を書き出し、本音の本音を深く深く掘っていくなかで、なぜ発信するか、自分に言い聞かせるには、目的を明確にして、【夢は自殺する人を1人でも減らしたい】という言葉を夢として掲げなければ、発信も手記もとてもじゃないけれど、出せなかったのです。

あれから一年が経過しました。


今年の12月はサークルのメンバーと集まったり、当時の先輩とランチする機会に恵まれました。

15年以上会えなかった仲間と再会して話す懐かしくてありがたくて嬉しい時間。


こうして集まれる、会えることに胸がいっぱいになると同時に、同じ時間に悩んでいた友人のことが思い出されて、なんとも言葉にしがたい気持ちが胸に込み上げてきました。


だけど、それがいいのだ、それが生きていくことなのだと私は思ったのです。

スッキリとした浄化感のある『何者』と違い、不気味さと読者の読後の想像にその後の展開を委ねる『死にがいを求めて生きているの』。


この物語には、堀北雄介と南水智也以外にも様々な人物が登場します。


みなどこかに『痛さ』や『いびつさ』を抱えながら生きています。

著者朝井リョウは、これでもかというほどにそれらの人物の抱える闇や醜さを炙り出します。

ここまでひどくなくても、その負の側面は、私の中にもあるものでした。

ホームレスを救う運動に血道をあげるめぐみ。

承認欲求からレイブという活動に身を投じる与志樹。

過去の栄光にしがみついて離れられない弓削晃久と弓削晃久を利用する『悪いやつ』石渡。

畳み掛けるように描写される登場人物たちの負の側面。どうしてこうまでも負の側面を抉りだせるのかと言わんばかりのその描写に自分と似たところを探して居心地の悪さと気持ちの悪さを抱えながらも、委ねられた結末に、私はむしろほっとしました。


それは、生きていくことは、一足す一はニという風にいつもスッキリと答えが出るものではないし、なんとも言えない自己矛盾を抱えても、それでも生きていく。


それこそが生きがいであるということ。


世の中を白か黒かにハッキリと分けてしまうのではなく、グレーを許容しながら、その中で何を選択していくかを自分で考えて選びとっていく、その選択の積み重ねが生きていくことそのものだと。

その積み重ねは、その時その時の積み重ねは、私にしかできないし、後から振り返ったときに、その生き方が私らしさなのです。


それは、何も私にかかわらず、世の中の全ての人が等しくその人にしかなれないし、その人らしいのです。


私はこれまでの人生の約半分を、自殺する人を1人でも減らしたいという願いを心に抱いて生きてきました。


今もその願いが変わることはありません。願わくば生きていてほしかったし、今も悲しみは消えません。

しかし、そのために生きているのではないのです。

私はこの世に生まれおち、生きることを生き切るために生きているのです。


この世の中を自殺する人、しない人の二局構造で考えるのではない。



対立する二局に世界を分けるのではなく、もっと世界は複雑で、いろんな喜びや美しさ、悲しみや怒り、いろんなもので構成されていて、それだから、世界は美しいのだと思います。

 

朝井リョウさんの『死にがいを求めて生きているの』。

作中に出てくる『生きがい探し症候群』の言葉に微かに胸を抉られるつつも、それでも生きていくしかない。


そう、世界はこんなに美しいのだから。


そう思った時、どう生きても私らしくしか生きられないのならば、プロフィールをシンプルに変更しよう。肩の力を抜こう。

ふとそう思ってプロフィールを変更しました。


感想文ともプロフィール変更ともつかない長文をここまでお読みいただき、ありがとうございました。

メリークリスマス🎅🎄🎁

良いクリスマスを!

追記 今年も無事我が家にサンタクロースがやってきました。





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