
Sam Fender 『People Watching』 透明な何かが降ってくるような感覚 by 与田太郎
KKV Neighborhood #239 Disc Review - 2025.2.27
Sam Fender『People Watching』by 与田太郎
サム・フェンダーの3作目のアルバムが先週の金曜日にリリースされた。金曜日の朝から家にいる間はアルバムをリピートしながらかけっぱなしで聴いている。今作には1stの"ハイパーソニック・ミサイル”や2ndの"セブンティーン・ゴーイング・アンダー”のように、その場にいる人がみんな歌い出してしまうようなわかりやすいリード曲はない。しかしアルバム・トータルでの完成度は想像以上のレベルだった。曲やアレンジが、とか歌の説得力がとか、個別にその理由を見つけるのではなく全体のバランスというか、流れるように響いてくる何かが心の柔らかい部分に触れてくるような染み込み方をしてくる。それもサム・フェンダー個人の思いやメッセージということでもなく、彼の中から出てきたものではあるけれど、彼自身の”私"というものから切り離された、透明な何かが降ってくるような感覚、としか言いようのない気持ちにさせられている。
2000年以降、デビューから大きな結果を残したアーティストが3枚目や4枚目で失敗作というか、出す必要のないアルバムを出してしまうことが少なくなっているのではないだろうか。ポップスであれロックであれ、80年代、90年代はデビューから3枚連続してアルバムが名作、ということはそんなに多くはなかった。インターネットとSNSの普及により、ファンやリスナーの生の声や作品に対する批評や批判が可視化されたことと、音楽ビジネスの形態の変化により、レーベルの影響力の低下とアーティスト自身がよりビジネスをコントロールするようになり、経済的な要因やレーベルやマネージメントといった周辺からのプレッシャーが少なくなったことも大きな要因のひとつかもしれない。
前作の巨大な成功は当然サム・フェンダーにとっても大きなプレッシャーだったはずだが、今作で彼は想像以上の飛躍をしている。トップレベルのスポーツ選手がとんでもないプレイをしている時に、無意識で体が動く状態をゾーンに入る、という言葉で表現することがあるが、このアルバムでの飛躍はまさにそんなイメージだ。もちろん相当な数の曲を書き、繰り返し録音し、言葉を選び、数えきれないほどの自問自答や検証を繰り返しただろう。彼が望んだのは、歌い演奏している自分ですら飛び越えていくことだったかもしれない。この感じを説明するのが難しいのだけど、作者自身からも離れて存在する研ぎ澄まされ透き通ったある感覚、とでも言おうか。矛盾しているようだが、作ろうとしても作れないものを作り出すことに成功している。

サム・フェンダーはイングランド北東部のニューカッスルの近郊の出身だ。ニューカッスルといえば19世紀から炭鉱の街として栄えたが、80年代のサッチャー政権の炭鉱の縮小や閉鎖と労働組合に対する弾圧は90年代以降のニューカッスルに大きな影を落とした。炭鉱を中心としたコミュニティーの崩壊により貧困が社会問題となる。この問題は1994年生まれのサム・フェンダーが10代を過ごした2000年代まで続いていた。そんな環境の中、彼は両親の離婚や継母とのうまくいかない関係などを抱えながら育ってきた。1stと2ndのシリアスな出来事や人物の描写は自身の体験をもとにしているという。彼はいつもいちばん慰めが必要なのは自分なのに、誰かに向かって心配するなと伝えてくる。歌詞に救いがなくても曲からは絶望を感じさせない。それはイギリスで最もサポーターが熱いと言われるニューカッスル・ユナイテッドが人々の支えとなっている土地に育ったことが大きく作用しているのではないだろうか。
僕がサム・フェンダーを知ったのは2022年のグラストンバレー・フェスに出演した時の映像を見たのがきっかけだった。あの時に見た"セブンティーン・ゴーイング・アンダー”での異様なまでのオーディエンスの熱気と、まるでフットボール・チャントのように力強いオーディエンスのコーラスに圧倒された。彼の音楽的なメンターはブルース・スプリングスティーンで、イギリス人にしては珍しくザ・スミスでもオアシスでもない。サウンドもそうだが、彼はもっと深いところでスプリングスティーンに共鳴しているように感じる。人々の姿を歌うことで背景にあるドラマまでもを写し、時にそれが静かな告発となり、時に胸を抉るメッセージとなる。歌詞からストーリーを浮かび上がらせるスタイルには二つの大きな共通点がある。ひとつは語り手の視点のおき方で、過去と現在を行き来しながらストーリーを語る部分。もうひとつはリスナーへの音楽の差し出しかた、というか自然に曲に引き込んでゆく流れを無理なく作るところだ。曲が流れ始めるとそこに歌い手の姿はなく、語り手が歌詞に描かれた世界を見つめる表情が浮かんでくる。そんなサム・フェンダーのリスペクトを感じたのか、2023年の5月にスプリングスティーンはヨーロッパ・ツアーのイタリア公演で彼をフロント・アクトに抜擢している、さすがボスとしか言いようがない。
80年代のザ・スミスも90年代のオアシスも、その時代の人々の声を代弁していたけれど、現代においてロックが人々の声を代弁することはとても難しいだろう。明確なポップ・ミュージックでなく、若者の日常にフィットしたラップやダンス・ミュージックでもない音楽がここまで必要とされというのは驚くべきことなのではないだろうか。このアルバムに収録された曲はそれぞれ映画の印象的なワン・シーンを呼び起こしてくれる。僕が真っ先に思い浮かべたのはガス・ヴァン・サントが監督した1997年公開の"グッド・ウィル・ハンティング / 旅立ち"でマット・デイモン演じるウィルがカウンセリングに通う電車から見る夕景、そのなんでもない一瞬の夕暮れの美しさや、ラッセ・ハルストレムが監督した1999年公開の"サイダーハウスサイダーハウス・ルール”でトビー・マグワイアが演じる主人公ホーマーが自分が生まれ育った孤児院を出ていく時の一本道の先に続く青い空を思い出した。新作『ピープル・ウォッチング』はサム・フェンダー自身も予期しない何かが宿っている、それが彼のやりたかったことなのかもしれない。
毎日のように世界中から望ましくないニュースが流れ、アメリカの大統領ですらデマや嘘を堂々と言い切る時代に僕らは生きている。サム・フェンダーが描写する世界も苦々しい思いに満ちてはいるけれど、彼は苦しい現実を歌いながら嘆いてはいない。アルバムに収録された曲の中で、いまを見つめる彼の眼差しは透き通っている。曲も歌詞も歌も一切の歪みなく奇跡的なバランスで美しく佇んでいる、こんなロックが2025年に聴けたことを喜びたい。
アルバム発売前からスタートしたツアーはきっと来年まで続く。昨年予定されていたニューカッスル・ユナイテッドのホーム・スタジアムであるセント・ジェームズ・パークの公演は彼の喉の不調により今年6月に延期されている。彼のキャリアにとって何よりも大事なこのライブは、きっとニューカッスルのホーム・ゲームのキックオフで流れるマーク・ノップラーの"ローカル・ヒーロー”で始まるだろう。そこに集まったオーディエンスの歌声は今年世界中のどこよりも熱く響くはずだ。このライブは今年オアシスの復活ライブと同じレベルで重要なライブになる。サム・フェンダーはスプリングスティーンと同じように彼の歌を必要としているところ、歌ってくれる人がいるところへ行くことを優先しているような気がする。残念ながら日本で彼を見れる可能性はかなり低いだろう。もし来日が決まったとしても、そこに足りないものが一つある。サポーターがフットボールにおける12人目の選手であるように、彼のオーディエンスがステージにはいない最後のメンバーとも言えるのだ。だからいつかセント・ジェームズ・パークかウェンブリーで彼と一緒に歌いたいと思う。