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ヤマジカズヒデ (dip)インタビュー

KKV Neighborhood #213 Interview - 2024.4.6
インタビュー、構成 by 与田太郎
Top Photo by Emily Inoue
写真提供:屋根裏は地下室

1989年にインディー・レーベルのバイトから東京のインディー・シーンに入り込んだ僕にとってdip、もしくは前身であるDip The Flagはいつも遠からず近からずなんともいえない距離感のある存在だった。その孤高とも見えた佇まいと彼らの奏でるシャープなロックは時に羨ましいほどクールに見えたし、物静かに言葉少なくサイケデリックな演奏する姿には深い意図が隠されているようにも見えた。まだ80年代のニューウェーブの陰影を残していた初期でもインディーという言葉が使われ出した90年代初頭やクラブ・カルチャーがロックに影響を与えた90年代後半でも、dipは時代に流されることなくdipのサウンドを作っていた。僕自身は時代ごとに夢中になれる現場を追いかけていたけど、どのタイミングでもdipは絶妙な距離感で気になるバンドであり続けた。

この30年間のごく短い期間、1995年から1996年の1年にも満たない長さではあるがdipのスタッフをやったこともあるのだけど、その時期ですらヤマジカズヒデと音楽について向き合って話をしたことはなかった。それだけ90年代の彼は近寄りがたい雰囲気を持っていた。この10年でdipのライブでDJをやったり、キリキリヴィラの企画に出てもらったりdipの企画にシュガー・プラントが呼ばれたりする中でようやく少しづつ話をするようになっていった。
最近のライブを見ると、30年以上のキャリアの中でいまが一番安定したステージをやっているように感じる。長く彼らを見てきて気が付いたことだが、dipの本質はガレージ・ロックなんだと思う。テンポの速いエイト・ビートの曲では全ての楽器がドライブしながら、タイトなのに激しく音の輪郭がビリビリと震えているように感じる。そんなステージを見ていると、ヤマジが理想とするサウンドの型を求め、うねるように進むビートの先を期待している自分がいる。dipにいつも何かを期待してしまうのは同世代で同じような音楽に影響されてきたからなんだと思っていた。しかし今回はじめてしっかりとヤマジの話を聞いてdipに対する僕の考えの半分は当たっていたけど、半分はこちらの思い込みだったことがよくわかった。だからといってdipの音楽に期待する気持ちがなくなったわけではない、むしろより焦点が絞れたとも言える。

dip 2014

ー俺はdipのスタッフをやったこともあったけど、ヤマジくんにちゃんと音楽の話を聞いたことがなかったので今日はいろいろ聞かせてください。まず最初にいまのヤマジくんの音楽に繋がるような音楽を聴いたのはいつ、どんな音楽だったの?

ヤマジ いまの音楽に繋がるというのはエレキギターってこと?

ーもっとラフに音楽に興味をもったきっかけみたいなことでも。

ヤマジ 中学のころにラジオでフォークソングを聴いてフォークギターを弾き始めた。

ー最初はフォークギターだったんだ。

ヤマジ そう。

ーその時の曲やミュージシャンって?

ヤマジ あまり言いたくないんだけど、長渕剛。

ーそうなんだ、「順子」とかのころ。

ヤマジ そう、その少し前ぐらいの曲かな。

ー子供の頃からラジオはよく聴いてた?

ヤマジ 全然聴いてない。

ーそうなんだ。

ヤマジ 小学生、中学生のころはどちらかと言えば漫画が好きだった。

ーどんな?

ヤマジ かなり地味な、ちばあきおとか。

ー『キャプテン』とか?

ヤマジ そうそう(笑)。

ー俺も同じ世代なので、たぶん同じようなものを見てきたよ。

ヤマジ あと『ドカベン』とかね。

ー少年ジャンプが黄金期を迎えるの前の漫画だよね。

ヤマジ そう、チャンピオンとかも読んでた。

ー『がきデカ』と『ブラックジャック』が載っていたころだね。

ヤマジ あと『マカロニほうれんそう』ね。

ーギター弾きたくなったのは偶然ラジオを聴いて?

ヤマジ そう、突然。あっ、これ弾いてみたいって。いきなり覚醒したんだよね、なんかわかんないんだけど(笑)。

ーそれまではそんなに熱心にラジオ聴いたりもしていない?

ヤマジ そう、たぶんオールナイトニッポンとかぐらい。

ーそれでアコギを手にしてからは?

ヤマジ  中学2年でアコギを弾き始めて高校生になって軽音楽部にはいって、そうするとバンドを組もうってなるでしょ。それでバンドに入って、全然知らなかったけどディープ・パープルとかをやって。それからなんだろうな、RCにいくのかな。

ーフォークギターを手にしてからは長渕を弾いてたの?

ヤマジ そこから遡って友部正人とかも弾いてた。

ーそこまでいってたのか。友部正人なんて情報がないとたどり着かないよね?

ヤマジ それは、長渕剛のコンサートにいくとチラシくばってたり。あと長渕剛のラジオで自分が影響を受けたミュージシャンとして紹介してたり。それで友部正人や三上寛、それから吉田拓郎も聴いた。

ーなるほど。その時期だと世間的にはオフコースの全盛期だと思うけどオフコースのようないわゆるニューミュージックは聴かなかった?

ヤマジ オフコースは好きじゃなかったけどチューリップは聴いた。いま思うとチューリップはほんとビートルズなんだよね。

ーそうだね。高校生でバンドをはじめて、81年か82年だとバンドをやる人はみんなハードロックじゃない?

ヤマジ そう、あとフュージョン。

ーそう!全員カシオペアの「ASAYAKE」弾いてたよね。

ヤマジ そうそう!やってた、俺もイントロだけは弾けるよ(笑)。

ーRCあたりから日本のロックに入っていくの?

ヤマジ そうだね、その頃に友達がスターリンとルースターズのテープを持ってきて。

ースターリンは『虫』が出たあたり?

ヤマジ その時に聴いたのは『Trash』で、なんて下品なバンドだって思った(笑)。

ールースターズは?

ヤマジ 『Insane』だった、ルースターズは好きだった。

ー俺も高校生の時にスターリンとルースターズに出会うんだけど、微妙にタイミングがずれてるかも。高校生ぐらいだと学年ひとつの違いが大きいから。

ヤマジ そうだね。

ー俺は勝手にヤマジくんも自分と同じようなリスナー歴を辿っていると思っていたんだけど、けっこう違うね。

ヤマジ 俺はリアルタイムに聴いたものより後から知って辿ったっていうものばかりだから。好きになったバンドはすでに解散してるとか、ニューヨーク・パンクにしても当然後追いだし。

ーそれはそうだよね、俺たちは高校生の時にまだジャムとクラッシュは解散してなかったとはいえパンクはすでに終わっていたというか、最終盤だったから。俺が高校3年生の時にジョニー・サンダースが来日したんだけど行ってない?

ヤマジ 行ってない、俺その時浪人してたし。ジョニー・サンダースはちょうどそのころ『D.T.K』のカセットを友達にもらってはじめて聴いたぐらい。高校生の頃でもコンサートやライブは行ったことがない。

ーライブハウスにいくようになったのは大学生になってから?

ヤマジ そう。

ー微妙なずれがあるんだね。高校に入ってディープ・パープルからバンドをはじめて、RCへ行って、その後は?

ヤマジ 高3になってルースターズをやりたかったんだけど、一緒にやる人がいなくて、しょうがなくアナーキーのコピーバンドに入った(笑)、しょうがなくってこともないけど。大学に入って音楽サークルに入るとそこがパンクやめんたいビート大好きな人ばっかりで、そこではじめて色々知った感じ。

ーそれからライブハウスにも行くようになるんだね、なにか当時のライブで覚えているのある?

ヤマジ 印象深いのはルースターズがロフトで5デイズやってて、いま思うとすごいことなんだけど。それは記憶に残ってる。

ーDip The Flagの結成はそのころ、86年か87年だよね?

ヤマジ そうだね。

ー俺は勝手にその頃ヤマジくんはバニーメンやバウハウスが好きでDip The Flagをはじめたんだと思っていたんだけど、そういうことでもないよね。

ヤマジ そうだね、その頃は好きってほど聴いてない。俺はその頃お金がなくて、音楽は友達が作ってくれるカセットばっかり聴いてた、いろんな曲入れてもらって。アルバム単位で聴くことがほとんどなかった。だからバウハウスも当時は「テレグラム・サム」とか「ジギー・スターダスト」とかしか知らない。バニーメンも代表曲ぐらいだったよ。

ーじゃあスミスも?

ヤマジ スミスは全然。

ー俺はとにかくレコードを買うことが人生の目的みたいだったから。

ヤマジ そういう人多いよね、俺のまわりにもいっぱいいた。

ーヤマジくんもそうだと思ってた。

ヤマジ そういう人に録音してもらってた(笑)。

ー大学のサークルでもバンドをはじめた?

ヤマジ そう、ルースターズとか。

ーようやくルースターズができたんだね。

ヤマジ あとゼルダとか。

ーその時は歌も歌ってる?

ヤマジ ギターだけ。

ーそういう状況からDip The Flagが結成されたのはどういう流れ?

ヤマジ ベースは美大向けの予備校に行ってて、そこに俺の知り合いがいてその人の紹介でやることになったのかな。

ーライブハウスにでるようになったのは?

ヤマジ 下北沢の屋根裏とラママが圧倒的に多かったかな。

ーそれはもうオリジナル曲を作っていたってことだよね?

ヤマジ 曲はもう中学生の頃から作ってたよ、全部封印したけど(笑)。

ーまだテープ残ってるでしょ?

ヤマジ 実家にあるかも(笑)。100曲ぐらい作ってる。

ーDip The Flagが活動を開始したのが87年か88年、89年にレコードもでてるよね?

ヤマジ オフィス・パラからね。あ、思い出した。Dip The Flagの前に予備校時代にもバンドを組んでいて。そこにDip The Flagのベースが入ったんだ。そのバンドがいったん解散して、そのベースの伊藤とDip The Flagを始めたんだ。その予備校時代のバンドがデイズっていうんだけど、そこのボーカルの石川ってやつが飴屋法水って人が主催している東京グランギニョールっていう劇団にいて、その劇団のファンが見にきてくれてたんだ。だから俺は最初のバンドからノルマがあったことがないんだよね。

ーそれはいいね。

ヤマジ ツイてたんだね。それでDip The Flagになって下北沢に移った屋根裏に出るようになった。当時俺は阿佐ヶ谷に住んでいて近所に住んでるニウロティック・ドールっていうポジパンの人と友達になって、その人にライブも誘ってもらって、お客さんも入るようになって。パラっていうレーベルはサークルの先輩でビアズリーっていうバンドのベーシストがやっていて、それで話がきて。その人は小山田くんのやっていたヴィロードとかも目をつけてリリースしたんだよ。

ーなるほど、そういう流れだったんだ。その人は早かったんだね。

ヤマジ そうそう。レーベルはすぐにつぶれちゃったけど。

ーそれが88年だね。当時仲良かったバンドやよくライブハウスに見に行ったバンドとかある?

ヤマジ スピアメンと割礼はよく見に行った。

ーラママだね。トランス系のバンドは?

ヤマジ ちょっとづつ仲良くなっていた頃だね、アサイラムとかZOAを見に行ってた。

ーその時期だとあぶらだことかフリクションを見に行ったりはしてない?

ヤマジ 行ってないね、お金がなかったからただで見れるものしか行ってないんだな(笑)。

ーDip The Flagは90年に解散してしまうのだけどそれはなぜ?

ヤマジ ベースとうまくいかなくなって、俺もこの頃から遅刻もひどくなって、人として呆れられたんじゃないかな。

ーそういえば楠本まきの漫画『Kissxxxx』のイメージアルバムをリリースしたの90年だったよね。

ヤマジ そうだね、もう解散することが決まっていてやったのかな?

ーdipのスタートは91年、その経緯を教えてもらえる?

ヤマジ Dip The Flagの終わりの頃にストーン・ローゼズとか新しいタイプのバンドがいっぱい出てきて、俺もそういう16ビートやヨコノリの曲をやりたかったんだけどDip The Flagのメンバーはそれを受け入れてくれなくて。なにをやっても8ビートであまり楽しくないなと思ってて、だから解散も自分では前向きに捉えていて。Dip The Flagはお客さんも静かだったし、次はもっとわーっとなるようなバンドを楽しくやりたいと思って(笑)。それでベースとドラムを誘ってスタートした。

ー89年から91年は時代の切り替わるタイミングだったことも大きいよね。フリッパーズのデビュー、ストーン・ローゼズの登場、とにかく毎月新しいバンドがデビューするしイギリスのロックもアメリカのアンダーグラウンドもどんどん更新されていた。当時は本当にいろんなバンドが来日してたけど、あまり見に行ってない?

ヤマジ その頃はもうちゃんとバイトするようになってたからマイブラとかダイナソーとか見に行ってた。ソニック・ユースやメリーチェインも見たよ。

ー俺は勝手な思い込みでヤマジくんはゴスっぽいニューウェーブが好きなのかなと思っていたんだけど。

ヤマジ むしろあまり知らなかった。

ーそうだよね。俺はハウス・オブ・ラブが凄く好きで、そういう日本のバンドがいないかなと思っていて。dipはかなり近いものを感じてとても興味を持っていた、どんな人がやってるんだろうって。でも近寄りがたくてね。

ヤマジ あの頃はとくにそうだよね。

ーこっちはこっちで91年に自分のレーベルもスタートして、ちょっとしたお祭り騒ぎがはじまっていたから。

1992年頃

ーdipがスタートして93年にアルバムが出るけど、93年はマンチェ騒ぎも完全に終わってオアシスもまだ登場しない、ちょっとしたはざまのような時期だったよね。90年代初頭の名作は91年でほぼ出尽くしていて、そのタイミングにアルバムをリリースするにあたりどんな音楽を聴いていたの?

ヤマジ そうか、そういうタイミングだったか。やっぱりダイナソーとソニック・ユース、それとマイブラかな。テレビジョンとヴェルヴェットの影響はずっと根底にあって。

ー『マーキー・ムーン』を最初に聴いたのはいつ?

ヤマジ 大学入ってすぐだと思う、ヴェルヴェットも同じ時期。

ー87年ぐらいに『マーキー・ムーン』のCDが出たでしょう、レコードだと「マーキー・ムーン」のエンディングはフェードアウトなんだけど、CDは演奏のエンディングまで収録されてるよね。

ヤマジ そうそう!あれは感動した。

ー俺たちの世代はリアルタイムではないのにテレビジョンとヴェルヴェット・アンダーグラウンドの影響が大きいよね、なんでだろう。

ヤマジ ヴェルヴェットはまず、「サンデー・モーニング」と「アイム・ウエイティング・フォー・ザ・マン」という強力にキャッチーな曲があって、ほとんどみんなそこから入ってると思うんだけど。あとはなんでだろうね、やっぱクールな感じがしたんじゃないかな。それとボーカルが張り切ってないんだけど炸裂する感じが世代の気分にあってたんじゃない、少し斜に構えるところも。

ー俺たちの世代にとって、トム・ヴァーレインとロバート・クワインは特別なギタリストだよね、リアルタイムで聴いたわけでもないのに、不思議なもので。もっと下の世代にとってはジョニー・マーやノエルやジョン・スクワイヤなんだろうけど。ヤマジくんのギターにもこの二人の影響は感じる。dipの1stが出た93年はもうグランジもブレイクして、オルタナティブの勢いがすごかったよね、その辺りはどう聴いていたの?

ヤマジ ダイナソーがとにかく好きで、というのもダイナソーからニール・ヤングを感じたんだよね。俺ニール・ヤングはずっと好きだったから。ダイナソーの爆音もけっこう泣きでしょ。ソニック・ユースも同じようにサーストン・ムーアがテレビジョン大好きでしょ、当時は気づいてなかったけど音から感じてたんだと思う。

ーソニック・ユースはなにから聴いたの?

ヤマジ 『Goo』だと思う。

ー『デイドリーム・ネイション』ではないんだ。

ヤマジ いつも盛り上がってから知るから。

ーでもまわりに音楽好きいっぱいいたでしょ?

ヤマジ いた、でも俺自身が気付くのが遅い。

ー自分のペースなんだね。dipの1stは洋楽が相当盛り上がっている時期に作られてるけど、どういうことをやろうと思っていたか思い出せる?

ヤマジ あの頃『ビートルズ全レコーディング・データ』っていう分厚い本をもっていて(笑)、それにも影響されてた。サイケデリックなことをやりたかったんだと思う。

ーあれはどこでレコーディングしたの?

ヤマジ 安宅さんというエンジニアのスタジオで、三軒茶屋のゴリラビル。

ーそのあとすぐに東芝だよね。

ヤマジ 1stはもう東芝が決まっていて、その前に1枚出しておこうっていうことで作った。

ー東芝との契約は94年から99年までで、事務所はずっとUKP?

ヤマジ そう、いや、終わりの方はイノセントっていう事務所にいたのかな。

ーUKPもやめて?

ヤマジ 東芝との契約が終わってからかな。

ー俺も97年に一度UKPをやめるので、90年代後半の状況はわからないんだけど。90年代はいつも夢中になる音楽やシーンがあって、とにかく突っ走っていて周りを見渡す余裕もなかったんだけど。ヤマジくんはこの時代の自分の作品を聞き返すことある?

ヤマジ いや、ほとんど聴かない。色々思い出すというか、ずっと張り詰めていて嫌だなって思うことが多い。その割には詰めが甘い部分が多かったりして、色んなことを思い出すね。

ーそうだね、集中してるけどその分気が付けないことが多かった。

ヤマジ そうだね、めちゃくちゃ視野が狭いのに他のことを気にしないしね。

ー東芝時代の音源が配信になっていないのはなにか理由があるの?

ヤマジ いや、特になにもない。

ー持ちかけたりもしてない?

ヤマジ してない。

ーあの時のdipはとてもポップだったし、時代の空気が濃厚に反映されてるから若い人にとっては入口としていいと思うんだけど。

ヤマジ そうかもね。

1995年頃

ー2000年代に入って、事務所も変わってレーベルがリトルモアに移るのはどういう経緯?

ヤマジ あれは映画監督の豊田利晃がdipの曲を映画に使いたいって言ってくれて、彼がリトルモアの制作で映画を作っていたから、その流れでリリースすることになった。

ー2000年代前半にリトルモアから3枚アルバムをリリースして、2007年にUKPに戻って。その流れの中でヤマジくんがギタリストとしていろんなとこから声が掛かるようになるよね。

ヤマジ そうかな、2000年代前半はまだかなり混沌としてた時期だと思う。とにかく暗黒時代を抜けるまでは外の世界とのつながりはほとんどなかった。だからギタリストとして呼ばれるようになるのが2010年以降のことだね。

ーそうか、混沌とした時期は長いんだね。

ヤマジ ながいながい、20年ぐらいあるんじゃないかな。

ー死ななくて良かったね(笑)。

ヤマジ ほんと(笑)。自分でもすごいと思う。

ー2007年にまたUKPからアルバムをリリースして、その後ぐらいからギタリストとしてもいろんな人に誘われるようになっていくんだね。2000年代前半はライブもあまりやってない?

ヤマジ そうだね、そんなにやってなかった。

ー2007年以降はライブも増えていき、2009年に『after LOUD』のリリース。

ヤマジ それが暗黒時代を抜けて最初にできたアルバム。

ーなるほど、だから歪んでないんだ。

ヤマジ そう、リハビリ的な。

ーこのインタビューのためにdipの音源を全部聴き直したんだけど、『after LOUD』はすごくクリアで良かったんだよね。それまでの歪み方にこだわりすぎないというか。力が抜けて変な緊張感がないところがそれまでのdipとは違って。

ヤマジ 力が入んなかった(笑)。

2003年 Fandango

ー2013年に2枚同時にアルバムが出る頃にはライブも定期的にやるようになって、今のdipにつながる流れができるんだね。

ヤマジ 徐々にね。

ーこのあたりから、たとえばルースターズのメンバーとセッションしたりするよね。自分がずっと好きだったバンドのメンバーと一緒に演奏するのはどういう感じだった。

ヤマジ 感動するよね(笑)。でもあんまりファンって感じは出したくない、サインとか絶対にもらわない(笑)。

ーでも嬉しいでしょ?最初はどういうことで声がかかったの?

ヤマジ たしかルースターズのDVDが出るタイミングで池畑さんがルースターズの曲を演奏するバンドを組むといって、その時のボーカルがピールアウトの近藤くんで、近藤くんが俺を推薦してくれたんだと思う。

ーそれはいつ?

ヤマジ 覚えてないんだよね(笑)、たぶん2010年ぐらい。そこで池畑さんとつながりができて。

ーそれから?

ヤマジ それでいろいろ誘ってくれるようになって、2013年からフジロックで一緒にやるようになって。

ーフジロックのグリーン・ステージのROUTE 17 Rock'n'Roll ORCHESTRAだね、凄いところでギター弾いてると思ったよ。そのあたりからギターリストとして注目というか認められるようになったよね。なにがそんなに変わったんだろう。

ヤマジ それはひとつしかないよ(笑)。

ーそうだね(笑)。

ヤマジ 周りの人も付き合いやすくなったんじゃないかな、会話ができるというか(笑)。

ーその辺りからdipとしても対バンがひろがっていったよね。

ヤマジ そうかも。

ーミッシェルガン・エレファントは一緒にやったことある?

ヤマジ あるよ、彼らがブレイクする直前ぐらいに。こっちは暗黒時代で(笑)。あそこが分かれ目だと思った。まじめにやってる人たちと自分の。俺にとってはあれが象徴的なライブだったね(笑)。

ー俺はdipのライブを時代ごとのタイミングで見ているんだけど、暗黒時代の末期の2008年あたりにユニットでシュガー・プラントのイベントにでた時にヤマジくんが3時間遅刻したことがあって、変わらないなと思ったんだけど。その数年後にQUEでノーベンバーズと対バンの時に俺がDJで入ったんだけど、その時はもうすっかりトゲがなくなっていて、えらく驚いたんだよね。それから2016年にキリキリヴィラの企画でNOT WONKと一緒にやってもらったでしょ、その時にdipのライブの凄さに驚いたんだよね。その時はレーベルがスタートして2~3年目でしょっちゅうライブハウスにいくようになっていて、比べるものが多かったからよくわかった。暗黒時代から生活が切り替わって、dipの音楽がとても力強くなったことを実感した。まさかこういう感じでdipが続くとも思ってなかったし。

ヤマジ そうか。

ー3人のコンビネーションも音作りもレベルが違うと思った。この一連の流れでメンバー同士の関係性も変わっていった?

ヤマジ 2013年の『HOWL』と『OWL』のあたりからレコーディングを合宿でするようになって、それもあって密になっていったのかな。とくにこの2作はスタジオにこもって3人で曲を作ったから。

ーナガタくんもナカニシくんも2000年代前半は大変だったわけでしょ。

ヤマジ そうだね。

ーよくバラけなかったね。

ヤマジ バラけたよ、ふたりとも一度やめてるから。

ーそうか、やめてるんだね。

ヤマジ ベースはヨシノっていうのが5年ぐらいやってるんだよ、それが暗黒時代の末期。リトルモアの時代はヨシノだったんじゃないか。

ードラムは

ヤマジ ドラムはナカニシだけど、彼も一度やめてナカムラというドラムの時期がある。

ーなるほど、よくナガタくんとナカニシくんが戻ってきたね。

ヤマジ 俺が誘ったんだね、自分でもよく誘ったと思う。

ーふたりがもどるのはいつ?

ヤマジ 暗黒時代の末期、またUKPからアルバムを出すあたり。

ーなにか変化を感じた?

ヤマジ 俺はまだ変われてなかったけど、ふたりはもう変わってたから付き合いやすくなっていて。その時期にdipを1~2年休んでたんじゃないかな。

ーそれでdipを再開して2014年に『neue welt』をリリースしてから新作の『HOLLOWGALLOW』まで9年間空いてしまったのはなぜ?

ヤマジ この間にいくつかのユニットに参加して楽しかったこともあるし、それまでずっと担当してくれたマネージャーとお互いにやりたいことがズレはじめたのもあるだろうね。

ーマネージャーが離れたのが4~5年前?

ヤマジ そう。それと2010年代にリリースした3枚は曲を作ってすぐに録音したんだけど、次はライブで育ててから録音したいと思ったんだ。そのあとにマネージャーと別れることになって、そのまま制作が伸びてしまったんじゃないかな。ライブやツアーは自分でブッキングしてやれるけど、さすがにリリースまでは自信がなくて。

ー2019年に高円寺HIGHにシュガー・プラントをよんでくれたでしょ、俺はあの時のライブを見て、なんで新作を作らないんだろうって思った。それぐらいいいステージだったし、メンバー同士もとても風通しがいい雰囲気だったから。

ヤマジ あの時はまだ自分達の企画をすることで精一杯だったからリリースまでは考えてなかった。

ー自分で対処しなければいけないことが多すぎたんだね。しかもソロでもライブがあったし、いくつかのユニットも動き始めて、さらに大江慎也のサポートもやっていたね。

ヤマジ それとバンド自体にお金がなかった。いろんなバンドを手伝っていたけどdipがいちばんお金がなかったんだよね(笑)。動くにも予算が必要だし、次の動きのために貯金もしないといけない。だから単純に分けるわけにもいかないし。

ーこうやって向き合って話すのもはじめてだけど、話してみるとあっという間の30年だね。

ヤマジ こうやって話すとね。

ーBorisを見ていても30年間続けてきた意志のようなものを感じるけど、dipもアップダウンしながらも続けてきたところに根強い気持ちを感じる、dipの音楽の根底にあるものというか。

ヤマジ Borisは偉いよね、早いうちから本当の意味でインディペンデントだし。

ーそうだね、Borisは素晴らしいと思う。一緒に仕事をしても曖昧なところがない、はっきりこれをしてほしいということを最初に伝えてくれる。もうちょっと日本で聴かれてもいいと思うんだけど。

ヤマジ 日本という特殊な環境のせいだろうね。日本って曲の構成が目まぐるしく変わる音楽が流行ってるでしょ。Borisはそういう音楽じゃないから。そのぶん海外で認められてるし、そのほうがいいよね。

ーdipも音楽的にも最初から一貫した変わらなさがあるよね。

ヤマジ そうだね、あまり変わってない。

ー新作にも感じたけど、dipの曲にはいい意味での型があるよね。それを慎重に構成しつつどうはみ出すのかという境界線での葛藤みたいなものが緊張感を生んでいてリアルに響く。

ヤマジ なるほど。

ー熱心なファンがずっと聴いてくれるのは、曲や演奏もそうだけどバンドの佇まいも含めてdipが伝えようとしている世界観に惹かれていることと、もしかしたらもっと核心に触れるんじゃないかという期待感がずっと持続してるからなんだと思う。うまくいえないけど、3人のメンバーが続けている理由もそこにあって、それがリスナーに伝わっているんじゃないかと。俺自信がそう思ってるからかな。

ヤマジ そういうプロデューサー的な人と一緒にやるのもいいかもね。

ーメジャー時代にサウンドプロデューサーみたいな人はいた?

ヤマジ いない。ディレクターとはぶつかったし。最近は石塚がそういう役割だったかな、でもどちらからというと進行管理的な感じだったかな。

ーまあもう無理なんだけど、90年代に佐久間正英がプロデュースしたら、みたいなことは考えるね。

ヤマジ そうだね、たまにそういう別の発想がほしい時もあった。同じ3人でやっているとあまりかわらないアルバムになるし、そうなってきたし。自分でやっていると記録みたいなものになりがちかも。

ー新作を聴き込んで、アルバム全体ではなく1曲ごとに、こうしたいっていうのが明確だと思った。

ヤマジ ライブで見てもらって、曲が育ってるでしょ?みたいな。

ーdipのサウンドはある意味ルーツやアイデアがはっきり伝わるから、海外では受け入れられやすいんじゃないかと思う。それといい意味でとても日本的だと思うし。dipから海外のシーンに対する憧れを感じたことがないから、自然に受け入れてもらえるとも思うんだけど。

ヤマジ 憧れでやってしまうと本物には勝てないから。

ーそういう意味でも独自のスタイルになってると思う。dipは基本ガレージ・ロックだよね。

ヤマジ そうかな。

ーライブ見ると強力にそう思う。メンバー3人で音楽の話はする?

ヤマジ あんまりしない。

ー曲作りの時は?

ヤマジ 多少かな。デモを投げてやりとりするんだけど、作り込み過ぎないようにしてふたりの反応を待つ感じ。それであまり話し合うわけでもない。

ースケジュール管理も含めヤマジくんが自分でやってみてどう?

ヤマジ やれることとやれないことがすぐに判断できるからすっきりした。面倒臭いだけですごくやりやすい(笑)。

ーここから先はどういう予定?

ヤマジ ライブは定期的にやる予定、冬ぐらいには地方にツアーに行こうと思ってる。

ーdipはフェスにはあまり出てない?

ヤマジ ないない、荒吐にいちど出たぐらい。

ーそうなんだ、それも意外。

ヤマジ 全然誘われないよ。

ーレッド・マーキーにでたら良さそうだけど。

ヤマジ レッド・マーキー合うと思うんだよ(笑)。フジもかなり貢献してるから出してくれても良さそうだけど’(笑)。去年なんかフジロックで7ステージやってるんだよ(笑)。グリーン意外にも苗場食堂と日高さんが新しく作ったドンキチカフェで毎晩12時からやって(笑)。

ーレッド・マーキーでdip見たいね。一緒にやりたいバンドはそんなにいない?

ヤマジ もうたいていやったかな。俺が一緒にやりたいって思うバンドってお客さんが10人ぐらいしか入らなかったりするんだよ。そうなるといろいろ大変だし、もうワンマンでいいかなって。

ーお客さんもそのほうが良かったりするしね。いまいろいろやってるユニットやバンドでこの先に音源が出る予定のものはある?

ヤマジ 吉田達也さん、タバタミツルとやっているmissing headsはライブを毎回録ってるから頻繁にライブCDが出てるけど、それぐらいかな。あと戸川純ちゃんと大江さんには新曲を録音しましょうっていつも言ってるけど、なかなか腰が重い。

ー大江慎也のバンドでギター弾いてるんだもんね、それは凄いよね。

ヤマジ そうだよね(笑)。もう15年ぐらいでてないから、新作つくろうって言ってるんだけど。

ージョニー・マーと会った話を聞かせてもらえる?

ヤマジ あれは俺の友達がジョニー・マーとすごく仲がよくて、ライブを見に行ったらその人が楽屋に連れて行ってくれたの。俺が昔スミスのコピーバンドをやったことがあって、下北スミスなんかよりも完璧で(笑)。それをジョニー・マーに渡したら俺のことを認識してくれたみたいで、俺の音源を聴いてくれて。
ちょうどその時にジョニー・マーがインセプションのサントラを作っていた時で、俺がつくった『ナイン・ソウルズ』っていう映画のサントラを参考にしたって言ってくれて。

ーヤマジくんの音楽を聴いてくれたんだね。それが何年ぐらい前?

ヤマジ ジョニー・マーに会ったのは7~8年前。俺そこまでスミスを聴いてないから、なんか申し訳ないっていうか(笑)、楽屋までいっちゃって。

ーそうだね、俺も今日話を聴いてようやくわかったんだけど、こっちが勝手にヤマジくんはこういう音楽が好きなんだろうって思い込んでいたんだね。

ヤマジ 俺がアルペジオを弾くのってフォークなんだよね(笑)。

ーそうなんだよね(笑)。今でも長渕聴いたりする?

ヤマジ 戯れに聴いてみたりする(笑)。

ー俺も人としての長渕には興味はないんだけど、シンガーとしての説得力がすごいでしょ。たまに「昭和」とか「家族」とか聴いちゃうことがある。

ヤマジ 俺はもっと初期のフォークの頃ね。自分で弾き語りやっていた頃、あの人ギターうまいから。

ーそうなんだよね、嫌なんだけど持っていかれる瞬間があって(笑)。

ヤマジ 嫌なんだけどね、それわかる。

ーフォークは今でも好き?

ヤマジ 聴くことあるよ。

ーたとえば?

ヤマジ 友部正人や三上寛、高田渡とか。その時代の人はひととおり聴いてる。

ーはっぴいえんどは?

ヤマジ はっぴいえんども聴いた、けっこう好き。あとはジャックスと早川義夫はよく聴いた。

ーYMOは?

ヤマジ YMOはほとんど通ってない。

ー中学時代はみんなYMOじゃなかった?

ヤマジ 文化のない中学で音楽を語る友達もいなかったし、漫画の話ばっかりだったかも。

ー漫画はいまでも読んでる?

ヤマジ バンドやるようになってから読んでない。いまになってまた昔の漫画読んでる、最近は『ゴルゴ13』をずっと読んでる(笑)。

ー今日話せていろんなことが腑に落ちた、ヤマジくんの音楽の背景にあったものがなんとなく掴めた気がする。こっちが勝手にイメージしていたものとは違うけど、とてもしっくりくる。

ヤマジ ちゃんと時代の音楽を追いかけてきいたのは90年代からだしね。

ー90年代はストーン・ローゼズにせよニルヴァーナにせよ、日本人も海外のロックをよく聴いていたね。『ラブレス』や『スクリーマデリカ』はみんな聴いていたし。

ヤマジ ペイヴメントもよく聴いた。

ー90年代のアメリカのオルタナティブはdipの音楽と親和性があるような気がする。ペイヴメントのザラッとした感じはdipに通じるものがあると思う、ガレージ・ロック的だし。でもマタドールのほかのバンドをチェックするということではないよね。

ヤマジ そう、好きなバンドだけ。

ーパンクもニューヨークで、イギリスのパンクはそんなに好きじゃない?

ヤマジ そうだね、クラッシュやピストルズも聴いたけどそんなに好きじゃない(笑)。やっぱりニューヨークが好き。

ーロックすぎるのかな?

ヤマジ 佇まいというか、なんか暑苦しく感じたのかな(笑)。でも「ロック・ザ・カスバ」は好き、あとバズコックス。

ーヤマジくんのギターはニューヨーク・パンクだよね。すごく知的な感じがする、文学の匂いというか。もちろんテレビジョンの影響なんだろうけど。

ヤマジ そうだね。

ーたとえばニール・ヤングが好きならスプリングスティーンも聴いたりしない?

ヤマジ スプリングスティーンとニール・ヤングは俺の中で全然違うんだよ(笑)。ニール・ヤングはオルタナ感があるよね。完全なアコースティックとすごく歪んだファズ・サウンド両方あって、しかもギタリストだしね。

ー『WELD』のツアーの時の前座はソニック・ユースだったしね。あの時期にニール・ヤングがアメリカのグランジやオルタナティブのゴッドファーザーとして再認識された。

ヤマジ あれは良かった。

ーごっついロックをやりながら5年に1枚ぐらい『ハーヴェスト』的なアコースティック・アルバムをだして。まだ最前線でやってるし。

ヤマジ さすがにちょっとヨレてきたけどね。

ーもう80過ぎだしね。俺もニール・ヤング好きで、新しいのがでると必ず聴く。ここ最近いいのは昔のライブばかりだけど、10年ぐらい前にでた『Live At Massy Hall 1971』が衝撃的に良かったよ。

ヤマジ あれは俺もよく聴いた。ダニエル・ラノワと一緒にやった『Le Noise』もすごく良かった。エレキと歌だけなんだけど全体的にアンビエント感があるよね。

ーあれがニール・ヤングの新作で良かった最後ぐらいかな。俺はdipでダニエル・ラノワがプロデュースしたようなアンビエント感というか陰影のあるサウンドを聴いてみたいとずっと思ってるよ。乾いたガレージ・サウンドもいいけど、ぜひ一度トライしてほしい。


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