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裸のラリーズ 2021年、伝説からの解放を希望する

KKV Neighborhood #107 Column - 2021.11.05
by 長谷川文彦

10月21日の夜中、裸のラリーズのホームページが突然現れた。翌日の朝、ツイッターのタイムラインがざわついていた。昔から裸のラリーズは正式なバンドからの発信がほとんどないバンドだ。公式ホームページなんていうものが出来ればその界隈の人たちが戸惑ってしまうのはよくわかる。
そして、トップページには「Takashi MIZUTANI 1948-2019」と記載されていた。水谷孝が亡くなったということだろうか。

最初からこんなことを言うのはなんだが、自分のような者が裸のラリーズのことを書いていいものだろうか?と思う。自分は彼らの長い歴史が終盤にさしかかる頃に袖が触れ合う程度の交錯をしただけである。彼らについて書かれたものはすでに多数あるだろうし、ホームページを通じてオフィシャルな情報提供も進んでいくと思われるので、ここでは個人的な想い出のような話を書こうと思う。

「伝説の」という枕詞がバンド名の一部になってしまったかのような裸のラリーズ。自分がライブハウスに出入りするようになった1980年代半ばには彼らすでに「伝説のバンド」だった。それでもまだライブは普通に観る機会はあり、「伝説」ではあっても「幻」ではなかったと思う。原宿のクロコダイルのスケジュールに彼らの名前を見た記憶があるし、法政学館でのライブの告知もどこかで見たような気がする。

当時はライブハウスという場所は今と比べて敷居が高くて、なかなか気軽に入ることができなかった。初めて新宿ロフトの階段を降りる時はかなり緊張して、何か「一線を越える」ような気持ちになったのを覚えている。そういう独特なライブハウスという世界の中で、裸のラリーズはさらにひときわ素人を簡単に寄せつけない孤高なオーラを発していた。たとえ観る機会があったとしても、自分のようなライブハウス初心者の若僧は彼らを観に行ってはいけないと思っていた。

その頃、彼らには正式な単独の音源がなかった。オムニバス盤「OZ DAYS LIVE」に収録されているものが唯一の正式な音源だったが、当たり前のように簡単には手に入らなかった。今のようにブートが大量に出回り、サブスクにもそれらが溢れるなんて状況は考えられず、手軽に彼らの音に触れる機会はなかった。裸のラリーズへのアクセスルートは存在せず、分厚い「伝説」という衣を纏った彼らに近寄ることはできなかったのだ。彼らの音楽を説明するのに使われる「轟音」「サイケデリック」「耳をつんざくフィードバック音」といった言葉に憧れと妄想を抱く、それが精一杯だった。

そんな自分に彼らを観る機会が訪れたのはライブハウスに出入りし始めて数年経った1987年だ。早稲田大学の学園祭で裸のラリーズのライブが企画されたのだ。

その頃はいわゆるインディーズ・ブームから後のバンド・ブームへの移行期ぐらいで、ライブハウスはややカジュアルな場所になり始め、インディーズでも人気バンドが出現し、普通に「一般の人」がライブハウスに出入りするようになってきていた。非常にマニアックでアンダーグラウンドな世界と、そのうちメジャーデビューするのが想像できるバンドが入り交じっていた。バンドによってはかなりの集客力があり、宝島やフールズメイトやドールで情報が行き交い、ライブハウスという現場もある種の活気があった。

その雰囲気そのままに、学園祭ではたくさんのライブが企画されていた。通常のライブより安いチケット代でたくさんのバンドが観れたし、それはそれでよかった。ちなみに1987年の学園祭シーズンの11月に自分はJAGATARAのライブを3回観た。いい時代だったのだろうとは思う。

しかし、学園祭のライブにはある程度は集客力のあるバンドが呼ばれることが多かった。1987年に一番よく見かけたのは人気急上昇中のブルーハーツだった。赤字にはならないように、そこそこ人気者のバンドを呼ぶというのが普通だったと思う。

そういう状況の中で裸のラリーズを学園祭に呼ぶという企画にはかなりびっくりした。企画を立てたのは早稲田大学の「前衛ロック研究会ユーテラス」というサークルだった。彼らはマニアックなミニコミ誌を作ったりしていて、早稲田の学内でも音楽好きに一目置かれた存在だった。自分は早稲田の学生だったし、自分の大学の学園祭なら敷居が高くても裸のラリーズを観に行っても大丈夫だろう、いやここで行かないでいつ行くのだ!と思った。

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その時期、ライブに行くとよくユーテラスの人がチラシを配りチケットを売っていた。ライブハウスで配られるチラシなど、昔はワープロで打ってコピー、下手すりゃ手書きだった。しかし、彼らはきちんと上質な紙に印刷されたチラシを配っていた。そこに並々ならぬ意気込みと裸のラリーズに対する「礼儀」を感じた。

ライブの当日、外は明るい日差しの午後、会場の教室に入ると、そこは分厚い黒いカーテンで全ての光が遮断されている別世界だった。そして頭上にはミラーボール。ここでも裸のラリーズに対する礼儀が尽くされていた。こうでなければ裸のラリーズのライブを企画する資格はなかったのだろう。

少し時間の感覚が失われたような会場で待つと、裸のラリーズが現れて演奏が始まった。ライブの始まりは聞かされてきたような轟音のギターのフィードバックの嵐ではなく、透明感のあるギターの鳴りと水谷の歌だった。しかし、これがすごく独特な雰囲気で、今でも最初にギターが鳴って水谷が歌い出したシーンを思い出すことが出来る。ギターが空間を切り裂きながら、水谷の歌が低く響く。それはそれまで観たことのない光景だった。

後半、なるほどこれかと思う轟音になったところもあるけど、荒れ狂って耳をつんざくというより、独特な美学によって積み上げられた音で描かれた絵のような世界だった。そんな表現ができるバンドは他にはない。自分がそこで目撃した伝説という言葉の向こうの裸のラリーズのライブは、轟音だけではなく歌という詩情が紡がれた彼らの独特な世界だった。ライブが終わり、外に出るとのんきな大学の学園祭だった。少し目眩がした。

その当時、裸のラリーズの後継者と位置づけてもよさそうなバンドはいた。ヘヴィー・サイケデリック、そんなジャンルはなかったかも知れないが、そういう音はその頃の日本のアンダーグラウンド・シーンに確実に存在した。HIGH RISE、MARBLE SHEEP AND THE RUN-DOWN SUN'S CHILDREN、レニングラード・ブルースマシン、花電車などだ。自分はこれらのバンドが好きだった。しかし、裸のラリーズの唯一無二の美学は誰にも引き継がれなかったと思う。

裸のラリースのライブを観てからしばらくして、明大前のレコードショップ「モダ~ンミュージック」でレコードを見ていると、ヘヴィーでサイケデリックな曲が流れていた。モダ~ンなら普通の光景だ。でも、その曲はどこかで聴いたことがある曲だった。それがなかなか思い出せず、しばらくしてから気づいた。裸のラリーズだった。確かにライブで聴いた曲だった。しかもその時流れていたのはライブを録音したというようなものではなく、クリアな音質のスタジオで録ったものだった。

その頃、裸のラリーズのレコードが出るという話があった。かすかに聞こえたその噂は自分の中では確信になっている。絶対にどこかに裸のラリーズのスタジオ録音の音源があるのだ。これも彼らの「伝説」の一部でしかないかも知れないのだけど。

それからさらに数年、1991年に正式にアルバムが3枚出た。全部買った。もちろんモダ~ンミュージックで買った。その翌年に出たビデオも買った。3枚のアルバムは裸のラリーズの「轟音と詩情」をしっかり網羅していて、彼らの世界を余すことなく記録していたと思う。彼らが轟音だけのバンドでないことを伝える意思のようなものを感じた。

1990年代の彼らはクラブチッタ川崎や吉祥寺のバウスシアターなどで何度かライブをやった。そして密やかに姿を消していった。

その後に残ったのは大量のブートだった。ちょっと聴いてみたいと思った時もあったが、あまりの物量にたじろいだのと、あれほど近寄りがたい存在だった彼らがこんなに乱雑に扱われていいのだろうかという思いがあり、手にすることはなかった。

今回突然現れた裸のラリーズの公式ホームページのステートメントを読むとこれから彼らの音源は正しい形で提供されるとのことだ。公式音源の再発もアナウンスされている。

そろそろ「伝説」という言葉から裸のラリーズを解放すべきだはないか。彼らは実体のない空虚な伝説などではない。わけのわからない大量のブートがわけがわからない状態で流通している状況はもう終わりにしてもいいだろう。今回のホームページの開設を皮切りに、しっかりと彼らの実体が後世に残されるようになるのを願っている。

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