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「僕と魚のブルーズ」と僕

KKV Neighborhood #98 Book Review - 2021.8.27
川崎大助「僕と魚のブルーズ 評伝フィッシュマンズ」(イースト・プレス)
review by XTAL

フィッシュマンズの〈わかりにくさ〉

2011年に刊行された川崎大助「フィッシュマンズ 彼と魚のブルーズ」の増補改訂版(著者の言葉を借りるなら、レコードやCDで言うところのデラックス・エディション)が、本書「僕と魚のブルーズ 評伝フィッシュマンズ」だ。

そもそも自分がフィッシュマンズに出会ったのは、本書にも収録されている、川崎氏による佐藤伸治インタビュー(「ロッキング・オン」1992年11月号掲載)を読んだことがきっかけだった。

――「大人の男」的なものが全部ダメですよね。就職してる姿なんか想像できないというか。

佐藤(以下、同)「うん。それについては昔考えたんだけどね。まず夜の暮らしっていうのが、耐えられないと思ったんだよ。のんべえライフっていうの?『今日は課長のおごりだ!』とかさ(笑)。ウチのメンバーは打ち上げとか強要しないからいいんですけど。なんか『男のつきあい』っていうのがね、ダメ。もう圧倒的に女だよね。別に恋人とかじゃなくってさ、ただの友達なんだけど、女の子とばっかり遊んでるよね、僕。男と比べると、100対5ぐらいで女の子といる」

(中略)

「体育会系っていうの?『男っぽいヤツ』とか多いんだしさ。『先輩ッ!』とかってさ、飲んで語るぞ!みたいな(笑)。そういう人って、女に対しても気合い入っててさ。バリバリでさ。なんか嫌いなんだよね。」

当時高校一年生、部活にも入らず、家や学校どこにいても居場所がないと感じ、ひたすら自室で音楽を聴くことだけが救いだった自分には、この発言は刺さるものがあった。大きく言うと、同調圧力を嫌い個を守る、というようなことになると思うが(現代の視点から見るとToxic Masculinity=有害な男らしさ、をいち早く否定している感もある)、この人の音楽を聴きたいと感じ当時の最新アルバム『KING MASTER GEORGE』(92年)を購入した。

聴いた感想としては、「好き」であると同時に「よくわからない」部分も大いにあった。ファンにはご存知の通り、ここには以後もライブにおいて重要なレパートリーとなる“なんてったの”、“頼りない天使”といった名曲たちが収録されると同時に、“君だけがダイヤモンド”、“教育”といったほんの数秒にも満たない諧謔性に富んだトラックもある。フィッシュマンズが唯一残した他のアーティストのカバー音源は、大滝詠一“青空のように”のカバーと記憶しているが、大滝詠一で言うなら“Let's Ondo Again”と“A Long Vacation”を足して割ったような内容とでも言おうか。今聴くと、その音楽に喜怒哀楽の全てをぶち込もうとする若々しいパワーが眩しいが、当時は頭の中に「?」が浮かんでいたように思う(また、特にレゲエのスタイルの楽曲における、柏原譲のベースが担当する低域のグルーヴも、当時持っていた貧弱なCDラジカセでは感じることが出来ていなかった)。

このフィッシュマンズが持っている「わかりにくさ」について、川崎氏は、1990年12月22日渋谷La.mamaで何の予備知識もなく初めて観た、フィッシュマンズのライブについての著述で触れている。

つまり、レゲエ系統の楽曲とサウンドではあるのだけれでも、この時期まだ世に多かった、2トーンもしくは、フィッシュボーン、アンタッチャブルズといったアメリカ西海岸のスカ・パンク勢の邦訳を目指しているバンドじゃないことは、すぐにわかった。くっきりした日本語の歌詞があることも、わかった。レゲエ由来のリズムを取り入れつつ、日本語ロックの正統な文脈の上に、自らの軸足を置いてみようと試みているバンドなのだ、ということは、わかった。

 わからなかったのは、「それをどうとらえてほしいのか」ということだった。

 踊ってほしいのか、いっしょに歌ってほしいのか。聴き手の情感をゆさぶって、涙をあふれさせたい、のか。こぶしを突き上げて、憤懣を宙に解き放つ契機となりたいのか・・・そういった、受け入れ側にとって「わかりやすい」糸口となるような装置が、いったいどこにあるのやら、それが滅法「わかりにくい」と僕は感じた。

 わかりにくくしている張本人が、ステージの中央にいる「サトウ」なる男であることは間違いなかった。細い声で、ヴォーカル・ラインが不安定だったせいだけではない。

 ステージに登場してきたときからずっと、あの奇妙な薄笑いが、引っ込んだり、出たりを繰り返しながら、のべつ彼の口元をふらついているのだ。擬音を与えるとしたら、「ニターリ、ニタリ」といった感じだろうか。そんな笑いを浮かべながら、曲と曲のあいだで、彼はこんなことを言うのだった。

「みなさん、楽しんでますかあ?」
「いやいやいや、楽しんでもらおうと思って、やってるんですよねえ」

 そんなことを、そんな表情で言われて、楽しめるものではない。

 それどころか、僕はどんどん、居心地が悪くなっていった。ライヴ・ハウスのなかに、自分の居場所がないようにすら感じた。家に帰りたいような気分にもなった。いかにハードコアなパンク・バンドのショウを観ても、そんなことを感じたことは、それまで一度もなかったのだが。


上記は、ライブにおけるヴォーカリスト佐藤伸治の言動という、直接目に見える部分において、フィッシュマンズの「わかりにくさ」を端的に記述している。

そしてこの「わかりにくさ」も要因の一つだと思うが、実際に自分がフィッシュマンズの音楽の素晴らしさに本当に気付くまでは、だいぶ長い時間がかかることになる。

当時リアルタイムで購入したフィッシュマンズの作品は、

『KING MASTER GEORGE』(92年、アルバム)
“Go Go Round This World!”(94年、マキシ・シングル)
“Melody”(94年、マキシ・シングル)
『LONG SEASON』(1996年、アルバム)

の4枚。そして世間的にフィッシュマンズの評価が変わることになる、1996年の『空中キャンプ』は、友達に借りて聴いている。これだけ聴いているということは勿論興味があり、ある程度は好きでもあるということになると思うが、本当にフィッシュマンズが好きになる瞬間は、ここから20年弱経った後にやって来ることになる。

内容を覚えていない夢のような、佐藤伸治の書く言葉

クラブでのDJをし始め、自分でも音楽を作り、バンドで作品も何枚かリリースした頃、「そう言えばフィッシュマンズって、そんなにちゃんと聴いていなかったな」と何故か今聴いた方がいいという勘が働き、少しづつフィッシュマンズをまた聴き始めた。

未聴だった『宇宙 日本 世田谷』(97年)を初めて聴き、最終曲“DAYDREAM”に辿り着いた。それはまさに曲の中で描写されているような、夕日が輝く時間で、自分が運転する車の中だった。

死ぬほど楽しい 毎日なんて
まっぴらゴメンだよ
暗い顔して 2人でいっしょに
雲でも見たい

曲の最後の方、このラインが流れたのを聴いた時に、実際に体がガタガタ震え出すほど心を動かされた。

『空中キャンプ』と比較すると、消え入りそうな儚さを孕んだ作品として語られることのある『宇宙 日本 世田谷』だが、自分はこの時、こんなに「強い」歌を聴いたことがないと思った。

そして、この体験のあと、ひたすらフィッシュマンズの音楽を改めて聴き漁り、その存在は自分の人生における最重要バンドの一つになっていく。

勿論、演奏やサウンド、フィッシュマンズの音楽を形作る全ての要素が欠かせ無いものであることは間違いないが、自分にとってもそうだったように、佐藤伸治が書く詞が、フィッシュマンズを聴き手の深くまで突き刺すための重要なトリガーであることは間違いないだろう。

川崎氏は「僕と魚のブルーズ」において、“いかれたBaby”、“ナイトクルージング”というフィッシュマンズ史上で重要なエポック・メイキングであったであろう2曲について、詞への詳細な批評を行っているが、それは本書の中でも白眉のパートである。

その詳細は実際に手に取って読んでもらうとして、例えば“ナイトクルージング”についての下記記述は、自分が佐藤伸治の詞について考えていたことと重なる部分があり、頷いた。

 この「間引きの美学」は、サウンド面だけに適用されたわけではない。それどころか、逆に僕は、こう考えている。一番最初に、佐藤は「言葉をできるかぎり間引いていった」はずだ、と。元来彼のなかにあった「言葉を削ぐ」という習性が、このとき、とことん過激化していたのではないか。従来であれば「削いだあげくに残った一行」として、彼のノートに残っていたレベルのものまで、「この一行、なくてもいいかな」と、ぽんぽん捨てていったかのような形跡が見られる。そして、間引きに間引いたあとの言葉を眺めてみたところ、それが「詞として成立している、と考えられた」がゆえに、つぎに音のほうも、そうしてみたのではないか、と僕はにらんでいる。

このような佐藤伸治の詞の特性を、自分は「佐藤伸治は詞をダブにした」と理解していた。

ダブ、つまり既にある演奏から要素を無くす/削ること、つまり「無い」ことが表現となる手法だが、佐藤伸治の詞は、川崎氏も指摘するように過激なまでに、それを行っている。

自分の場合、それに気付いたのは、アルバム『Neo Yankees' Holiday』の冒頭を飾る“RUNNING MAN”を聴いた時だった。それはこんな風に始まる。

晴れた日は 君を誘うのさ
晴れた日は 君を連れ出すのさ

頭に浮かぶのは、晴れた日に出かけようとする恋人たちの、幸せな光景だ。そして次の行。

遠くへ急ぐ君を 遠くへ急ぐ君を見たくて
走ってゆくよ 走ってゆくよ

突然の場面転換。君がどこか遠くに行かなければならない、その離別の場所に走っていく、胸が締め付けられるような場面。前述の幸せな光景との間にあるはずの時間もストーリーも、バッサリと省かれている。

 そして、歌は進み、2番の冒頭。

晴れた日は君を 遊ぶのさ
晴れた日はまるめて 遊ぶのさ

君「を」遊ぶのさ?「まるめて」遊ぶのさ?なんとなく、「まるめて」遊ぶのなら、その対象は例えば猫のような動物になりそうだが、それにしてもここまで「君」は恋人のことだと思って進んで来たのに、突然その対象はなんだかよく分からないものに置き換わっているのかもしれないと、聴き手の認識を揺るがす。そこには一切何の説明もない。

それは例えばリー・ペリーが、ポップ・ミュージックにおいては時間を刻む基盤としてステレオ空間の一定の位置に据え置かれることが定石のドラムを、スピーカーの右から左へ、左から右へ丸ごとぐるぐるとパンニングさせているのを聴いた時の感覚に近い。ラジカルなまでに、ありきたりの作詞からは逸脱している。

そしてその結果、ランダムに記憶の底から、時間軸や脈絡を省かれた材料が配置された夢から覚め、内容は覚えていないが自分が涙を流していることから切ない夢だったかを知る。そんな効果を曲に与えている。それをこれだけ簡明な言葉で、短い行で成し遂げてしまっているのは(短い故に、でもあるのだが)、まさに天才的な作詞と言っていい。

その過激なまでに言葉を削いだ詞によって、立ち上がる感触について、川崎氏は次のように筆を進める。

 そして「ナイトクルージング」は、ついに「ロック以前の原風景」とでも言えるような場所で鳴らされているような気がしてならない。あらゆるものが「間引かれた」果てに、あたかもロバート・ジョンソンのようないにしえのブルーズ・マンが見ていた光景へと、たどり着いてしまったように、感じられてしょうがないのだ。


続けてロバート・ジョンソンの“俺と悪魔のブルーズ(Me and The Devil Blues)”の詞と、そこから立ち上がる世界を、“ナイトクルージング”のそれと比較させる。本書のタイトルがこの「俺と悪魔のブルーズ」から名付けられていることも踏まえると、著者のフィッシュマンズ批評の肝がこの部分だろうし、個人的にも鮮烈な印象を受けた記述だった。

佐藤伸治とアール・スウェットシャツの類似性

ここ数年のリリースの中で、自分が「まるで佐藤伸治のようだな」と感じたアルバムがある。それはアメリカのラッパー、アール・スウェットシャツのアルバム『Some Rap Songs』(2018年)である。

フィッシュマンズと音楽スタイルが似ているわけでもないし、声が似ている訳でもない。しかしこのアルバムが自分に与える印象は、特に『宇宙 日本 世田谷』以降のフィッシュマンズの作品群を思い起こさせるものだった。

“Eclipse”という曲から詞の一部を抜き出してみると、こんな感じだ。

Say goodbye to my openness, total eclipse
(俺の開いた心にさよなら、全てが隠れて行く)

参考:https://fnmnl.tv/2018/12/11/64190

アルバムの中でも特にこの部分は、先に引いたフィッシュマンズ“Daydream”の、

死ぬほど楽しい 毎日なんて
まっぴらゴメンだよ

を思い起こさせるようなラインだった。

そしてこのアール・スウェットシャツの『Some Rap Songs』を聴き込むうちに、「これはギターがサンプラーに、歌がラップに置き換わっただけで、まるでロバート・ジョンソンのようなブルーズマンがやっていたことと同じじゃないか?」という考えに至っていた。

そんな個人的前提があったため、”ナイトクルージング”と“俺と悪魔のブルーズ”を結びつける論旨には、非常に納得できるものがあった。

フィッシュマンズは、いまもなお、つづいている

冒頭に書いたように、本書は2011年に刊行された「フィッシュマンズ 彼と魚のブルーズ」の増補改訂版だが、「さらに、それから」と題され最後に配置された加筆部分は、やはり2021年の現在に最も響く内容となっている。

筆者が今まで一度も公の場では公表したことのなかった、フィッシュマンズのドラマー茂木欣一の結婚式における佐藤伸治のスピーチのエピソードから、佐藤伸治が理想としていたバンド像、そして佐藤伸治逝去後のフィッシュマンズの活動まで話は拡がっていく。

今年2021年の夏はドキュメンタリー「映画:フィッシュマンズ」も公開されたが、この映画を観た後の自分の感想の一つは「今のフィッシュマンズのライブが観たい」だった。

佐藤伸治亡き後のフィッシュマンズのライブ活動については、特に当時のファンから賛否両論あるのは知っていた。自分はこの原稿で書いた通り、当時はそこそこ好き、近年深く好きになったという経緯があるので、そのライブ活動については、良くも悪くも大きな気持ちを抱いていなかった。しかし、この映画には、そんな自分に〈今〉のフィッシュマンズが観たい、と思わせるだけの力があった。

映画を観た上で、本書の最終章のこんな記述を読むと、言わんとしていることがより深く理解することが出来たと思う。

 いつもいつも、べったりと「つるんでいる」わけではない。しかし必要なときはいつも、三々五々、「あの旗のために」集まることができる。これがじつは、佐藤ですらその一部でしかない、フィッシュマンズという巨大なる体系の全体像なのだ。

 それをもってして、佐藤はこう言っていたのだと僕は思う。
「バンドは、つづければ、つづけるほど、よくなるんだよ」と。

 だから、フィッシュマンズは、いまもなお、つづいている。

デビュー当時からフィッシュマンズと近い存在で、本書において、その過ぎ去った時間を文章によって鮮明に蘇らせ、今に繋ぐ筆者も勿論、その「フィッシュマンズという巨大なる体系」の一部だろう。

かつてフィッシュマンズに深くやられてしまった、あるいはこれからそうなる人々にとって、必読の書である。


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