アニメ映画『リズと青い鳥』(2018)を観返した
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2024/7/28(日)
2018年の劇場版公開時に観に行って以来、実に6年ぶり2回目の鑑賞。
いや~~~・・・・・・初見の映画館を出たときとほぼおんなじ気持ち、いま。つかれた~~~~~~…………
歴史的傑作であることは疑いようもないけれども、凄すぎて、どこまでも繊細に作り込まれ過ぎていて、受け止めるのに疲れる。かつて「もう二度と見たくない」と思いながら映画館を後にしたものだったけれども、ほんとうに、こんなのを観るのは5, 6年に一回くらいでいい。またそれくらい経ったら観ます。
アニメ史/映画史に燦然と輝く金字塔だな~~~と思うのだけれど、やっぱり全肯定はできない。これはTVシリーズの『ユーフォ』も同じだけど。
高校生の少女の学校での日常生活=人生の機微を、ここまで繊細に、儚く美しいものとして描かれてしまうと、観てるこっちが引け目を覚えるというか、こんなものをわたしなぞが観てしまっていていいんですか? 今すぐ消えたほうがいいですか? となる。
高校生の少女ふたりの関係に焦点を当てたアニメ映画として、わたしのオールタイム・ベストは岩井俊二『花とアリス殺人事件』(2015)──『リズと青い鳥』を映画館で観たのちに配信で観て惚れ込んだ作品──である。
雑に比べてしまって申し訳ないが、やっぱり自分は『リズ』よりもそっちのほうが好きだな~~と思える。それは『リズと青い鳥』が上記のようにあまりに少女たちを繊細に美しく尊いものとして作画で描いてしまっているのに対して、『花とアリス殺人事件』はロトスコープを使ってのっぺりしたキャラデザでしか描かれないため直接的な「美しさ」みたいなものから距離を取れているから、というのがひとつ。
『リズ』も確かにある種の究極的なリアリズムを志向して実現しているのだけれど、わたしが心から好きになれるのは『花とアリス殺人事件』のような、もっと飾らない、ダラダラしたしょうもないリアリズムである。
また、それとも関連するのだけれど、『花とアリス殺人事件』は物語上で意味のないパートが多いというか、たしかに日常や人生ってこういうものだよな、と思わせてくれる「緩さ」「しょうもなさ」があるため、観ていても疲れない。『リズと青い鳥』は正反対で、すべてのカットのすべての画面のすべての動作や台詞、美術、音楽、撮影に意味があって、観るのにひじょ~~~に疲れる。息が詰まる。もっと、ダラダラと寝そべってウトウトしながら観れるものが、じぶんにとっては本当に大切な作品となる。
また、「百合」を主題とした両作品だが、異性愛(ヘテロ恋愛)の扱い方も異なっている。
『花とアリス殺人事件』は、主役のひとり・花が、ある元同級生の幼なじみの男子に異常に執着しており、物語の大枠としては、その「事件」の解決に向かって進む。しかし、花のその異性愛感情はかなり「狂って」おり、終盤にかけてその異常性やしょうもなさ・あほらしさを暴き立てるような着地をする。結果的に、同性愛関係ではない花とアリスの奇妙な友情・連帯が「百合」として立ち現れてくる。
このように「ヘテロ百合」のなかでも、異性愛を理解不能なものとして異化して、しょうもないものとして戯画化していく「百合」が本当にすばらしいと思う。
たほう『リズと青い鳥』では、主役のふたりの異性愛性はほぼまったく描かれない。(希美がモブ後輩女子に「先輩はデートとかしたことあるんですかぁ~?」と訊かれて「えぇ~~?w」といなすシーンのみ) みぞれは映画を観るかぎり希美が「好き」な同性愛者だと十分に読める。
作中でのヘテロ恋愛は、吹部のモブ後輩女子たちの会話のなかで、文字通り、画面上でも音響上でも「後景」として描かれる。女子のひとりが部外のある男子と仲良くなって水族館デートに行き、「フグに似てる」と言われる……等の状況をみんなが「女子トーク」の話題にして盛り上がっているさまを背景に、みぞれや希美の物語に焦点化されている。
ようするに、ここでは異性愛が通俗的な規範として背景≒基礎に置かれたうえで、女性ふたりの「特別」な同性関係を描くスタンスをとっている。
異性愛を「異常」なものとして描くか、「通常」のものとして描くかが、良作のメインの同性愛関係の演出の違いにも響いているといえる。「異性愛=普通/同性愛=異常(特別)」という現実社会の(差別的な)通念に則っている(そのうえで同性関係の尊さを表現している)のは『リズと青い鳥』のほうだが、わたしはむしろ、この一般的な価値観を攪乱して、その虚妄性を暴き立てようとしているとも読める『花とアリス殺人事件』のほうが好きだし、クィアではないかと思う。
現実の通念を後景に置いて百合を描く『リズと青い鳥』の危うさは、鎧塚みぞれの造形にも言える。対人コミュニケーションがきわめて苦手で、周囲とは合わせない孤高の佇まいをもつ彼女は発達障害──自閉症スペクトラム──っぽくも見え、そのうえでオーボエ演奏(音楽芸術)の「才能」が卓越している、いわゆる天才キャラである。そして中学時代に自分を導いてくれた傘木希美の「すべて」が好きで強く執着している。
そうしたみぞれの設定は、発達と才能とセクシュアリティをまとめて「特別」で「異常」であるとしているようで、各要素に関して差別的とも取れる可能性を含んでいると思う。
「百合」だけに限っても、この作品を観て、みぞれと希美の同性関係の「尊さ」「特別さ」に「感動」した人のうちで、どれだけ現実の同性愛者への理解に繋がるだろう。もちろん、当事者が見てエンパワーされること(あるいはその残酷さに絶望すること)はあるだろうが、それ以外の、異性愛者が見たときに、「百合」≒女性の同性愛を、このようにあまりに綺麗で儚くて尊い「特別」なフィクションのなかに押し込めて、むしろその異性愛主義が強化されてしまう節もあるのではないか、と思うのだ。
みぞれとの才能の差に打ちひしがれて「ふつうの人」だと自称する希美が「みぞれは特別だから」と相手を突き放す。定型発達で異性愛者(かもしれない)で音大には行けない程度の才能をもつ「ふつう」の希美と、ASD的で同性愛者で音大に行けるほどの才能をもつ「特別」なみぞれ────むろん、ここではあくまで傘木希美が「普通/特別」の二分法を暴力的に自身とみぞれの関係に押し付けており、そうした希美の加害性に無頓着なところは作中で自覚的に相対化されている、と読むことは可能だろうけれど。
この議論では、作中作「リズと青い鳥」の「リズ/青い鳥の少女」の二役(二分法)を希美とみぞれのふたりに対応する暗喩として解釈しようとしていた彼女ら自身の振る舞いをも勘案すべきだろう。(後述)
あと、異性愛や同性愛(セクシュアリティ)の問題だけでなく、そもそもジェンダーの問題として、「女子高生」をアニメ内でこうして、とてつもなく「繊細」で「美麗」で「儚く」描いてしまうことの危うさも感じる。それは「女性は儚くて綺麗なものである」という、「女性」ジェンダーを強烈に客体化して周縁化していく性差別的な家父長制の構造を再生産しているのではないか。
もっと素朴な感想として、映像内でのキャラクターの身体表現が『ガールズバンドクライ』っぽいな、と感じた。キャラクターが世界のなかで/世界と〈ダンス〉しているようである、というのがここでの「『ガルクラ』っぽい」の意。
そのダンス性は、『リズと青い鳥』では冒頭の登校シーケンスにもっとも顕著である。
ほぼ誰もいない学校に朝早く登校したふたりのミクロな動作を執拗に丁寧に描いていく。下駄箱の角を手でなぞり、給水機にさわり、階段(staircase)を一段一段踏みしめて、踊り場で身をひるがえしてスカートがいっしゅん膨らんではしぼみ、椅子に座り、鞄を床に置き、楽器を取り出し……etc.
このように、人とモノが触れるさま(行為/感覚)を繊細に描くことで、そこに生きるキャラクターの身体の質量感・実在感を作り出す。無意識の手足の動きや細かな体勢の変化、重心の揺れなどを追うことで、キャラクターがこの世界のなかでダンスをしているように感じられる。
『ガルクラ』はバンドアニメだけれど、この『リズ』もまた楽器を演奏するアニメーションである。手描き/3DCGの違いはあれど、モノに触れて、目に見えない「音」を鳴らす演奏行為の身体性≒ダンス性は今後も考えていきたい。
(『リズ』でも楽器はCG? 水槽のフグはCGだが……)
(disjoint/joint という語も、キャラふたりの関係に留まらず、人物とモノの関係、キャラクターと世界の関係にも適用できないだろうか)
それから、先日行われた『ツインテールの天使』オンライン読書会で城輪アズサさんが発表したスライドの中に、山田尚子作品の身体論として、キャラの身体の「重さ」を表現できている点が挙げられていたのを思い出した。
「飛べない」身体としての重さ。これはもちろん、作中作「リズと青い鳥」において「空を飛べる」青い鳥の少女が描かれていたのとは明確に対比関係がある。アニメーションにおいて「空を飛ぶ」ことといえば、宮崎駿(や高畑勲)のジブリ作品の文脈があるだろう。
ファンタジー童話の「リズと青い鳥」は、そうした「軽さ」を見事に描いてきた日本アニメ文脈への明確なオマージュであるとともに、対照的に空を飛べない、地面を踏みしめて一歩一歩歩くしかない現実世界の少女たち(みぞれや希美)の身体の「重さ」を強調する。
わたしは以前から、正直いって『リズと青い鳥』の作中作パートは要らないと思っていた。この傑作を薄っぺらくしている要素であると。それは、前述したような「みぞれ≒リズ/希美≒青い鳥の少女」という現実と虚構の1対1の対応関係があるからだ。みぞれや希美は、そんな作中の「物語」の登場人物に、綺麗に対応するていどの薄っぺらい存在でしかないのか?と。
その対応関係が物語後半で反転するにしても、それによってむしろ「虚構と現実の人物が1対1に対応している」というテーゼを強固なものにしていると考えるため、余計に悪い。言ってしまえば、そんなお行儀のいい対応関係を持ち出されると冷めてしまうのだ。せっかくこんなに繊細に、希美やみぞれの動作と感情を描き込んでいるのに……所詮はふたりも「おとぎ話」の登場人物なんですか、と。
しかし、今回観返してキャラとモノの触れ合いから「重い」身体性≒ダンス性を創ろうとしている作品だと捉えたとき、作中作「リズと青い鳥」は、作中現実のみぞれや希美の物語と対応させるためのものではなく、その「軽い」ファンタジックな身体性と寓話性を体現することで、逆に、本質的に対照的な、異なった(互いに素 disjoint な)要素として位置付けられるのではないか、と思った。そうすることではじめて、じぶんは作中作の意義を見出すことができる。
たしかに作中では、終盤に希美とみぞれが別々の場所から呼応(joint)して「みぞれ≒青い鳥の少女/希美≒リズ」であると ”気付く” 。しかし、それがこの作品内で提示された「結論」「正解」であると受け取る必要はまったくない。
「リズと青い鳥」という《物語》は、希美が小さい時に読んでみぞれに貸した「絵本」であり、学校図書館で借りられる「小説」(岩波文庫 赤)であり、そして楽譜として書かれた「音楽」である。それは手で持って触れられるものであると同時に、目には見えずに鳴り響くもの──《フィクション》である。そのなかの登場人物(リズ/青い鳥)に、みぞれも希美も無理に同一化して自己を見出す必要はない。
必要はなくとも、物語を「読む」=「演奏する」ためには、どうしたってしてしまうことはある。あるけれども、それはどこまでもフィクショナルな解釈行為であって、重要なのは自身と虚構のあいだにイコールを結ぶ「対応」(joint)関係ではなく、そこからつねにすでにずれ続ける、チグハグの、すれ違いを含んだ(disjoint)関係なのである。
希美とみぞれのふたりは最後、この鳥かご≒学校≒《物語》から脱出/下校して joint になったのかもしれないが、「鳥かご」から2人とも逃げ出していることが端的に示すように、あるいは2羽の鳥が空を飛ぶカットが差し挟まれるように、「リズと青い鳥」という作中作(《物語》)と、希美とみぞれという登場人物は最終的に disjoint となったのだ。
希美とみぞれがdisjointからjointへと移行したとすれば、「希美とみぞれ」と「リズと青い鳥」は逆にjointからdisjointへと移行した。『リズと青い鳥』とはそういう、《物語》との差異を受け入れる物語であったし、「リズと青い鳥」はそのためにこの作品に必要であった。
この映画じたいは映画館で一度観たきりこれまで観返してなかったが、牛尾憲輔の劇伴はしばしば聴き返していたので、今回映像のなかで久しぶりに聴いて興奮したし、改めて名曲ぞろいだな~~と思った。
今回の鑑賞では3回くらい泣いたが、なかでも最初に泣かせられたのは、中盤、理科室でフグを眺めていたみぞれが、反対の校舎の教室にいる希美のフルートに反射する光に当てられるところ。劇伴「reflexion,allegretto,you」といい、一連の映像といい、完璧すぎる。偶然に訪れるしばしの幸福と別れ。みぞれ…………
みぞれの「希美がすべて」なところ、それこそ重すぎる巨大感情を抱えて執着しているところは本当に危うくて、その危うさをてらいなく尊いとか魅力的だとか言って肯定することはできないが、しかし、感動させられてしまう…………
また、こないだTVシリーズ本編を観返したので、それとの対比で、本作はみぞれに焦点化していることもあり、「オーディション」とか「コンクール」といった部活動の本筋、競争・競技的な面が大胆に省略されているのがめっちゃ良いな~~と感じた。そうだよね、みぞれは本質的に、「みんなで部活を頑張ってコンクールで目標達成する」とか興味ないもんね……。
そういう、競争社会から降りるというか、そんなのどこ吹く風で、マイペースに生きているところは憧れる。むろん、それは「降りている」というよりも、みぞれが天才的な演奏センスを持っているから、特に頑張らなくても渡り歩いていけてしまう特権性に基づいているのだけれど………… 『リズと青い鳥』という作品の評価がじぶんのなかで分裂しているように、鎧塚みぞれというキャラクターへの好悪もまた分裂している。
それは傘木希美に関しても同じで、みぞれの才能に嫉妬して、自分の凡庸さに思い悩むさまはめちゃくちゃ感情移入してしまうが、しかし、みぞれに対してかなり独善的というか無自覚にハラスメントっぽい応対をしていて(頭を撫でるとかも!)、嫌なヤツだな~~とも思う。
「わたし、みぞれのソロ、完璧に支えるから。……今は、ちょっと待ってて」「わたしも……オーボエ続ける」というラストシーンのやりとりから、ふたりの「joint」となった(?)関係のいったんの着地をどう読めばいいのかは正直よく分からない。
ふたりの歩みがそれでも微妙にズレているように、完全に理解し合って相思相愛ハッピーエンド!ではもちろんなくて、ズレているからこそ偶然の一致(奇跡≒ハッピーアイスクリーム)を祝福することができる──というのは『けいおん!』から続く山田尚子論としては妥当な読解ではあろう。(が、わたしがそれを自分なりのこの作品の引き受け方として受容できるかどうかはまた別…… 難しいっすねぇ~ この作品も、自分の感性も)