見出し画像

入江喜和の『ゆりあ先生の赤い糸』と『たそがれたかこ』を読んだ


入江喜和(いりえ きわ)先生の『たそがれたかこ』(全10巻)を読んで紹介文を書いたのがもう6年以上前…………6年前"?!?!?!(驚愕

号泣しながら一気読みして、本当に大好きな作品だったのですが、それ以降読み返すこともなく、入江喜和の他作品をしっかり読むまでにも至っておりませんでした。

しかし、その後に急速にハマった志村貴子の連載作『おとなになっても』のあとがきで、『ゆりあ先生の赤い糸』への言及があり、「へぇ~~志村貴子も入江喜和を尊敬して愛読してるんだ~~♡♡」と嬉しくなったので、『ゆりあ先生』を揃えて一気読みしました。



『ゆりあ先生の赤い糸』初読感想


2024/9/23(月)
ほんっっっとうに面白かった!! ここ数年で読んだ漫画の中でいちばん好き。

入江喜和の前作『たそがれたかこ』も号泣しながら読んだ覚えがあるけれど、つくづく自分はこういう中年女性を主人公にした「少女」マンガが魂レベルで好みなんだと思う。

不倫百合モノである『おとなになっても』よりも内容のヤバさが数段上で、どう考えても人を選ぶ物語ではあるが…… 「不倫」と「介護」と「不能」、じぶんの大好きな物語の三大要素かもしれない。

「擬似家族」モノというか、もはや色んな意味でそういう次元ではないぶっ飛んだ共同体が倫理を突き抜けて「家族」になる物語…… やっぱりじぶんは家族モノに弱いなぁと思った。

しかも、これだけ「少女マンガ」的なファンタジーでしか構成されていない物語を10巻以上やっておいて、最終巻でそれらをなんとしてでも「現実」に着地させようとして取った手段が、その矜持がちょっと凄すぎる。

50代の女性が主人公の紛れもない「少女マンガ」だった。こういう少女漫画が好き。不躾な物言いで申し訳ないけれど、「閉経」した女性が主人公の物語しかもう読みたくないと思ってしまうくらい。じっさい、本作は見事に「適齢期」のティーンエイジャー世代だけが抜け落ちたように登場しないマンガであり、じぶんが「美少女」コンテンツにあんまり向いていないんだなぁと感じる。(生殖嫌悪というか、男性としての自身の加害性=生殖可能性を意識させられることがときに煩わしくなる。ポルノなら良いんだけど。)


「運命の赤い糸」を主題にして、伝統的な少女マンガのロマンチシズムを徹底的に解体しながらも、一周回って最終的にそこに回帰する……という、これまでの少女マンガへのオマージュ作品として離れ業をやってのけている。(まぁわたしは少女漫画に詳しくないので具体的なオマージュ元は分からないのですが…… バレエ要素はそうだよね)


いちおう去年(2023年)の手塚治虫文化賞とってるし、普通に偉大な作品だと思うんだけど、同時に、作中でもメタに言われているように、どこぞのケータイバナー漫画だよ、っていうくらいに終始馬鹿げた展開の物語でもあって、「しょうもな〜〜!!!w」「おい!!そうはならんやろ!!!!ww」と爆笑しながら一蹴できもするところが本当に好きだ。



実家に送りつけて、志村貴子を愛読する母(自分が布教した)にも読ませようと思うけれど、しかし不倫要素ドカ盛りの話だし、これって主人公のような既婚者だったり出産経験があったりする中年世代には受け入れられない可能性も高い。(実際、母は『おとなになっても』のそういう側面に苦言を呈していた。ま、まともだ……)

だから、中年女性作家が自分のロマンだけを求めて描いた、中年女性を主人公にしたマンガだけど、実はこれって、私のような、現実の恋愛には特に興味なく、結婚願望もない、人生経験がまだまだ浅い若造がいちばん楽しめるのでは……?と思った。自分事として真面目に恋愛に向き合っている/向き合ってきた人は、物語の「不倫」要素などにネガティブな印象を抱く傾向にあるだろう、しらんけど。
(が、他でもない描いてる本人がバリバリそういう経験のある中年女性なので、やっぱすげぇわこの人……となる)


入江喜和と新井英樹、正反対にどちらもクソヤバい最高の作品を描く最強のマンガ家夫婦すぎる……(wikiで知った)

(新井英樹『ザ・ワールド・イズ・マイン』を読んだのが4年前か……他のも読まなきゃなぁ)



『たそがれたかこ』再読感想


さらっと夫の漫画のネタ入れてて笑った


※注意 『ゆりあ先生の赤い糸』のネタバレも含みます!!!

24/9/25(水)
次作『ゆりあ先生の赤い糸』を一気読みしたことで、やっぱり入江喜和って……最高だ〜〜!となったので、初読から数年ぶりに読み返した。

こちらも最高でした。『ゆりあ先生』が1巻からフルスロットルで飛ばしていく超エンタメ性の高い物語であるのに対して、この『たかこ』はより静かな立ち上がりで、ひとりの中年女性の ”たそがれ” の日々、生活を丁寧に描いている。

この雰囲気の差は、おそらく両作品の主人公の性格の違いにも起因しているだろう。『たかこ』を読んだあとに思い返してみれば、ゆりあ先生の度量の大きさ、懐の深さといったら半端ない。超人である。

一方たかこは、終盤でようやく明かされる離婚のきっかけにしろ、ほんとうに「大人」らしくない、「ダメ」なオトナであるが、それゆえに自分のような人間はものすごく共感を覚えて、たかこ、頑張れ!!(いや、頑張らなくていいから幸せに生きていてくれ!)と応援したくなってしまう。(応援したくなるのはゆりあ先生も同じだけど)

45歳と50歳、どちらも連載当時の作者の実年齢におよそ寄り沿った中年女性のキャラクターといえど、これだけ両極端な人物を主人公に据えて、いずれも傑作の長編漫画を走り切ってしまうところに、入江喜和の凄さを感じる。

たかことゆりあ先生の違い(ひいては両作の違い)として他に挙げておきたいのは「子ども(出産経験)」と「閉経」、それから「離婚」の有無である。
たかこはひとり娘を産んでいて夫とは離婚済みの状態から物語が始まる。作中で何度か生理のシーンがあるように、まだ閉経はしていない。
他方ゆりあ先生は閉経してしばらく経つと最序盤で言及される。子どもがほしかったがついぞ妊娠は出来ず、それを受け入れてきた時点から話がスタートする。夫との離婚などまったく考えたこともない地点から、とんでもないところまで連れて行かれる物語である。
(ただ要素の差異を並べただけです。だからどうってわけではありません………)


また、『ゆりあ先生』の登場人物のなかには、少女マンガや他の大抵のマンガで主人公になりがちな、ティーンエイジャー(中高生)のキャラだけが綺麗に欠落しているなぁ……と思っていたのだが、それは前作『たかこ』で、娘・一花や、「好きな子」オーミといった中学生の子供たち(に対する中年女性の葛藤)をここまで克明に描いたからなのかもしれない、と今回再読して思った。

ここだけの話、一花というキャラすら完全に忘れてしまっていたので、久しぶりに会って、あ〜〜〜〜いたな〜〜〜〜この子!!!と、なんだかとても懐かしく、再会しただけで泣きたくなった。


『ゆりあ先生』との比較ばかりで申し訳ないが、『たかこ』もどちらも「長屋モノ」じゃん!!と気付いた。主人公が住むひとつの家/アパートを舞台にして、そこに集ったり移り住んだりする様々な人々との交流を、一種のコメディ(喜劇)として仕立て上げるのが本当にうまい。長屋モノ漫画の系譜として、『ハチクロ』とか『めぞん一刻』とかも読んだほうがいいんだろうな……


また、今回読んで特に重要だと感じたキャラクターは、たかこの母・小夜子である。このばあちゃん、たかこに寄り添って読み進めていくと、ほんっっっとうにお喋りで鬱陶しく、そういう意味で「イヤな」人物ではある。しかし、たかこが一花やナスティやオーミ等のこと(本筋)に思い悩みながら家にいるときに、この母がひたすら「今日の晩ご飯は…」とか「ほんと寒いわねぇ」とか「あんたその髪恥ずかしい」などと、たかこの気持ちを一切考えずに自分勝手に生活の些事をまくしたてるフキダシでページが埋め尽くされていることが、結果的に、「生活」と「人生」を描いたマンガとしての本作の厚み、説得力を増していると思うのだ。

いまだに精神が中2なたかこは、すぐに恋だなんだとフワフワ夢見て宙に浮いたり、一花のことや自分のことで深く落ち込んで鬱々としたりと、とにかく「地面」=ベースラインから上下してばかりいる。そういう人間だからこそ主人公たりうる作品なのだけれど、そこでたかこに(ウザがられながらも)常に世俗の現実を、還らなければならない「日常」を、頼んでもないのに提供し続けてくれる「サヨちゃん」こそが、この漫画を、たかこを、根底で支えているのではないか。

先述の「地面」の比喩は、作中ではたかこが娘の一花に使っているものだ。もちろんその喩えは間違っていないし、たいへんに感動的で大好きなシーンではあるのだが、実際には、一花よりもさらに、この漫画にとって重要な「地面」は、憎まれ役のお母さんだと思う。

このサヨちゃん、読んでいて本当に鬱陶しいキャラなんだけど、丸っこくて小さくていつもニコニコしていて、絶妙な可愛さ・可愛げがあるのが良い。(一卵性の双子姉が出てくるのはほんとズルい。お喋りなのは一緒だけどネガティブ/ポジティブが正反対とかw)

次作『ゆりあ先生』での憎まれ役キャラといえばあの義妹だと思うが、彼女よりもよほどサヨちゃんはまだ親しみが持てる。(これは無論、逆に言えば、入江喜和は次作でさらに扱いが難しい「イヤなひと」を出すという挑戦をやってのけている、ということであり、流石である。)
(サヨちゃんポジション、『ゆりあ先生』では義妹ではなく母では?とも思うが、あのお母さんはちょっと人見知りなだけで、サヨちゃんほど鬱陶しくもなんともないのでノーカンとした。)


不登校・引きこもり要素にひじょーに弱いため、一花が出てくるだけで泣いてしまう。特に、摂食障害を患っているキャラなので、登場するだけでその体型が目について、比喩でなく「見るだけで泣いてしまう」。どのように変化していようとも/変化していなくとも。

(好きな物語の三大要素を「不倫・不能・不登校」の "3F(さんえ)" に改めようかな……)

それから、たかこが一花のことを本気で想って寄り添おうとして、なかなかうまくいかないで思い悩むさまが本当に胸にきた。けっきょく、母の子への心からの愛情という、どストレートな要素に弱い自分を再発見する。

子供が何か辛い状況でもがいて苦しんでいるときに、親が一緒に思い悩み過ぎてふたりして暗くなっていくのではなく、まずは親が「好き」なことを全力でやって人生を楽しむことで、そんな親の姿を見た子供にいい影響が与えられる(かもしれない)……という論法は、その実際性はわからないが、直感的に納得感は高いし、そういう物語として、とても自然に受け入れることが出来た。

『たそがれたかこ』は、自分の人間性や仕事や家庭(母)、娘のことに悩むたかこが、いくつかの逃避先/リフレッシュ先を見つけていく話とも言える。美馬さんのお店、ナスティインコ谷在家光一(毎週のラジオ、CD、ライブetc.)、光一似の近所の中学生オーミ(への恋)、そしてギター……

これらのいずれかの事でネガティブな出来事に遭っても、気晴らしとして別の「好き」に逃げ込んでリフレッシュすることで、なんとか生活をやっていくさまが繰り返し描かれる。もちろん、一花や母、パート先だって場合によってはたかこの心を癒す先になり得る。

「自立とは何にも依存していない状況のことではなく、依存先をたくさん持っている状態のこと」だとはよく言われるが、入江喜和のマンガも、これと似たようなテーゼのもとで駆動していると思う。

『ゆりあ先生』も同じで、意識不明で寝たきりの夫の看病や、夫の不倫相手との関係で悩んだときに、特技にして趣味の裁縫(赤い糸)や、若い男とのロマンスや、幼い頃以来に再び通い始めるバレエ教室などなど、ゆりあ先生はその大変過ぎる状況で、次々とリフレッシュ先を増やすことでなんとか乗り切っていく。

こうしてみると、たかことゆりあ先生にだいぶ共通点が見出せてくる。『ゆりあ先生』がすごいのは、そうして次々と逃避先・リフレッシュ先を見つけていったのちに、最終的に辿り着くのが、夫の不倫を通じて知り合った人々との「縁=赤い糸」ということで、ようは人生で運命的に関わり合った「人」みんなを依存先として肯定する……という離れ技をやっているところである。ゆりあ先生は本当に懐が広く、あの家は本当に間取りが広い。


『たかこ』もあのボロい安アパートを舞台とした長屋モノである一方で、一花とふたりで隅田川沿いを散歩したり、橋を渡ったり、ナスティのライブ会場までガラケーで頑張って行き先を調べて向かったり、一花の通える病院を探したり、通院の帰り道でふと雰囲気のいい広場と建物に誘い込まれたり……と、たかこの住む東京の風景の広がりもまた大きな魅力であることは間違いない。

「不登校」の子供やその親にとって、学校へ向かう道やその帰り路、病院までの行き帰りの道などは、それだけで単なる「ルート」ではなく、とてつもなく重く大きな迫力をもっているものである。そんな「道」の意味を、そこを共に歩く者たちの人生の一瞬を、確かに紙の上に映し取って描き切ってくれた作品だと感じる。


そして、最終巻でたかこが行う例のとんでもない行為に関してだが…… まず、再読するまで、この展開もすっかり忘れていたことは書き添えておく。自分にとっては、一度読んだら二度と忘れられないくらい衝撃的なものではなかったようだ。

で、今回読んでも、やっぱり、わりかしすんなり受け入れられたというか、そりゃそうなりもするかぁ、といった感じで、特に強い拒絶感を抱くことはなかった。それはやはり、10巻ぶんも長い旅路を共有してきたわけで、主人公たかこにかなり感情移入し自己同一化を進めていたから、というのが大きいだろう。

が、それだけでなく、年齢に関係なく「好き」という気持ちを肯定するのが主題の漫画としてみても、また、世間ではキモいとかダサいとか思われるかもしれないことを敢えて突き付けていくパンクな中年女性を主人公にした物語としても、あの告白は必要で必然だったように思う。〈倫理〉を超えていけ。たかこが社会通念に沿ったまともな大人なんかじゃないことはそれまでにも十分描いてきているわけで、最後に、明らかに「アウト」な行為をやってのけることは、この物語を終わらせるためにはそれ以外あり得なかった。

それに、「好き」という純粋無垢な気持ちが他者にもたらす暴力性、というテーマは非常に自分好みでもある。自分の暴力性と罪を自覚した上で、その刀で相手を切り捨てる主人公が好きだ。インディーゲーム『雪子の国』とかも同様。

この『たかこ』での挑戦の延長上に『ゆりあ先生』での多重不倫ストーリーがあると思うと、やはり入江喜和の覚悟の決まりようが恐ろしいほどにカッコよく感じる。と同時に、それでも実際の賛否両論ぐあいで言ったら、『ゆりあ先生』での不倫要素よりも、『たかこ』での告白展開であろうから、まことに〈倫理〉とは不安定で不明瞭でおもしろいものである。『たかこ』のほうが尖っているまである。

もちろん、その告白が実るはずもなく、あのような形になったところまで含めて良かった。あの戸惑いと怒りの表情だけで、なにも言葉による反応を得られていないところが素晴らしい。どこまでも一方的な言葉。

これが男女逆でも同じように受け入れられたかは分からない。かなり拒否反応を示す気がする。その非対称性はもちろん倫理的に「間違っている」んだけど、そういう間違いを内にたくさん抱えているからこそ人間はおもしろいし、物語を読む意味があるのだと思う。

……と、↑適当にいい感じに締めておけずに書いてしまった自己分析/自分語り↓

フィクションにおいて「母の子供への愛」には素朴に感動するが、「父の子供への愛」には感動よりも加害性を見出してしまう。 「中年男性の少女への恋心」は受け入れがたいが、「中年女性の少年への恋心」はそれほど強く糾弾する気にならない。 これらは私のなかの性差別が顕になっている例だが、これは自覚した程度で簡単に改められるものではないとつくづく感じる。おそらく家庭環境、両親との関わりという人生の根本で規定されているものだから。
これはおそらく、自分の男性性嫌悪や、じぶんの性欲(異性愛欲望)への罪悪感、そして生殖嫌悪とも密接につながっている。 「父=男」の「愛」を尊いものとは思えず、抑圧的・暴力的なものと考える価値観。 逆に「母=女」の「愛」にはなんやかんやで弱い。精神的なマザコン性に嫌になるが、やはり自由に振りほどけるものではない。
例えばわたしはノベルゲーム『終のステラ』のラストが本当に嫌いだが、あれが男女逆だったらむしろ「感動」していたのではないか……と思うと、フィクションを鑑賞しては偉そうに感想を言っている自分のくだらなさ、空虚さに絶望したくなる。
自分はどこまでも「正義」や「倫理」や「政治闘争」としてではなく、「性癖」としてしかフェミニズムを咀嚼できないと感じるのも、この文脈にある。すべては幼い頃に植え付けられた性向に過ぎない。


まとめと蛇足

えー…… とりあえず、入江喜和の描く中年女性マンガは最高!! ってことは間違いないです。めちゃくちゃ人を選ぶでしょうけれど…… わたしは、どうしようもなく好きなんだよなぁ…… と噛みしめながら思います。

もともと、アニメや小説など一般に、男主人公モノよりも女主人公モノのほうが好きになりやすい(例外は多数あり)かもしれない……と、ここ6年間くらい思っていたのですが、さらに解像度が上がって、あるていど年齢を重ねた女性──中年女性やおばあさんなど──が生き生きと描かれる作品が好きなのでは?と感じつつありました。そうしたわたしのヘキが、この入江喜和との "出会い直し" によって決定的に確信された、といえるでしょう。

べつに(フィクションの)若い女性キャラに一切興味がないなどとは申しません。わたしは今のところヘテロ・セクシュアルであり、人並み以上に大好きだと思います。ただ、それゆえに、上述しているような、自身の性欲を喚起させられることが場合によっては邪魔になると感じ、結果的に「適齢期」外の女性キャラにこそ、心から好きだと言いたくなる……ってことかな? その証拠?として、妙齢女性だけでなく、児童文学の主人公となるような幼い少女キャラも素朴に好きです。「適齢期」より上でも下でもいいということ。

↑このエロゲ論で詳しく書いたのですが、わたしのなかには「女性(キャラ)を客体化することは悪だ」というかなり強い倫理意識(自罰意識)があり、それと真っ向から対立するかたちで「一定の属性の女性(キャラ)にどうしても欲情してしまう(=客体化してしまう)」性向がある。後者の性向があるからこそ、それに折り合いをつけるために前者の倫理感情が要請された、というほうが正しいかもしれません。

いずれにせよ、こうしたコンフリクトが自身の内で発生すると "疲れる" ので、(開き直って快楽に身を任せられるポルノならともかく、)一般作品ではできるだけ性欲を刺激しないようなキャラクターのほうがありがたい。そうすれば、客体化ではなく同一化(感情移入)して女性キャラを主体化することができるので。

アニメ『響け!ユーフォニアム』はコンフリクトが発生してしまういい例です。おはなしはめちゃくちゃ真面目でリアルなスポ根青春モノなのに、キャラデザがかわいすぎる(えっちすぎる)ので、私の中ではひじょ~に困ってしまう。彼女たちの輝かしい生き様を尊重して受容して感動したい(してる)のに、一方では "萌えキャラ/2次元美少女" という「商品」としての質が高すぎて、そういう目でも見てしまう。ポルノとして割り切って消費するときならいいんですが、感動ストーリーを楽しみたいときにはノイズになる。(ただしこれも雑な話で、『ユーフォ』をまじめに批評するならば、作中に影のように通底する異性愛・生殖モチーフにも注目して、それがどう〈青春/部活/学校〉というメインテーマと関わっているのかまで論じるべきだとは思っています)

これまでの人生で触れてきた物語作品を振り返ってみても、わたしが真に感動できる、魂から好きだと言えるのは、そのなかの登場人物(主人公に限らない)に感情移入しきって、「これ……〈わたし〉だ……」となるものが多いです。(そうでないタイプの傑作もありますが)

ことあるごとに挙げているように、『WHITE ALBUM 2』の小木曽雪菜(と北原春希)や『ちはやふる』の真島太一(と綾瀬千早)、『ハルカの国』のユキカゼなどがそうです。

ゆえに、「これ……〈わたし〉だ……」と強烈に自己同一化するためには、"萌え" すぎるといけない。もっと言えば、エロ過ぎるといけないんです。(「2次元美少女になりたい」タイプのヘテロ男性オタクは知り合いにたくさんいますが、わたしは今のとこ全然そうではなりません。自身の男性性を鬱陶しがっているくせに、それを容易に捨てることもできない。)

だから、客体化より同一化がしやすい中年女性や老年女性のキャラがメインの作品のほうが好みの確率が上がる。……そのような仕組みになっているのではないかと後付けで考えています。あとは、上述の通り、シンプルにわたし自身が母親やおばあちゃんっ子である影響が絶大だというのは間違いなさそうです。

でもこう書くと、じゃあエロゲでは本当に感動できないのか?という話にもなりそうで、興味深いです。女性主人公モノの凌辱抜きゲーで、わたしは主人公の女性キャラに同一化しているのか、客体化しているのか。犯される女性と犯している男性のどちらに感情移入してエロスを感じるのか、という話と一緒ですね。同一化による(被虐的な)エロスが存在しないとは思えません。マゾヒズムとの関係は? ……ここらへんはまた持ち返って研究テーマにいたします。。



なんだか入江喜和からずいぶんと離れた話になってしまいましたが、『ゆりあ先生』の連載を終えたあとに書き始めた最新作『みっしょん!!』(既刊2巻)も非常に面白いです。

感想書きました

『たそがれたかこ』、『ゆりあ先生の赤い糸』と合わせて、ぜひ読んでみてください♪

入江喜和入門にオススメなのは……パンチが強いぶんエンタメ性もバツグンな『ゆりあ先生』でしょうか。



いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集