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志村貴子『おとなになっても』(全10巻)感想


いちばん好きな漫画家のひとり、志村貴子が2019年から連載していた大人百合マンガ『おとなになっても』が、2023年11月に全10巻で完結しました。連載序盤からずっと追いかけていた作品です。

志村貴子なので、登場人物の人間関係がフクザツで内容の把握・記憶が難しく、最新刊が出るたびにまた以前の巻から読み返していました。

じぶんにとって割と大切な、大きな作品となったがゆえに、最終巻が刊行されてからなかなか読む気にならず、1年近く遅れてこのたびようやく最後まで読み終えました。志村貴子先生、連載お疲れさまでした!!!

3巻まで無料で読めるっぽい


というわけで、各巻が刊行されるたびにメモっていた感想文を、残っている限り順に載せていきます。

はじめの4巻の初読時の感想は見つかりませんでした。(こいつホンマつかえねぇ~)
再読時の感想はあります。

覚えているかぎりで書くと、序盤(1~4巻)をはじめて読んだ当初は、めちゃくちゃ面白い!と惹かれるわけでもなく、超つまらないわけでもなく、「ふむふむ。色んな百合を描いてきた志村貴子が、今度は大人(社会人)同士の百合をやるのか~。しかも不倫モノ!? ほんとこのひとは三角関係すきだな~」と、わりと冷静に(冷めて)受け止めていたように思います。いや、そうだったかな? 正直なにも覚えていません。



2021/10/09

5巻

恵利ちゃんのために読んでいるようなものなのに、彼女までそっち側へ行かないで〜〜……でも面白い〜〜最高に志村貴子してる〜

敷居の住人』の頃は物語とは到底異なる現実の生活や人生をリアルに描こうとしていた志村貴子だが、最近の作品では、現実をなんとか物語化しないとやっていけない人々のリアルな生活や人生を描こうとしているのかな〜〜とか思いながら読んだ。


2022/2/28

6巻

初っ端から「えっ、マジ!?」とびっくりしたけど、何やかんやでゴール(完結)までの道筋が見えてきた。(合ってるかは知らん)

恋愛とか人生とか家族とかを描くことで、恋愛とか人生とか家族とかの愚かさ、それらに従事せざるをえない人間のあっけらかんとした愚かさを紙面に結晶させている。

志村貴子を読んでいるときにしかじぶんは息ができないんじゃないか、という心地にさせられる。

志村貴子しか信じられないわ〜〜〜と思いながら読んでいると、いや待てよそれは早計だと思わせられたりもする。(夫の職場の同僚女の新キャラはさすがにシナリオにとって都合が良すぎて引く。でもそういうキャラのデザインこそめちゃくちゃうまくもある)

1つ言えるのは、絵がわかりやすく上手くなったな〜ということ。もともと漫画表現が巧い作家ではあるけど、決め所で刺すのがこんなにうまかったっけと思った。(美容室で再開する場面、髪を切るコマ)
もともと卓越している構成力・シーン切り替えと相まって爆発力がすごい。



2022/09/24

7巻

7巻になって面白くなってきた!
最初の扉絵からそうだけど、志村貴子にしてはやけに街の風景のコマが多いなぁと思ったら《地域性》と《大人性》の関係を扱うプロットだった。そゆこと。ファミレスでの不倫離婚現場を綾乃が小学校の保護者たちに目撃される事件と、朱里の地元へのふたり旅が綺麗に対比になっていて、「互いを知る旅に出られるからでしょうか」と、大人である自分たちの現在の関係を冷静なトーンでほんの少しだけ肯定する着地がものすごくうまい。子供が世界の狭さに苦しむことの象徴としての "保健室登校" の描写の配置も見事。

あと5巻の感想に書いた「自身の毎日の生活/人生を物語化しないとやっていけない者たちの物語」という側面が更に色濃くなってきた。
不倫の恋に浮かされて「物語の主人公気取りになってる。お義姉さんに言えなかったことまで何かのスパイスみたいに感じてる」と独白する恵利ちゃんや、巻末の番外編②での「勝手に"話"終わらせてんじゃねーよ」、"男子ふたりだけの 美談 になっており…" といった「話」「美談」という言い回し/モチーフなど。
いろんな《物語》に囲まれるなかを生き抜いていく人間のリアルな生のあり方がよく描かれている。

小旅行先での「もし私と朱里さんが同じ学校で出会ってたら…」という妄想も《物語》の最たるもの。「読書感想文きっかけ」で仲良くなると想像するのもモロに解釈に都合が良い。

ところで、p.24「自分の幸せは誰かの不幸の上に重なってるなんて」から始まる一連の黒背景白抜きコマが、綾乃と朱里それぞれのモノローグを交互に映しているのだと最初分からなくて戸惑った。最近はすっかり「おとなになって」鳴りを潜めてきたと思ったけど、こういう読者に不親切な演出を見ると「志村貴子だ〜」と安心する。

正直、メインふたりの恋愛が「成就」することをそんなに応援できてはいなかったのだけれど、ここまでくると "逆に" 肯定したくなってきた。
女友達のノリでかけられた電話越しにあっさり「恋人」関係が再び成立しちゃうシーン(「中学生かよ」)の馬鹿馬鹿しさとか、自分の誕生日パーティやってる実家に綾乃を連れてって「一緒に暮らすことにしました」と報告しちゃう朱里のフィクショナルな奔放さとか、それでも2人の間に横たわる罪悪感とか……。やっぱりカップルは別れてからが本番だし、結ばれることへの躊躇いがある関係が最高なんだよなぁ



2023/1/21

8巻

「そうはならんやろ」でしか話が構成されていない。志村貴子は本巻でも平常運転すぎてウケる

メイン2人の関係は順調なようだし、この話は一体どこに向かってるんだ?どうなったら終わるんだ?と我にかえって唖然としてしまうのも志村貴子でしか味わえない読後感。

実際どうなんだろう、結婚すれば終わんのかな。しかし元夫もトントン拍子で次の恋人/婚約者が現れるし、引きこもり不倫者の恵利ちゃんと森田は妻に訴えられるのかもしれないし、綾乃の妹・楓は結婚でなぜか実家に夫を連れてくるらしいし、「大久保先生」が転校してこじれ小学生ガールズは卒業しちゃうしで、何がなんだかもうさっぱりわかんないよ〜〜

綾乃と朱里もすごく順風満帆なのに、物語のトーンとしてはなにか不穏──いやそんな露骨なものではないが、場面の編集によってなんとも形容し難い雰囲気が通底している気がする。……ってこれはじぶんが単純に2人の甘々同居生活♡にきゅんきゅん出来ないからってだけの話ですか??

そろそろ終わりに近づいてるかと思いきや、また無限に続けようと思えば続けられるモードにも入っている気がして、マジでなんとも言えない。「早く終われ」とも「早く終わるな」とも言えない。まぁた唯一無二の漫画を描いてんなぁ〜〜としか……



2023/7/16

9巻

志村貴子ほどおもしろい人間群像劇を描く作家はいない。他の漫画家が最近のリベラルな思想や倫理をまじめに勉強して丁寧に名作を描いて評価されているのに対して、この人だけ相変わらず倫理観がバグった人間どもしか登場しないやべえ話を、そんな雰囲気は微塵も感じさせない手触りで描き続けている。あるいは、この人だけ数十年後の倫理を先取りした世界にいる。「不倫」ほど面白い文学の主題はない。

前巻で朱里と綾乃が同棲を始めてハッピーエンドっぽい雰囲気になったときは不安だったが、我らが志村貴子は当然そこで終わってあげる作者ではなかった。といっても、いかにもなカタストロフが2人を襲うような凡庸な展開にする筈もなく、むしろ「天罰」による禊ぎを希求するものの叶わない、じりじりとした罪悪感に絡め取られていく人間たちを、しかしおそらく爽やかな形で描くつもりなのだと感じ、これはもしかしたら最高傑作のひとつになり得る物語なんじゃないかと思った。

メインふたりよりも、恵利やその母、そして本巻で詳しく描写される森田みづき(ヤリチン店長の妻)の物語のほうがおもしれ〜〜、と読んでいたのだが、それらの挿話もまさに朱里が遥かに歳下の中学生女子たちに ”物語って” いたものだというかたちで繋がり、大人と子供がお互いに恋バナ/人間痴話を語り合う一千一夜的な場が作品を根底で基礎付ける。それによってタイトル『大人になっても』の意味が深められていく……

「なんだか大人ってすごいね…」
「ね……コワ……」

「まあ聞きたまえよ まだ別れてはいないだろ」
「この話には続きがあるのさ」
「続きは明日」

さぁヘビの生殺し状態で最終巻を待つぞ!!!




2024/1/3深夜

1-3巻(再読)

実家で再読開始

改めて読み返すと綾乃さんがずっとやばい。なんだこの人、こわすぎる。対照的に、朱里さん側はかなり"わかりやすい"造形。いろいろと経験を積んできたけど根がチョロいレズビアン。

しかし大久保母(綾乃さんの義母・姑)もこの人で相当にヤバい。こんなに怖かったっけこの人。結婚してこの姑と付き合わなきゃいけないの嫌すぎる。綾乃さんが教師だからって、自分の末娘(恵利)の引きこもりに好影響がないかと勝手に喜び、息子夫婦を実家に同居させる姑……

しかも、「子供をつくることはもう諦めたの」と綾乃さんに迫る、孫をよこせ圧力……。子供を産んで普通に他で暮らしている長女(渉の姉)に対しては対照的に、実家を物置代わりにするな、早く荷物も引き上げろと要求しているあたり、もしかしたらこの人は、「夫婦とは、子供を持って一人前の独立した"家族"であり、子を持たない夫妻は未熟だから、姑の自分の"家"へと半ば無理やり吸収/同居させても構わない」とでも思っているのじゃないか。自分の孫を産んでイエを繁栄させてくれないのなら、そんな"嫁"は未熟であるから姑である自分が支配しても良い、的な……。
女同士のキスくらい大したことない、とする同性愛差別についてはまぁ、世代的にもまだ仕方ないというか理解はできるが……。

浮気・不倫モノってなんでこんなに面白いんだろう。というか、なんで自分は浮気・不倫モノの物語がこんなに大好きなのだろう。自分はこれの何に興奮して楽しんでいるのだろう。それを分析するための読書でもある。

2巻で、不倫した側は離婚を申請できない、と語られており、少し調べて、へーマジでそうなんだー面白!!となった。不倫とか、そもそも結婚とかが法律でしっかり規定されてるの、当たり前といえばそうなんだけど、めっちゃ興味深い。勉強したい。国家・法が、夫婦間の義務とかについてガッチリ定めてるのグロ〜〜ウケる〜〜と思っちゃうけど、結婚という行為、夫婦という関係は、原理的にプライベートなものではなくてパブリックなものなんだなぁ……という事実に震える。もっとも親密な(異性)二者間の結びつきを規定することが必然的に、社会へと開かれた公的なものとならざるを得ないって考えてみればかなりアンビバレントで面白くない!? 結婚制度、マジで歪だな〜となる。それが、エロゲとか一部の恋愛エンタメフィクションに於いても、最も尊いふたりの関係の「ゴール」として、多くの場合無批判に設定されているのがオモロ過ぎる。

女性同性愛×不倫モノとして、本作が意義深いのはどんな点だろう。これまで百合は抑圧される被害者同士の相互互助(シスターフッド)的な、尊くて政治的にも正しいものとして受容されてきた。しかし、真に同性愛差別を乗り越えて、異性愛と同等に扱うということは、百合の当事者たちもまた、「罪」を背負う加害者側にもなり得ることが当たり前にならなければならない。同性カップルとは必ずしも無垢で無謬で無罪なものではなく、異性カップルと同じように、非倫理的だったり単にしょうもないものであったりして良い。すなわち、「尊くない百合があってもいい、あるべきだ」という一歩先の思想を本作は宣言していると読めるかもしれない。

しかし更にややこしいのは、そもそも浮気・不倫というものが、現代のリベラルな価値観からして、いったいどの程度本当に "正しくない" のかよく分からない、という点である。果たして、人種差別や性差別の正しくなさ(=悪さ)と比べて、浮気・不倫行為はどの程度"悪い"のか? そもそも、これらの"悪さ"は質的に同じもの、比べられるものなのか? まったく異なる次元・種類の問題ではないのか? 不"倫" とはいうものの、不倫はいったいどの程度、倫理に反しているのか? もしかしたら、それは(些細な夫婦喧嘩などと同様に)当人たちの間で解決すべき問題であって、実は社会的・政治的な正しさ(倫理)からは特に外れていないのではないか?

もちろん子供がいた場合は親としての責任や、子供へのネガティブな影響が発生するために、不倫はポリティカルにも間違った非倫理的な行為であると糾弾されよう。しかしここでは、子供がない夫婦の不倫について考えている。「親」ではなく、あくまで「夫/妻(配偶者)」としての倫理の内実についての話だ。上述のように、そもそも結婚制度というものがかなり自己矛盾をはらんでいるグロテスクなものであり、しかもいま議論の俎上としているリベラルでアナーキーな価値観においては、家父長制や結婚制度そのものがある程度 "悪い" ことになっているために、じゃあともすれば、本来正しくはない結婚という関係を撹乱?破壊?するかもしれない不倫という行為は、逆に倫理的であり政治的に正しい可能性すらある。。。
不倫とはひとつの革命行為なのだ。

と、いうようなことを踏まえて本作を読んでいると、ますます訳わかんなくなってくる。こいつら非倫理的でヤバすぎる〜〜!!!とはしゃいでいる自分のほうが "間違っている" 可能性があるので。

しかし、ヤマシタトモコと志村貴子はほんとうに対照的な作家だと思う。
ヤマシタトモコはちゃんとリベラルな思想を学んで、それを元に直接的に作品に反映させて極めて倫理的・政治的に誠実な漫画を描く。しかし志村貴子はハナから倫理とか政治的正しさの外側にいるような、訳の分からない漫画を描く。あるいは、そういう正しい思想が部分的に読み取れるとしても、作者は自身の倫理に従っているのではなくて、単に自身の性癖に従ってこれを書いているんだろうな、と思わせる。むろん、倫理の外側なんてものがあるかのように語るのはどこまでもナイーブであり、志村貴子もまた何らかの思想に縛られてはいるだろう。でも、そういう次元にはいないのだ。




2024/1/3

4巻(再読)

朱里の初恋は小学校の女性の担任教師で、その面影を綾乃に重ねているのかもしれないと(ミニマラソン中に)思い、けじめをつけようとする。
先生に甘えたい気持ちを恋心として持ち込むのは不健全なことであると自覚的なのすごく立派だ、朱里さんは。

男性キャラを「悪い人」にしないのが徹底している。綾乃の夫、大久保渉のいいひと具合とか、その父(綾乃の義父)の存在感の薄さ(入院していた)、のほほん具合とか。
これまで、「男性」や「父」が家長・抑圧者という諸悪の根源として物語で位置付けられてきたことへのカウンター。
とにかく女たちの物語であること。立派な人も悪い人も、とにかく女性たちのなかで完結させ、生き生きと描くんだ、という姿勢。

「夫婦関係の破綻が認められる」のは ”別居” が3~5年など長期間に渡った場合。
法律上、簡単には離婚できないようになっている。それだけ「結婚」は社会的に重いものである。
法律で簡単には婚姻関係を解消できなくしている理由は、明らかに、生殖という次代再生産を促さなければ国が運営・維持できなくなるため。

しかし、そういう国の都合をいったん棚上げして考えると、夫婦関係の解消にはどういう条件を設定するのが最も「倫理的」に善いのだろうか。
綾乃は夫の渉ではない人(朱里)に恋をして、より親密な関係になりたいと思っている。ならば、離婚できるようにすればよいのではないか。
(もちろん、現行の法律では同性間の結婚がほとんど認められていないという問題もあり、それは国の子供を作って欲しい立場からしても整合的ではあるが、この件もいったん脇に置いておく。)

つまり、いま焦点を当てて考えたいのは、「結婚の成立に両名の合意が必要なのは当然だ。では、離婚の成立にも両名の合意を必要とすべきか?」という問いである。それを、国や社会的・法的な観点ではなくて、あくまで当事者間の倫理的な観点で考えたい。(国としてはなるべく離婚の成立要件を厳しくしたくて当然なので。)

結婚は両名の合意があってこそだが、これはもっといえば、「婚姻関係の存続には両名の(不断の)合意を必要とする」のではないか? そうだとすれば、片方がもう婚姻関係を解消したいと思った時点で離婚できるようになるべきではないか? もう片方の配偶者は、相手がもう自分と婚姻関係でいたくないと思っているのに、それでもなお関係を無理やり(形骸的/法的に)維持したいと思うのか? そういう形の「婚姻関係」でもいいのか? 
まぁ、本作の夫・大久保渉は、妻に浮気・不倫されても「自分からは離婚しない」と言っているが…… もちろん、これから自分たちふたりの関係を修復できる可能性もなくはないし、それを信じているからこその発言ではあろうけれど……



24/9/19(木)

4巻(再々読)

志村貴子にとって「引っ越し」はひとつの重要なファクターであり主題だと思う。人物の経済力も含めて。
この時点では恵利ちゃんはヤバい母親に「早くまともな大人になれ」と圧をかけられる完全に可哀想なポジションだけど、そんな彼女をのちに不倫させるのが凄すぎる。
先生としての綾乃さんがなまじめちゃくちゃ優秀で良い先生なだけに、プライベートでの奔放さとのギャップが引き立つ。
異性愛のみの結婚制度・家父長制に抑圧される百合が、不倫によってそれらに逆襲する。
読み返すと、綾乃の夫の渉も、子作りをそれとなく迫ったりと、「良い人」「ふつうの男」なりの暴力性が滲み出ていて味する。
小学生百合もな〜小学生女子あるある。やっぱ三者関係なんだよな〜〜



2024/9/21

10巻

4巻から読み返してこの最終巻まで一気に読み終わった!
つかれた・・・・・・
よくぞあそこまで錯綜した人間関係のドラマを、この最終巻でなんとか力業で纏め上げたものだ。
ただ、そのために、元教え子の中1(子ども)たちの口から再構成させたり、自主制作映画だったり、応募して新生賞を獲ったシナリオだったりと、メタフィクション要素を怒涛のように詰め込んでいた。正直、『放浪息子』の終盤を思い出して、また(まだ)こういうのに頼ってるのか〜〜と落胆した気持ちが無かったといえば嘘になる。(余談だが、綾乃の超ショートの髪型も、『放浪息子』の にとりんだ……となった。) 自主制作映画のために、綾乃にすごく良く似た「魔性の女」俳優をしれっと連れてきてキャスティングできてしまっているところなど、ひじょ~に萎える。えぇ…… この作品の「キャラクター」って、そんな似た「モデル」がホイホイ捕まえて来られる程度の記号的なものだったの……?と。

これまで「こじれガールズ」たちの三角関係を、メインの大人たちの不倫コメディと並行して描いてきたわけで、それは大人と子どもの対比/相似関係を浮かび上がらせるとともに、小学校教師である主人公・綾乃の人物像を立体的に描く効果もあった。そうして、「おとな」をタイトルに関した物語において見事に「子ども」を扱ってきたわけだが、この最終巻の率直な印象は、悪い意味で「子ども」に頼っていて狡いな、というもの。上述のメタ要素もそうだし、最終話の「将来の作文」とか、“子ども” というイノセントな表象を持ち出せば安易に感動的なオープンエンドで締め括れるよね……と若干冷めてしまった。確かに子どもはオープンエンドだし、この作品の主張としては、「おとなになっても」オープンエンドで “赦され” ていいハズだよね、というものなのかもしれないが…… うーむ…… しょーじき、一度読んだだけでは全然咀嚼しきれてないです。
でも、志村貴子がここまで必死に、広げまくった人間関係の風呂敷を畳もうとしていること自体が意外で、じぶんは作者のことをまだまだ舐めていたのだと反省はした。その結果としての、大団円ハッピーエンド寄りのオープンエンドというのをどう受け止めたらいいのかは分からないが……。

もうひとつ。綾乃の元夫・渉の母親に最後にここまで寄り添うとは思っていなかった。これは良い方の予想外。こういう、あからさまにイヤな「姑」「母」「おばさん」を単なる悪者にし続けるのではなく、かといって安易に同情するのでもなく、そのパートナーであるところの影の薄い夫(渉の父)の責任をしっかり追及するところが大変素晴らしいと思った。大抵のフィクションでは、こうした場合、影の薄い「男」の責任が取り沙汰されることは稀であり、とにかくこの「女」がヤバい、最悪だ、という話になりがちなので。これと似た要素として、不倫男・森田の妻みづきのDV設定も良い。DVは男(夫)がしがちなところ、女(妻)がする場合をあえて描いておく意義。

この最終巻を読むまで、本作が志村貴子の最高傑作になるんじゃないかと喧伝してきたが、いざ読んでみるとどうだろう…… 最高傑作というより、もっとも多方面に挑戦している、最意欲作ではないか、という気もする。ちょっと『敷居の住人』から『放浪息子』も含めて読み返して出直してきます。とてもじゃないが、私なんぞのキャパに収まるような作品ではない。これから一生かけて付き合っていく類の作品であることはおそらく確かだ。





1巻無料試し読み





これまでの志村貴子かんれんnote

↑『淡島百景』(3巻まで)の紹介 ↑

↑『放浪息子』の紹介 ↑

↑『敷居の住人』、『ラヴ・バズ』の感想 ↑

↑ 志村貴子キャラクター原案のアニメ『バッテリー』感想 ↑

↑ 志村貴子で百合要素のある作品を軽く紹介 ↑

蛇足

今更の余談ですが、「大人百合」という語は、いかに「百合」ジャンルが「少女」という未熟性に依存しているかを逆説的に示すので、あまり好きくありません。大人百合が「百合」と呼ばれ、子供・若者の百合が「少女百合」などと呼ばれてもいいはずなのに、なぜかそうならない。これは、女性の同性愛なんてしょせん若い頃の一過性のものに過ぎない(からこそ儚く美しく尊い)、という直球の同性愛差別・異性愛主義を暗に含んでおり問題があります。だからこそ、この『おとなになっても』のような作品の存在は重要なのだと思います。(そういう「政治的に正しい」側面もありつつ、中身はガッツリ「不倫」もので、しかしそれすらも、現在の異性愛に限定された婚姻制度や、生殖-家族再生産イデオロギーに基づく家父長制へのカウンターとして解釈できる…… と、本作はやはり、めちゃくちゃ面白い漫画だと思います。)

加えていえば「百合」に限らず、そもそもフィクション(漫画・アニメ・ゲームなど)で描かれる女性のキャラクターの多くが「少女」("美少女")である、というエイジズムやルッキズムとも関連した女性差別的な状況があります。こういうことをついったーで言うと、「いやいや若くない女性キャラを扱った作品なんていくらでもあるやろ!」と反例が収集できて便利なのですが、とはいえ、統計的に少女偏重であることはたぶん間違いないでしょう。ソースはありませんが。

わたしは、こうした環境への「政治に正しい」カウンター……というよりも、自分自身のごくごく私的な好みとして、もっと「大人」の女性キャラの物語が読みたいです。中年・老年女性を主人公にした漫画やアニメ、ゲームがもっと増えてほしい。

美少女ゲーム同人誌『ビジュアル美少女』に寄稿した評論文も、そういえば「少女」中心主義・「美少女」中心主義にとにかくアンチを張ろうとする文章でした。

わたしは根本的には「2次元美少女キャラクター」が嫌いなのかもしれません。2次元オタクなのに……(いや、ふつーに好きなキャラも作品もいっぱいありますが。。)

大人の女性が主人公のマンガといえば……『マダムたちのルームシェア』とか好きです。

映画化もした『メタモルフォーゼの縁側』も、そこそこ面白かったです。

数年前に紹介した『ちひろさん』もそういえば大人の女性を主人公にしていますね。

ただし今のところ、自分のなかでの「中年女性」漫画を描く作家で最高だと思っているのは『たそがれたかこ』『ゆりあ先生の赤い糸』等の入江喜和なので、気が向いたらそれらの感想noteを投稿します。

それでは。


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