占いチョコ
子供がお菓子を食べている、ババが買い物のついでに買ってくるのだ。孫に甘い、お菓子も甘いものばかりだ。食べているのは占い付きの丸いチョコレートだ、これは私が小さい頃からある懐かしいお菓子だ。
私は中学、高校、社会人になってしばらくはめざましテレビの占いを欠かさず見ていたものだ。順位が良ければ少しだけ気分が楽になり悪ければ落ち込んでいた。不安の多い時期だったので占いにすがっていたのだろう。
社会人になり大きな怪我をしてから占いを見ることはなくなった、なにか吹っ切れるきっかけになったのだろう。ちなみに怪我をした日の占いは
11位だった、11位であらなら12位なら死んでいたかもしれない。
たしか30歳手前の頃友人に連れられ占いがよく当たるというBARに行った。手相を見てもらっている友人の隣でウイスキーを飲みながら煙草をふかす、手持無沙汰が私を苛つかせた。私はその友人があまりの好きではなかった、奔放で自由に生きているように見える姿が羨ましかった。自分とは真逆の性格に嫉妬した。こいつのようにはなりたくないと思い込むように自分の心を抑えているのが辛かったのだ。
占いが終わった隣で、すごく当たっている、人生の光が見えたなどとはしゃいでいる。
何事も楽しもうとすることは大切だ、だがあの頃の私にはそれができなかった。それができる友人に対して私のキチガイゲージが高まっていく、なにが人生の光だバカヤロウと思いつつ、雰囲気を悪くする勇気はないので表情には出さない。それは良かったね、と当たり障りのない言葉をかける、話も聞いていなかったので具体的なことは言えなかったのだ。
お前も占ってもらえよとウキウキな声で言ってくるその友人を見ると耳触りのいい言葉をかけられたのだろ、きっとこの友人の自己肯定感と承認欲求がこの占いで満たされたのだ。しかし、このテンションの上がり方を見ると普段は満たされていないのかもしれないと感じ寂しい気持ちになった。
私は占いは次の機会にしてウイスキーのおかわりをお願いしますとその場を濁したが、友人はすごく当たるって!未来を変えれるぞ!などとしつこくすすめ、こいつのこと見てやってくださいと占いをしている店員に頭を下げ始めた。必要なときには世話を焼かないくせにこんなときに余計な世話を焼きやがる。
私は会社の工具箱を連想した、使わない工具は入っているくせに肝心なときに必要な工具が入っていない。まぁ余計なことをしない分工具箱のほうがましだ。
面倒だが抗うことなく手のひらを差し出す、その手を見ながらその店員は、あなたは自由な発想を持っていて何者にも縛られず生きている、これからもそのスタイルを貫けば成功すると言ったのだ。
あまりに私の生き様とかけ離れた占いの結果に閉口してしまった。
休みの日に一人でいるの寂しさを紛らわすため行きたいとも思わない占いのできるBARに付き合いながら苛ついていることを悟られまいと抑えている自分がそこにいる。
自由な発想、自由な振る舞いができればこんなところにはいない、それができればどんなに楽だろうか、それができればきっと彼女もいただろう。
隣から聞こえてくる、そうなんですよ~、こいつそういうやつなんですよ~、の声がとても遠くから聞こえてくる感じがした。
出てきたウイスキーを一気に飲み干し、軽い口調で帰ろうぜとでも言えればいいが私はそれほど酒に強くないしウイスキーも苦手なのだ。ただ、BARに来たからにはウイスキーやバーボンくらい頼まないと恥ずかしいのではないかという思いがあったから頼んだのだ。
思えばあの頃は自意識が強く周りからどう見られるかばかり気にしていた、そのくせなにか努力するわけでもない自分に情けなさを感じていた。
考えてみれば客を占って気分を悪くするようなことは言えないだろう、結果はどうあれ、あの店員は私の気分を盛り上げるためにあのようなことを言ったのだろう。今にして思えば、閉口するしかできなかったことに申し訳無いことをしたと思う。
年齢を重ねるごと私は生きることが楽になっていった。今の悩みも10年後には何でもないように感じるだろう。
ババに買ってもらった残り少ないお菓子を食べている子供を見て、自由な発想で節度ある振る舞いができる人になって欲しいと願うばかりだ。
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