「毒親」
おはようございます。
公響サービス、代表のシンジです。
子供にとって良くない親のことを「毒親」と言うらしい。ガチャガチャになぞらえて、「親ガチャ」に外れた。などとも言うそうだ。確かに、ひどい親は存在する。私も私の視点に立つと、面倒な親に迷惑をかけられてきたし、これからもそうなることは分かっている。だが、すべて「毒親」と思うのは間違っていると思う。ギャンブルのように、「親ガチャ」に外れたと思うことも間違っていると思う。親にどれ程迷惑をかけられたか?虐待されたかなど、人によって違うだろう。しかし、少なくとも成人したのなら、もうそのような発言はしてはいけないし、思ってもいけないと思う。
親のことを好きになる必要はないし、尊敬する必要もない。嫌いでもいいし、軽蔑したって良い。ただ、成人するまで育ててくれたことには感謝しよう。良い親ではなかったかもしれないけれど、成人するまで生きてこられたことには、感謝しなければならないと思う。
成人したのに、親のことを毒親と思う人は、まずは親の呪縛から逃れよう。それが、自立するということだ。親には子供の頃から、色々と刷り込まれているだろう。
「お前はバカだ」「デブだ」「ブスだ」そう言われ続けていた呪詛(ジュソ)が、子供の心には蓄積される。親に怒られた科目は、嫌いになって不得意になるし、褒められた教科は、好きになって得意になる。それではいけないのだ。本来、親は応援だけをすべきなのだ。しかし、親も人であるいじょう、不完全な生き物だ。出来が悪くて当然だ。そうやって、子供の可能性を潰してきた親とは、成人と共に「おさらば」しよう。そして、自分の心に残った、親の植えた負の種を取り除くことで、自分の人生を開いていくことが出来るのです。
それに気づくのは、人によって分かるまでの時間が違って当然です。40歳になっても60歳になっても、分からない人は多い。そして、親が残した負の遺産を心に残して生きてしまう人が多くいる。
私は父に愛人がいることで、会社にいられなくなったことは残念に思う。私よりも愛人を選んだことも、残念に思う。父のことは嫌いだし、尊敬もしていない。だが、一生の仕事を与えてくれたことには、本当に感謝している。
孫を生まなかった家内のことを認めない母のことは、いまもって許せない。母のことも嫌いだし、尊敬もしていない。しかし、子供の頃の良い思い出も、また同じ母との記憶だ。私がいまこうして生きているのは、母のおかげであることは、間違いのない事実だ。それだけは、本当に感謝している。
「毒親」という言葉を使う人は、その負の遺産があることで、親を責める気持ちが残っているから、「毒親」と言っているのだと思う。もう親の残した負の遺産は忘れて、自分の人生を歩むべきだ。自分の足で立つべきだ。私はそう思う。
親の残した負の遺産を捨て去り、自分の足で立って、自分の人生を開いたとき、自分よりも人として出来ていない親を責める気持ちはなくなる。ただ、良かった時の思い出と、人間力の薄っぺらな哀れな老人がそこにいるだけだ。そんな老人を、あなたは責められるのか?昔に、どれほどひどい仕打ちを受けていても、何者でもないただの哀れな老人を、あなたは責められるのか?
「毒親」は、あなたの心が作った幻想だ。あなたが自分の力で退治しなければならない心の悪魔だ。それでも、あなたは親を「毒親」と言えますか?私の両親は「毒親」ではない。ただ、自分勝手で哀れな、矮小(ワイショウ)な人間だったというだけのことだ。矮小なりに、一生懸命生きてきたのだろうと思えば、それ程責められたことじゃないと思っている。
いつも読んでいただき、ありがとうございます。本日も皆さんにとって良い一日でありますよう、祈っております。
シンジ