「渡航するまで」
おはようございます。
公響サービス、代表のシンジです。
今日は日曜日なので、ビジネスに関係のない私事を書かせていただきます。興味のない方は飛ばしてください。
私の趣味はクラシック音楽です。中学の時に初めてベートーベンのピアノ・ソナタを聞いたときに、演奏家ではなく真っ先に考えたのが、「こんな素晴らしくて複雑な曲を書いたのは誰なんだろう?」ということです。当時はピアノも持っていませんでしたし、楽器の演奏なんて全然できませんでした。でも、幼稚園の頃から興味があり、「ピアノを習いたい」と親にお願いをしたことはあります。「あれは女の子がするものだから」と言った母の本心は、お金の問題だったのだと後で悟りました。
ベートーベンのピアノ・ソナタに魅せられた後、テレビで映画「アマデウス」を見て、モーツァルトに魅了されます。要するに、私は演奏家ではなく、作曲家に憧れたのです。
まったく先の決まっていない真っ白なページに音符を書いていく。自分だけが決められる未来。それは人の人生そのもののようにも思え、まだ先の決まっていない物語を自分で作っていくようなイメージで完全に虜になりました。いまの設計という仕事も相通ずるものがあります。先の決まっていない図面を、完成させるまで脳みその中で構築していく。「無」から何かを創り出すということは、とても難しく、楽しい仕事です。
高校生になると私は親を説得することを諦め、自分で行動を起こし始めました。当時はピアノを不要に思う家庭が増えていたことから、クラス中の女生徒に「いらないピアノない?ただで譲ってくれない?」と聞きまくりました。そしてとうとうある女の子から無料で古いピアノを譲り受けました。いまもそのピアノは実家にあります。結婚してピアノを置けなくなった私は、実家に置いて行きました。いまは母が弾いているようです。いま自宅にあるピアノは、一戸建てを買った時に、義父に買ってもらいました。とても気に入っている、私の一番の宝物です。
最初の曲は、曲としての体を成さず、3曲目位で一応の曲になった。それが1991年のことだった。
私は独学でピアノを弾きました。特にどのような練習をしたわけでもありません。そもそも楽譜も読めませんでしたから。まずは学校の音楽の教科書を隅々まで読み、理解できない部分が無いようにして、ゆっくりだけれど楽譜が読めるようにしました。本屋へ行って音大受験用の楽典を買ってきて、隅々まで勉強をしました。ほとんど学校の授業はさぼって、音楽漬けの毎日でした。私が魅了されたのは、その音楽理論でした。音を出すより、理論的にレンガを積み重ねるように、ひとつの音に対して響く音と、不快な音がなぜあるのか?文法のように例外だらけではなく、例外の極めて少ない理論の完璧さに魅了されたのです。
クラシックでは使用されませんが、ギターなどを行う人が使用するコードと呼ばれる和音のパターンを色々な楽譜を読んでいるうちに見つけることができ、楽譜を覚えるのにとても役立ちました。以来、私はコードを考えながら作曲する技法を採用しています。誰に教わるでもなく、コードのパターンを発見したので、他の人がどのように作曲をしているのかは、私は知らない。逆にコードだけ書いてあれば、クラシック以外の曲も適当に弾ける。ジャズなどを行う人と同じ方法のようだ。
その後、近所のピアノの先生に1年半演奏を習いました。最初から、モーツァルトのピアノ・ソナタを習いました。通常は練習曲から始めるところですが、スタートが遅かった私が作曲をするためにピアノ演奏をしたいことと、練習曲で挫折する人が多いことを考慮してくれる先生で助かりました。そのころは既に自分の曲を20曲ほど書いていたと思います。先生にも何曲か聞かせたことがあります。まあ、幼稚園児が赤ちゃん言葉で、ぼちぼちしゃべりだしたようなものです。ただ、スタートしなければ、いつまでも行きたいところへは行けません。たどたどしくても、始めたことだけは良かったと思います。そのおかげで今はオーケストラの交響曲を書けるようになりましたから。
ピアノが順調にマスターできた私は調子に乗り、なけなしの預金をおろして、ヴァイオリンを購入しました。当然、将来はオーケストラの曲を書くのに、ヴァイオリンの演奏方法を知らなければ書けないからです。下倉楽器で一番安い4万6,000円の楽器を買いました。それでも、弓やケースなどを含めると7万円を超えました。(いまはもっと安いのも、サイレント・ヴァイオリンもある)下倉の店員さんは「先生を紹介しましょうか?」と聞いてくれましたが、ピアノを独学した私は自信に満ちており、「いや、大丈夫です。一人で何とかします」と言ってしまった。
よく、ヴァイオリンは音が出ないと言いますが、私は致命的なミスをします。弦の上に弓をあて、擦っても、擦っても音が出ないのです。「思いのほか難しい楽器だな?」私は1ヵ月悪戦苦闘した末に諦め、下倉楽器へ行きました。「すみませんやっぱり先生を紹介してください。音が全く出ません」と言って楽器を見せると店員さんは私の楽器を見て「君、そりゃそうだよ。マツヤ二塗ってないじゃん」と言ってマツヤニを付けてくれました。その途端、何と簡単に音がでることか!さすがの私もその場で苦笑する以外ありませんでした。ヴァイオリンのことは擦弦楽器(サツゲンガッキ)と言います。弦と弓を擦ることで音が出ます。摩擦がなければ音が出ません。摩擦を強くするためのマツヤニだったんですね。よく音が出ないというのは、「きれいな音が出ない」という意味だったんですね。でも、この楽器は簡単ではないと分かった私は、そのまま先生を紹介してもらうことになりました。私はそこで運命の出会いをするのです。
その教室では、先生が主催するアマチュア・オーケストラを行っていました。当時としては珍しく、私はとても良い経験をさせてもらいました。一人で演奏をしている音が、数十人になると、そしてヴィオラ、チェロ、コントラバスなどが加わると、なぜあんなにも異なる音色になるのか?弦楽器の美しさに夢中になったものです。いまでも、初めて合奏で出した時の響きは忘れられず、心の中に残っています。
そこのオーケストラで私は大事な出会いをしました。同じヴァイオリン教室に通っていた5つ年上の女性で私よりもはるかに上手に演奏をするKさんです。普通のお稽古事では生徒同士が互いに会うことはないですが、オーケストラの練習で顔を合わせることで、他の生徒とのつながりがありました。そのKさんとその後結婚することになろうとは。だって結婚をするのは実に8年後になるのですから。この時はそんな未来が来るとは、正直思ってもみませんでした。
当時の私は作曲に夢中になっており、正直女性にあまり本気になっていなかったこともあります。また、当時私はまだ専門学校へ通う学生で、恋愛よりも男同士で飲み歩く方が楽しい時季でした。Kさんも年下の私には興味を持っていませんでした。ただ、同じ教室の仲間として、他の人と一緒に我が家へ来てヴァイオリンの練習などを行っていただけです。
私はどうしてもオーストリアのウィーンへ行ってみたいと思い、専門学校を卒業後、工場で夜勤などをして欧州への渡航費を貯めることにしました。3交代制の2直に配属になった私は、夕方から夜中までを働き、明け方に家に帰る生活を続けました。
当時は作曲できるのはほとんどピアノ曲でした。しかも自分で弾ける程度がせいぜいです。その殻を打ち破るために、私は渡航したかった。また、日本にいると色々な誘惑に負けて、時間が作れなかったのだ。自分の意志が弱いからそうなるのだが。とにかく自分を追い込む必要があった。
工場の夜勤には色々な人が来る。あきらかに目が薬をしていると思える人は、やはり歯がボロボロだった。若さを謳歌して楽しむために金を稼いでいる人。借金が多くて昼間働いた後に夜勤に来ている人。映画監督になろうとお金を貯めている人。なぜか?モンゴルで日本そば屋を始める資金を集めている人。何の目的もなくただ働いている人。借金で若くしてブラックリストに載っているらしい人。地方から東京に出てきたが、他に時給の良い仕事がなかった人。家庭の事情が悪い人。チャラく遊んでいるだけの人。中国人数人もいた。夜勤は私のような派遣の若者が中心だったが、なかには退職を促すため夜勤に回されたおじさんもいた。それでもおじさんたちは家族のために会社にしがみついていた。それは正しい選択だろう。すべて男だったこと以外は、年齢も目的もバラバラで、良い経験をした。
休憩時間には、将棋をしたり、色々な話をする者。話に乗らない人。あの頃は、休憩室兼ロッカールームでは、タバコの煙でかなりけむかったのではないか?当時私も喫煙をしていたので、全く気にならなかった。分煙などなく、時代の違いを感じる。
私は比較的年齢が下の方だったため、先輩たちに可愛がられ、一緒に遊びに行くことなどもあった。と言っても明け方まで開いている飲み屋かラーメン屋だ。当時は平気で飲酒運転で帰っていた。いまにして思うと、恐ろしい。
そんな中で、次第に後輩も出来てくると、今度は後輩を可愛がり、飲みに連れて行ったりするようになった。そこで私は、実体験で大きな失敗をすることになる。
渡航費用を貯めていたので、それなりにまとまった金額を持っていた。そのため、交通事故を起こした、という後輩に8万円を貸したことがある。普段よくおごっていたので、私に金があると思ったのだろう。その時はとても心配したし、小さくなって頭を下げてくる後輩を気づかっていただけだった。しばらくして、その後輩は会社に来なくなった。携帯電話の無い時代だ、アパートに電話しても電話に出なく、消え失せてしまった。こうして私はお金と友を失った。たった8万円のことで、彼は一生私から逃げ続けるのだと思うと、哀れでならない。
シェークスピアのハムレットに、「金を貸すと、同時に友を失う。金を借りると、一生借り続けることになる。金を恵むと、憎まれる。金を恵まれると、憎くなる」と書いてあったが、まだ若かった私には実際に体験するまで理解できないことだった。良い教訓となった。その後、私は1996年11月3日にようやくウィーンの土を踏むことになる。
いつも読んでいただき、ありがとうございます。本日も皆さんにとって良い一日でありますよう、祈っております。
シンジ