「時間」
おはようございます。
公響サービス、代表のシンジです。
1日24時間。それは3次元におけるすべての物質に平等に与えられている。どんなに権力があろうとも、どんなに金があろうとも、1日は24時間で変わらない。必ず来る「死」と同様に、誰にでも平等だ。
だが、人の一生という時間には個人差がある。1日24時間を何回繰り返せるかは、バラバラだ。多ければ良いという話しではなく、私達に与えられている時間が何時間なのかは、誰にも分らない。
良い時は、長く続いて欲しいともうが、悪い時は、早く過ぎ去って欲しい。そう思うのが人情だ。しかし、時間は早くなることもなければ、遅くなることもないのである。
お金さえあれば、大抵のことはできる。と思う人がいるが、時間を買うことはできない。だが、時間をお金で買うようにして、時間を取られる仕事を、人に依頼するという方法はある。要は、自分の24時間をどれだけ無駄なく使えるか?という部分で大きな差がつくことになる。
毎朝、惰眠をむさぼることなく早朝に起きること。スマホゲームやユーチューブに興じることなく、分刻みで予定を入れていくこともできる。
では、時間を有効利用することだけが人生か?というと、そうじゃない。人は結構無駄な時間を過ごしていても、幸せに生きている人もいる。時間に追われて、必死に生きているのに、不幸な人もいる。では、時間に対して、人はどう向き合うべきなのか?
若い時は時間が余るものだ。時間を潰すという、もったいない言葉を良く使っていたものだ。ひまな時はパチンコへ行き、煙を吐き。夜になったら麻雀に興じて、酒を飲んで時間を潰していた。労働生産性はプラスどころか、大いにマイナスだったころもある。
だが逆に、学校というシステムに組み込まれて、レールに乗った時間や、システムに沿った勤勉を行っていたら、有意義な時間になったろうか?と思うと、そうでもない。レールから外れるのが怖い、というだけの理由でレールにしがみつくことに時間を割いていた人達が、必ずしも幸せになれているわけじゃない。
レールに沿った時間の使い方や、絶対に必要でもない遊びに興じるレールから外れた時間の使い方とも距離を置き、自分だけの自由な時間を持つことは、とても大事だと思っている。人は、一人ボーっとする時間がある方が良いと思っている。出来れば、後戻りできないところ、外国などへ行って住んでしまうのが一番お勧めだ。そうすれば、日本の大人が敷いたレールからも、友人からの誘惑も無くなり、自分に真剣に向きあう時間が持てる。
そんな環境下では、金はないし、娯楽もないが、とにかく時間だけはある。そして、寂しいから色々な事を考える。そして考えたことを書くしかなくなる。私は本を読んだり、日記を書いたり、山を散歩したりしながら、毎日音符を書いていた。その音符の模様を見ながら、毎日いろいろな思考をして過ごしていた。夢魔に取りつかれたかのように。
現在の私の思考を形成しているのは、ほぼそのころに素地が出来たと思っている。そしてそれが、「心の軸」だと気づいたとき、多くの時間を無駄にしたかのような、私の旅は、大いなる意味があったことに気づき、大きな自信となったのだ。
私にとって「時間」とは、3次元による空間認識の次に来る4次元であり、現在の集合体である。過去にとってその1点の時間は、すなわち現在であり、未来におけるその1点の時間は、すなわち現在である。つまり、過去や未来という時間の概念は存在せず、あるのは常に現在であり、現在の場所を移動するように、現在の時間を移動すると考えている。だから、現在をなめるなかれ、現在に集中できない者は、時間を支配できないと思っている。
過去に囚われ後悔にさいなまれている者は、時間に支配されている者だ。将来を不安に思う者は、時間に支配されている者だ。現在の一挙手一投足の労を惜しまず、すぐ行動できる者が、4次元を感じることが出来ると思っている。それが例え遊びであっても、それに集中するってことだ。
「時間」は節約するものでも、浪費するものでもない。時間は自分と共に実は無限に存在している。3次元における時間の概念が24時間なだけだ。時間はその瞬間のアドレスに過ぎない。そう思うと、無駄な時間なんて、ありはしないことが分かるのです。
いつも読んでいただき、ありがとうございます。本日も皆さんにとって良い一日でありますよう、祈っております。
シンジ