「嫌い」
おはようございます。
公響サービス、代表のシンジです。
嫌いという感情は、これも様々なものに当てはまる。だが、ここは昨日に引き続き、人に関する「嫌い」に限定しようと思う。
嫌いな人は、自分の感覚とずれる人だろうと思う。相手が笑っているのに、自分はちっとも面白くない。相手の話している内容がちっとも頭に入ってこない。一緒にいても面倒くさい。面白くない。そんな人のことは、自然と嫌いになるものだ。
昔私の先輩にこういう人がいた。いつも軽快に話をして、面白い人なのだが、自分を持ち上げるのに、必ず周りの誰か(特に後輩)の揚げ足を取らねば、自分を偉く見せられない人がいた。大人になるにつれ、その先輩の周りから人が消えたのは、当然の結末だ。そして、私も消えたのだから。
個人じゃない場合もある。高校で陸上部をしていた頃、細かい理由は知らないが、私は全体的に嫌われていた。それは感じるが、理由ははっきりしない。個人的に私を避けている人が多かったことから察することは出来たが、明確な理由などは聞いていない。部活を始めるのが遅かったので、既に出来ているコミュニティーに異分子が入ったようなものだったのだろう。まあ人によっては、いじめと呼ぶのだろうが、私はそんな深刻に思ったことはない。その時は走りたかったから、走っていただけだ。エネルギーが余っていたんだな。並行してクラスの行事もやっていたので、練習を休みがちだったのも、上手くいかなかった原因なのだろう。別に嫌われたところでハナクソほども気にはならなかった。
だが、友達のできない環境にいつまでもいるのは当然苦痛だ。私は早々に帰宅部になり、友人たちと我が家に溜まって、トランプやマージャン、パチンコに興じることで、エネルギー発散をした。いまでも当時の陸上部の連中は一人も知らないし、知りたくもない。お互い忘れているだろう。変な人たちだったなー。と思うだけだ。どうも先輩が変な人で、周りはその人におもねっていたようだ。男も女もね。
人が人を嫌うのは、あまり大きな理由がないことが多い。何となく合わない。何となく嫌い。何か不潔。何かムカつく。はっきりとした明確な理由もなく、人は勝手に人を嫌う。そして、それに向き合おうとしない。それがきっと本能なのだろう。だが、その本能に任せていて大丈夫なのだろうか?
本能的に人を嫌いになるのは、生存競争の名残だと思う。であるならば、既に資本主義システムでつながっている人どうしが、嫌いあう理由はすでにないと思う。ここは、本能を殺して、思考で付き合っていくべきだと思う。でも、どうしても合わせられない人はいるだろう。その場合は、距離を取る以外に方法はない。
人は誰だって、好きな人間ばかりじゃありません。しかし、好き嫌いで人を切り捨てることはしないでください。経営者の権力を使って、嫌いな人にプレッシャーを与えて、自主退社させようとする経営者もいます。実際、その従業員が訴えてこないから、事なきを得ているだけ。という会社は多くあると思います。
ですが、あなたはその嫌いな人のどこが嫌いなのでしょうか?文章にしてみて下さい。なかなか文章には出来ないと思います。それに、文章化出来たとしたら、それを読んでどう思われますか?そこに書かれた意地の悪い言葉は、本当にその人に当てはまるのでしょうか?確かに、欠点や悪習慣などあてはまる部分はあるでしょう。
しかし、それはそんなに責められるようなことでしょうか?そんなご自身も人を不快な思いにしている習慣に気づいていないこともあるのではないでしょうか?
それに、文章化するとあなたの怒りは不思議と文字に溶け出し、熱さを忘れてはいないでしょうか?とても不思議なのですが、あれほど許せないと思っていた相手のことを、文章化することで怒りが溶けて行ってしまうものなのです。是非、一度試してみて下さい。最初は言語化するのも難しいでしょうが、それを行うことで、相手への理解が深まります。そこまで行けば、あとは一度話を聞いてみようとすれば、良いのです。回数を重ねると、意外とその嫌いだった相手が、近しい存在になってしまうものです。昨日の敵は今日の友です。
だから、「嫌い」って感情を表に出す人は、少々子供じみていると思う。自分で分別を付けて、制御できることなのです。それが出来ない人は「嫌い」だね。
いつも読んでいただき、ありがとうございます。本日も皆さんにとって良い一日でありますよう、祈っております。
シンジ