「弱者」

第1,229回
おはようございます。
公響サービス、代表のシンジです。

 五体満足に生まれ、健康だけが取り柄の私が書くのは、極めて僭越だと思う。しかし、身体障碍者の父を持ち、自分の経験で感じままを書いてみたい。

 よく障害のある人たちを、社会的には「弱者」という。確かに、足がない者と健常者を比較はできない。指が1本なければピアノは健常者と同じには弾けない。しかし、まったく弾けないわけではないし、生きるに困ることはあっても、詰まることはないはずだ。
 目が見えなくても、耳が聞こえなくても、かなり困ることはあっても、生きるに詰まることはない。確かに多くの人の助けが必要だが、生きていく術はいくらでもある。
 障害を持つ人などは「弱者」であることに甘え、それを武器にしてしまっていないだろうか?

 以前の職場に、障碍者の人がいた。会社の規模的に50人を超えると、障碍者雇用が義務付けられる。障碍者を雇用しないと、ペナルティーの罰金が発生することから、その障碍者は、会社の命令に逆らい、問題ばかり起こしていた。そしていつも最後に捨て台詞を言うのだ。「オレは障碍者だからな!会社はオレをクビにはできないんだからな!」これを言われると、上司も周りの者も何も言えなくなり、周り全体がドン引きしていたのを覚えています。その障碍者?ちょっと足をびっこしているだけで、他に悪いところなんて何もない。あえて言えば、性格と頭が悪かったと思う。当然、私がオーストリアへ行っている間に、買収されたその会社に、その障碍者の居場所はなく、帰国後会ったことはない。いまどうしているかも、想像するまでもないと思っている。

 私の父も身体障碍者だ。私が1歳の時に交通事故で、右足が一生曲がらなくなっており、常にステッキをついて歩いている。だから、結構目立つのだ。どこへ行っても、ステッキをついて片足を伸ばして歩いている人を忘れる人はいない。
 逆に父は人の顔と名前を忘れやすい方なので、客先へ行くと挨拶されるが、自分が思い出せなく、その場を離れてからいつも私に聞く。「あの人誰だっけ?」いい意味で目立つというのは良いことかもしれない。
 父の場合、一生治らないので仕方がないが、障碍者手帳は最強だ。どこに車を止めても、駐禁とられることはない。警察も手を出せないのだ。子供のころ、正月の高尾山の混雑時に、モノレール乗り場の横に車を置いて行ってしまったのには、正直驚いた。周りの人も目を丸くしていたのを、子供ながらに覚えている。障碍者手帳の乱用ですね。

 社会的な「弱者」を助けることは大事だろう。しかし、過剰に過保護になっていないだろうか?その障碍により、本当に必要なことを助けてもらっているのか?過剰なことをしていないのか?私の見てきた例では、過剰と思えることの方が多い。
 ともすると「弱者」の方が強い立場になっているように思う。何でもかんでも保護すればいいわけではない。そうすると、その「弱者」はその既得権益にしがみつくことになるのだから。
「弱者」とは誰のことなのか?よく考えた方が良いと思う。定義を取り違えている人があまりに多く感じる。

 いつも読んでいただき、ありがとうございます。本日も皆さんにとって良い一日でありますよう、祈っております。

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シンジ

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