「武士道」
おはようございます。
公響サービス、代表のシンジです。
新渡戸稲造の書いた「武士道」は、1899年アメリカで英文にて発表されたものです。当時のルーズベルト大統領が大変感動し、大量に購入して家族や友人に配り歩いたそうです。新渡戸稲造が本書を書くきっかけになったのは、ベルギーへ行った時に有名な宗教教育学者から、「日本では宗教教育をいつ行っているのか?」と聞かれたことがきっかけでした。新渡戸が行っていないことを答えると、宗教学者は驚いて「日本では道徳教育をしていないのですか?それでは正邪善悪をどうやって決めているのですか?」そう質問された新渡戸は答えることができませんでした。そこで、行動に出るところが偉人だと思います。日本人の正邪善悪はどこにあるのだろう?新渡戸はそれを考え、執筆をしました。
明治当時の日本は近代国家へ急速に発展していましたが、外国人と接する際に宗教観、つまりはその人が持つ正邪善悪はどこを基準にしているのか?ということを問われていました。要するに日本人が信用できるかどうか?を問われているのです。それを言語化しなければ、今後の日本への信用に大きな足かせになると、新渡戸は気づいたのです。
私も初めて欧州に渡航した際、ウィーン市が主催している無料の語学学校で様々な国の人と知り合った。日本人は有料の語学学校へ行っている人が多く、日本人は私一人だった。1990年代当時はソビエト崩壊により、東欧から職を求めて多くの移住者がいた。また、ユーゴスラビアの内戦もあって、永世中立国のオーストリアには多くの難民が逃れて来ていた。そのため多くの民族が入り乱れていた。
イギリス人、デンマーク人、イタリア人、フランス人、スペイン人、ブラジル人、ハンガリー人、ルーマニア人、ポーランド人、イラン人、インド人、トルコ人、中国人、韓国人、マレーシア人、ナイジェリア人、そして日本人の私だ。
ある時ルーマニア人の女の子に「シンジの神は何か?」と聞かれた。信仰心など持っていない私は、「私の神は、私だ!」と言って笑った。ところが彼女は怪訝な顔をして、二度と私と口をきこうとしなかった。当時は変な子だと思っていたが、新渡戸稲造と同じ状況にあったのだと思う。
日本人は宗教と聞くと、特別な信仰に熱中している人を思い浮かべてしまいます。ところが、欧米では宗教とは、「道徳」「倫理」を表すものだったのです。「私の神は、私だ!」と言ったということは、「自己中心的で人のことなど構わない人です」と宣言してしまったようなものです。私が嫌われたのは、今にしてみると納得だ。教養の無い私が新渡戸稲造の「武士道」を読むのは、家内の勧めで10年以上経ってからであり、当時の私の失敗はそれまで気づくことができなかった。
では日本の「武士道」とはどのようなものでしょうか?日本人はゴミを道端に捨てず、むしろ自分のゴミ以外も拾って持ち帰る者がいる。列に並ぶときに、割り込みをする人はいません。トイレの個室など、並んでいる順に順次空いた場所に進むよう全員が協力しますが、日本以外の海外へ行くと、自分で決めた個室の前に立つだけで、先に並んでいても自分の前の個室が開かなければ「運が悪かった」で終わってしまう、非効率な並び方が一般的で、私も驚いた。しかも、20数年前は電車に乗る時も並ぶ習慣はなく、日本人の道徳心のレベルの高さを思い知ったのを覚えている。では、その日本人の「武士道」を、簡単にご紹介します。新渡戸は武士道を7つの「徳」に分類しました。「義」「勇」「仁」「礼」「誠」「名誉」「忠義」です。
【義】とは、「人として正しい道」を示しています。損得勘定で、自分さえ良ければ、という気持ちに負けそうなときに、他人のことを考え、義理を優先すべきではないか?と自分に問う精神です。「敵に塩を送る」で有名な義を重んじる上杉謙信のエピソードが分かりやいだろう。経営的には、自分の正しいと信じることを、ためらわずに決断することだ。
【勇】とは、すなわち勇気のことだ。孔子は論語の中で「義を見てせざるは、勇無きなり」と言っています。正しいことを見て、行動しないものは勇気がない。と言っています。経営的には、現実と向き合うことを勇気という。従業員の不満やハラスメント、支払いや税金、お客様の要望。それらと正面から向き合うことを「勇気」という。
【仁】とは、思いやりや慈しみの心です。「武士の情け」というわけだ。徳の中では最も難しいとされる「仁」は、人の上に立つ者なら具えていなければならない徳だ。経営的には、まずは部下の言葉を傾聴することから始めよう。
【礼】とは、日本は古来よりのお辞儀の仕方、歩き方の所作なども「礼」として、正しい行為を人の為に行う「義」と「仁」を行動で表すのが「礼」である。茶道なども良い例だ。
欧米人はプレゼントを渡すときに「君にぴったりな素晴らしい物を見つけたんだぜ!」と言って渡します。相手に良い物を差し上げなければ、相手を侮辱することになる。と考えます。逆に日本人は「つまらないものですが」と言って、あなたのような素晴らしい人には、つまらない物ですが、私の気持ちと思って納めて下さい。と考える違いがあります。
【誠】とは、誠実であること。ウソをつかぬことです。「武士に二言はない」ということだ。そのため、証文(契約書)なども作らないという習慣が、いまも社長どうしの口約束として残っていると思う。
モンテスキューは日本の士農工商の身分制度は、権力者に富を集中させない、素晴らしい政策だといっている。
経営的には、透明な経営が必要だということです。決算書を見せられない、ということは不正をしている。自分の報酬も隠したいということは、報酬に見合った仕事をしていない。ということになる。日野市の経営者は、新選組の「誠」に恥じぬよう、すべてを白日の下にさらせる透明な経営を心がけたいところだ。
【名誉】とは、他人からの評価とも取れますが、新渡戸は「個人個人が自分の役割をまっとうすることから生まれるもの」といっています。つまりは「恥」の文化だ。「対面を汚すな」「お家の名に傷をつけるな」ということです。武家の世では、命よりも名誉を重んじていました。お金よりも名誉を重んじる武士の家計では、妻が内職をして家計を支えていました。これが「内助の功」の始まりです。女性は、家事一切を行いながら、内職までして、子育てもして、奴隷のように働いてきたってことだ。
経営的には、会社名というブランドで仕事が出来ていることを忘れてはならない。会社を辞めれば、いままで付き合いのあったお客様には無視をされます。その評価、名誉は自分だけの手柄じゃないってことですね。
【忠義】とは、主君への忠誠だ。いまの世からすると古い考えと思うかもしれない。欧米では、個人主義が台頭してからは、主君と個人は別々の利害がることが認められているが、武家においては、個人も家族もすべて主君と同じ利害を一致させてきた。それが、現代でも同調圧力として残っているのだろう。だが、その一体の利害関係は上手く行けば、組織上最も強い組織にもなるという部分も捨てきれない。
だが、武家時代も家臣は主君の奴隷であったわけではない。自分の思いを伝えるために、命をかけて主君に訴えるという方法を行ってきたことも、「武士道」の良さだろう。
経営的には、個々人が会社にいる理由は様々で構わない。だが、仕事をするやり方や、仕組みについては同じ方向を向かなければならない。それが現代版の「忠義」だと思う。上司にゴマすりをすることは、かえって軽蔑されてしまうように、上司の間違いをきちんと指摘できる関係性こそが、「忠義」なのではなかろうか。上司はその「忠義」を受け取る度量もなければならない。ということだ。
さて、新渡戸稲造の「武士道」を読んできたわけですが、思い出すと恥ずかしいことばかりです。日本人の道徳心を決定づけている「武士道」。外国人に説明できるよう、その道を極めたいものですね。
いつも読んでいただき、ありがとうございます。本日も皆さんにとって良い一日でありますよう、祈っております。
シンジ