「学ぶとは」
おはようございます。
公響サービス、代表のシンジです。
Facebookで問題提起してくれた人がいるので、私の考えを書こうと思う。私は社長をしているが、学歴は高卒だ。大学へは行っていない。行きたいと思ったのは音大だけだったが、学費を調べてすぐに諦めた。だから受験すらしていない。まあ、受験対策などしていなかったので、受験しても受からなかったと思う。周りに音大に行く人もいなく、情報も全くない環境だったこともある。当然、当時はインターネットもない。でも、まったく後悔はしていない。
当時は、憧れのウィーンに行くんだ!と、単純に考えていた。その後のことなど1mmも考えていなかった。まったくの若気の至りだ。実際、生活で精いっぱいで、学校になど行っていない。唯一、大家さんに探してもらった人で、引退されているコヌラート・エルネスト先生に、ドイツ語で多少教わった。知識というより、エルネスト先生が連れて行ってくれる教会で、先生が弾くオルガンを、譜めくりをしながら見て、聴いているのが一番勉強になった。だって、その楽譜、メロディーしか書いていないんですよ!即興で伴奏をつけるポケットの多さに、舌を巻きつつ一つずつ覚えて、書き留めていった。他人から学んだ作曲技法は、これだけだ。あとは音大受験用の楽典1冊と大先輩たちの楽譜から学んだ。
学ぶというと、学校で学ぶものと思いがちだが、それだけじゃない。学生になると、学校へ行くこと、卒業することが目的になってしまう。その先の目的を見失ってしまう。
よく一生勉強とは言うけれど、自分の至らなさに恥じ入りながら、学ぶ人もいるし、自分の探求心を満足させるために学ぶ人もいる。学ぶとは、とても広い意味なのだと思う。決して「学ぶ=学歴」とはならないと思っている。
学歴で職種や初任給に変化があるのは当然だろう。それは、その学校で何を学んだかではなく、それだけの教養を身に着けたであろうという期待値でしかない。実際に大卒で採用してみたのに、全然使えない者もいる。当然だ、社会人としては新人なのだから、仕事ができなくて当然だろう。だから、学び続ける必要がある。育て続ける義務がある。
我が社の場合は、入社試験で初任給を決める。筆記選択試験、記述式試験、面接2回だ。筆記試験は、専門的な内容は10%ほどしかない。一般教養を主にしている。そこに学歴の壁はない。
以前の後輩で、中卒の者がいた。当然、学歴としては最低だ。だが、仕事は一番良くできた。頭の使い方の要領が良いのだ。肝心要となる部分を見抜くのが誰よりも早く、必ずそこを押さえるのだ。枝葉末節部分は多少粗くても、だれも問題視しない。それは、いかなる職業にも共通することだと思う。だから、私は学歴にはまったく思い入れはない。当然、社長が低学歴なのに、入社してくる者に高学歴を求められないという部分も、多少ある。
日本よりも欧米の方が学歴社会だ。学歴で生涯年収がほぼ決まる。ということは、親に大学を卒業させるだけの財力がなければ、その時点でアウトだ。だから、スラムに住む者の子供は、また同じスラムに住む。貧富の格差は広がることはあっても、埋まることはない。現代に奴隷はいないことになっているが、現在の奴隷はそういった、学ぶ機会を奪われた子供達だと思う。
私は、「学ぶとは」目的を達成させるための手段だと思う。あなたが自分の人生において、何をしたいのか?それを達成させるために行うことが、学ぶことだと思う。
あなたの生きる道は、どこへ向かっているのか?それに伴って、学ぶことがついてくると、私は思っています。そして、学ぶことは低姿勢になるということです。頭を垂れ続ければ、教養がついてきます。
他人への思いやり、他人との接し方、言葉づかい、身だしなみ。そういった部分に、教養がにじみ出ます。
そして根気よく学び続ける者は、自分の進むべき道を確立し、心の軸が太く育ちます。その心の軸さえしっかりしていれば、この奇跡の地球で生き続ける元気が育ち、勇気をもって自分の足で、歩いていけると思っています。良い人生を送るには、まずは「学ぶこと」から始まるのだと思います。
いつも読んでいただき、ありがとうございます。本日も皆さんにとって良い一日でありますよう、祈っております。
シンジ