「論破」
おはようございます。
公響サービス、代表のシンジです。今日で926日目です。
人は、自分の考えこそ正しく、自分が正義だと思うものだ。だから、相手を論破しようと、口角泡を飛ばして、自分の意見を主張する。だが、その先には良い景色は決してないのだ。論破された者は相手を憎むようになり、崩れた関係は元には戻らない。
米国大統領だったリンカーンは、若いころ人を論破したり、批判した文書を書くのが好きだったそうだ。ある人への痛烈な批判を新聞に投稿し、それを読んだ人達が大笑いをしているのを楽しんでいたそうだ。あまり良い性格ではないですね。
ある日、いつものように、ある人への痛烈な批判を新聞に投稿したそうだ。それに激怒した相手は、投稿者がリンカーンであることを突き止め、決闘を申し込んできた。リンカーンが何度断っても、もはや避けられないところまで事態が切迫し、いよいよ決闘が開始されるという段階で、双方の代理人の友人が決闘を預かってくれたので、決闘は行われなかったそうだ。しかし、例え正しい真実であっても、相手を追い詰めると恐ろしいということを知ったリンカーンは、それ以来心を改めたそうだ。
失敗をした部下に対しても、不満をしたためた手紙を書くが、投函はしなかった。その証拠に、死後に書類の中から、そういう手紙が出てきたそうだ。きっと、それを送れば、リンカーンは気持ちが晴れるだろう。しかし、それをもらった相手は、落胆し、または怒り、または悲しみ、リンカーンのもとを離れて行っただろう。リンカーンはそう思ったのだろう。
私達は、時に相手を「論破」してやり込めてやりたい衝動に駆られることがある。しかし、それをしたことで、得られるのは、つかの間の自分だけの満足だ。自分の方が偉い人間かのように錯覚をするだけなのだ。
自分の承認欲求を満足させるということは、他人の承認欲求を打ち砕くということになる。それをされた者は、ある者は去り、ある者は激怒してあなたを攻撃してくるだろう。
その錯覚を得るために、失うものがどれ程大きいことか?たとえ過ちを犯したとしても、次の瞬間から二度と同じ過ちを行わないよう、肝に銘じればよいのだ。
相手を「論破」するということは、何も得ることはなく、失うだけということを。相手を認め、自分を磨くことの方が、どれだけ大事なことかということを。
いつも読んでいただき、ありがとうございます。本日も皆さんにとって良い一日でありますよう、祈っております。
シンジ