「歴史にのこる」

おはようございます。
公響サービス、代表のシンジです。

 歴史に名を遺す人がいる。偉業を成し遂げたり、抜きん出たものを持ったりした人達だ。場合によっては、犯罪者として遺る場合もある。では、どこからが歴史となる境界線なのだろうか?
 それは、その人物が死んだ時だ。偉業を成し遂げた後に死んだら、歴史になるのだ。ノーベル賞を取っても、オリンピックの金メダルを取っても、生きているうちは、「歴史」にはならず、辛い現世を生き続けなければならない。だから、自分でそれを知ることはないのだ。

 また、歴史になると「時代」が動くこともある。コペルニクスは地動説をとなえたが、殺されてしまった。ガリレオは地動説を証明したから生き残ったのではなく、天動説を譲らなかった司教が死んで時代が動いたから、生き残ったのではなかろうか?
 モーツァルトは生前、生活に困窮して亡くなった。歴史になってから、彼の曲は飛ぶように売れた。彼をおとしいれてきた、宮廷の貴族たちが、死人を批判できなくなったからだ。だから、民衆は自主的に好きな音楽を楽しめるようになった。そしてフランス革命から、民衆とベートーヴェンの時代が来るのだ。個性の尊重の時代の始まりともいえる。
 幕末、維新を起こした者たちにとっては、日本国民の共通の敵が必要だった。会津藩、米沢藩、庄内藩などが貧乏くじを引かされたのだが、新選組が全滅したことで、国民どうしの戦の時代は終わった。新政府に「勝ち戦」という「歴史」が生まれたからだ。

 儒学者の佐藤一斎(イッサイ)の「言志四禄」には、「少年時代に学んでおけば、壮年になってもそれが役立ち、何事かを成し遂げられる。壮年期に学んでおけば、老人になってから気力が衰えることはない。老年期になってからもなお学ぶことが出来れば、世の中の役に立って、死んだ後もその名は残る」とある。いついかなる時も、学び続ける。学びに終わりはなく、死ぬまで続ける。それが「歴史にのこる」結果につながるのだろう。

 いつも読んでいただき、ありがとうございます。本日も皆さんにとって良い一日でありますよう、祈っております。

シンジ

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