「正義」
おはようございます。
公響サービス、代表のシンジです。
子供の頃は「正義」を定義するのは簡単でした。戦隊ヒーローやアニメの中で、街を壊し人々を苦しめる者が邪悪な者で、それを退治するヒーローが正義の味方でした。
ですが、大人になると「正義」の定義は曖昧になります。自分の思う正義が、他の人の正義と一致しないことは、良くあることです。そして悲しい思いをする人も多くいます。今回は、「正義」とは何のことなのか?少々面倒な私の思考にお付き合い頂ければと思います。
正義は哲学的には「平等」「自由」「宗教」の3つに分類できるそうです。「功利主義」「自由主義」「倫理主義」です。
① 功利主義・・・最大多数の最大幸福を求める。多数決という、少数派への弾圧主義。最終的に幸福を求める大多数の人がこの主義です。
② 自由主義・・・個人の自由を最も重視する。しかし、困っている人を助けない。自己中心的な考えにもなる。幸福よりも自由を求める。
③ 倫理主義・・・自分の良心に従うという極めて曖昧で、個人差が出る主義。
正義を測るうえで、トロッコ問題という議論があります。もしも、暴走したトロッコが走っており、その先に5人の人がいて、あなたが持っているポイントを切り替えると、トロッコは道を変更し、その先にいる1人を殺すことになる。あなたが何もしなければ5人が死に、ポイント切り替えをすれば1人が死ぬことは確実だ。しかもあなたには迷う時間的余裕はない。この時あなたなら、どうするのか?
① 功利主義のように、最大人数の最大幸福を目指す場合、トロッコ問題では5人を助けて1人を見殺しにするのだろうと思う。
② 自由主義者なら、どちらを選択してもそれはあなたの自由。どちらも正解だ、好きにしろ!と答えるでしょう。
③ 倫理主義者はなんと、自分の家族や愛する者がいるほうを見殺しにするか、自らの命を投げ打ってトロッコを止める!と答えるのです。
④ そして、正義不要論者は、そんなの考えても無駄!答えなんてない!といって問題に正面から向き合うことを避けてしまい、実際に選択の余地がないような窮地に立たされたときに、自己を守ること以外考えない。つまり、トロッコを見なかったことにして、その場を立ち去るという選択をします。
当然ここに答えはありませんし、正解もありません。そこに正義はありませんし、どれもすべて正義です。自分ならどうするかを思考することにこそ、大きな意味があります。
こう見てみると、果たして「正義」とは一体なんなのでしょうか?正義などないのでしょうか?その正体をもう少し考えてみたいと思います。
子供の頃は「正義」を定義するのは簡単でした。戦隊ヒーローやアニメの中で、街を壊し人々を苦しめる者や邪悪な者で、それを退治するヒーローが正義の味方でした。また、こうもいえることでした。神様が行なうことはすべて「善い」ことで正義です。悪魔が行なうことはすべて「悪い」ことで不正義でした。
しかし、歳を重ねるほどにその正体がわからなくなっていきます。曖昧でぼやけた存在となってしまいます。子供の頃の理論では、神=正義だったのですが、大人になると正義を行なっている者が神ではないことも、誰に対しても絶対的な正義や神が存在しないことも知ってしまいます。では、正義とは一体なんなのでしょうか?
たいていの人は、努力は報われる。正しいことをしていれば、神様は見てくれている。子供の頃はそうやって教わってきたのに、現実がそうはならないことを、大人になって知ります。そんな幻想は現実的じゃないことを知る。悪いやつは、どこまでも甘い汁を吸っているのに、自分のような普通のサラリーマンにおいしい話は転がっていないと知る。リストラされないかビクビクしながら、嫌いな上司に頭を下げ、お客様にいびられて。そんな苦しいだけの人生が続くことを知り、未来を諦めて、希望を持てない自分をごまかす最も良い矛先が、報道で叩かれている人を、一緒になって徹底的に叩くこと。SNSで叩かれている人を一緒になって叩くこと。推定有罪の人を、自分に裁く権利もないのに、ネットを使って一緒に石を投げるのです。それを悪いことだと気づいても、見て見ぬふりをして。
「だって、こいつは悪いことをしたじゃないか!これが正義だ!」「だって、みんなやっていることじゃないか!」と自己正当化をして。
それが「正義の正体」なのでしょうか?そして、このような怒りを外に発散することで、人々は心の安定を保っている、いわばガス抜きとなっている部分があることは否めません。しかし、そんなものは本当に必要なのでしょうか?人は他人を誹謗中傷しないと生きていけないのでしょうか?
私は、人に「怒る」という感情があるのは、それを抑えるためにあるのだと思います。「怒る」ことは、いともたやすい行為だが、それを抑えることは非常に苦労をします。人が「体」という拘束具を付けられた囚人であるならば、「心」も「感情」という拘束具を付けられているのかもしれない。心を整えるには、感情を抑える必要があるのもうなずけます。
会社では上司が「正義」を振りかざしますが、表面上は取り繕い、腹の底ではそんな正義を信じていない。自分こそが正義だと思うようになります。そして無性に、知らない他人に腹を立てるようになります。
「あいつ気にくわねー!」「こいつムカツク!」「何だこの運転は!ヘタクソ!」「偉そうなこと書いてんじゃねーよ!」「こいつウザイ!」
それらは、全て自分が正しく、相手が間違っていると思っているから湧き上がる怒りではないでしょうか?ところが、怒りの矛先になっている本人は、自分が怒られていることに気づかない。怒りをぶつけられて初めて気がつくのです。だって、その人にとっては、自分の行動が正義だからです。人の正義など知ったことではないのです。お互いを知らない、無知に基づく「正義」が、人を「怒り」に駆り立てているのではないでしょうか?
人の争いの歴史は、すべて下らない正義の行き違いではないでしょうか?人は争いを好む生き物だと言われますが、私は「人は自分の正義を振りかざす生き物」なのだと思います。結果として、争いが絶えなくなっているのであり、争うことが目的ではないと思います。自分の正義を承認して欲しい、自己承認欲求を抑えられない生き物だということです。
「そこがお前の居場所だ」「お前は正しい」「あなたは素晴らしい」それを求めてやまないのが人なのではないでしょうか?そして、残念ながらそれが正義の正体ではないでしょうか?私自身も、これをお読みになった人に「確かにそうだな」と思ってもらいたい、と思っている自分がいる。「いいね」をもらいたいと思う自分がいるのです。
つまり、自分の中の神は、自分にとって最も都合のよいものであり、その自分の正義(神)を認めて欲しい。そんな人のエゴが正義の正体だと思えるのです。ですから、自分以外の他人を否定しようと、必死に怒りを外に発散しているのです。つまり「正義」を言い換えると「自己証明」とも言えるのです。自分の存在を証明する軸となるものが、その人の「正義」なのです。 普通、自分の正義(存在)を他者より下に置くことは出来ません。ですから、自分の存在を確保するために、他人の正義を否定するのです。それの矛先は、直接的に知らない人達に向けて強く攻撃されます。「あいつの正義(存在)は認めない!オレの正義(存在)を認めろ!」と言わんばかりに。
では、その正義の正体に対して、私達はどのように生きて行けば良いのでしょうか?不毛な正義を振りかざさずに生きて行く術はあるのでしょうか?それはまたの機会に語らせて頂きます。
※本稿は2020年4月に書き上げた「正義について」より抜粋です。
いつも読んでいただき、ありがとうございます。本日も皆さんにとって良い一日でありますよう、祈っております。
シンジ