見出し画像

コードから『起業』へ

はじめに

こんにちは、コーディング試験サービスを提供している、株式会社ハイヤールー代表の葛岡(@kkosukeee)です。我々は”日本をもう一度、『モノづくり』で一番に”というミッションを掲げている設立4年弱のスタートアップです。

設立してもう少しで4年が経つスタートアップですが、起業した背景をこれまで執筆していなかったので、改めて会社のフェーズが一つ変わるこのタイミングで、記事にしてみようと思い、夜な夜な記事を書いています。少し熱い想いと、ですます/言い切り口調が混ざっておりますが、お付き合い下さい。

私について

私は他の経営者と少し異なったキャリアを積んでおり、実は『中卒』だったりと、良くも悪くも異色の経歴を持っている。いわゆる社会不適合者というやつである。学校は小中と不登校、卒業アルバムは勿論右上だった。

小学校の卒業アルバム

“義務”教育が終わると同時に、開放感を味わい、自分でお金を稼ぎ、お金を貯め、世界を旅することにした。なんとなくノリで、どうせ行くなら日本から極力遠いところが良いということで、南米の最南端、チリに片道航空券を買っていくことにした。チリは日本から5番目に遠い国だそう。

初めての海外、チリ上空からの景色

その後2年ほどかけて、南米最南端のチリから北米カナダまで行き、ヨーロッパに行き、計20ヶ国以上の国を旅した。正直世界一周したら価値観が変わるとか、人生変わるとか言いたかったけど、何も変わらなかった。

旅の途中、毎晩違うホテルに泊まり、色んな人と仲良くなる、そしてよく聞く質問に、”What do you do for a living?”という質問があるわけだが、よく”Engineer”というワードを聞き出したのはこの頃だった。その頃は特段興味はなかったが、エンジニアって勝手にインテリの印象があったのに、こんなにも身近にいるものなんだという印象を受けたことを覚えている。

エンジニアという職への出会い

日本に帰ってきた自分に、会社員という選択肢は一ミリもなかった。そもそも学歴偏差値はゼロに近いし、何か突出したスキルがあったわけでもない。ひょんなことをきっかけに自分でWebサイトを作ってみようと思い立ち、自分でドメインをとり、サーバーを借り、初めてのWebサイトを立ち上げた。ゼロからものを作るのが楽しくて楽しくてしょうがなかった。これがエンジニアへの第一歩だった。

その後世界一周の経験をもとに、「あったらいいのに」というアイデアを形にしてみようと思い、iPhoneを開いて写真を撮ったら旅の記録がGPSの情報付きで保存される、AminGoというアプリを作ることにした。コーディングの経験はなかったが、3ヶ月後にはAppStoreに無事ローンチできた。

旅行者向けアプリ無事リリース

とにかくこのモノづくりが楽しくて、夜寝る間も無くひたすらコードを書いていたのを覚えている。とにかく楽しくて楽しくて、おかげで睡眠不足で体調を崩し、リリースする頃には心療内科に通っていた。良くも悪くもやり出したら止まらない自分の性格で、限界突破の代償はいつもメンタル崩壊だった。

アイデアが自分の力で形になり、他の人に使われる、これが楽しすぎてモノづくりへの愛情がより一層強くなった。エンジニアリングってなんて楽しいんだろう、なんでも作れるじゃないか!あのアプリはきっとこうなっているんだ、そんな想像が毎日湧き上がってきて、より一層モノづくりが好きになっていた。

スタートアップとの出会い

一通り自分のアプリを作ることで最低限のスキルを習得した自分は、一度仕事でもしてみるかと思い出す。この時人生で初めて就職活動を行うわけだが、最終学歴が中卒であったことから、一筋縄にはいかなかった。エンジニア職に限ったことではないが、どの求人にも「大学卒」、最低でも「高校卒」という学歴が求められていたからだ。いわゆる学歴フィルタによりスクリーニングがされていたわけだ。

残酷な学歴フィルタという現実を目の当たりにする中、幸いにも登録していたGreen上でPhotoruction代表の中島さんから興味アリとメッセージをいただいた。この頃、まだスタートアップという単語に聞き覚えはなかったが、学歴を気にせず採用する会社は当時多くなかったので素直に嬉しかった。余談だが初回の面接時、一歩も外出しないせいでロン毛になっていた自分が、面接という人生初めての行事で何を着るのかわからない中、人生最初で最後のスーツを着た姿は永久保存版である。

初めての面接はスーツにロン毛

渋谷のヤギがいるカフェで当初有名だった、桜カフェで人生初めての面接を受けた。自分は面接と言う真面目な場なので、スーツに革靴でフォーマルな場と思って面接に向かったら、中島さんはめちゃくちゃ気軽な服装でささっと面接に来た。これがスタートアップかと謎に衝撃を受け、同時に興味を持ち出した。

AminGoのアプリをデモして、それを評価していただき、無事に入社、社員番号は4番目だった。渋谷の桜ヶ丘のマンションのオフィスで毎日出社し、ひたすらSwiftのコードを書いていたのを覚えている。小さなオフィスで毎日5人くらいでひたすら背中を向け合って開発をしていたのが凄く懐かしい。

スタートアップ入社、社員番号は4番

興味はモバイルエンジニアから当時流行りのAIへと移り、論文を読むために英語・数学を勉強したのを覚えている。最後に勉強したのは中学校だったので、キャッチアップが大変だった。Udacity、Khan Academy等のオンラインスクールで3ヶ月程のコースを1週間ほどに詰め込み、夜通し勉強し、高校・大学の7年間で勉強する内容を1年程に詰め込んだ。その結果、論文はなんとか英語で理解し読める程度になった。その代償として体調をまた崩し、心療内科送りになった。

スタートアップからメガベンチャー

その後勉強したAIを職にしたいということで、当時AIを事業に活用しようとしていたDeNAの募集を見つけ、応募、その後入社した。DeNAに入ると、スタートアップとはまるで別世界だった。これまで一緒に仕事をしたことのない高学歴な人達がゾロゾロいて、とにかくみんな優秀だった。自分が入ったのは、AIを開発するAIシステム部という部署で、主に自動運転に関わるComputer Visionのシステムを開発することだった。自動運転への憧れが謎にあったので、これは凄く嬉しかった。

アサインされていたプロジェクトでもそれなりの成果は出せて、対外的に成果を発表する機会なども貰えた。ただ自分はこの頃から少し違和感のようなものを感じはじめていた。その違和感は「居心地が良い」という違和感だった。何か毎日が心地よくすぎていく、給与も悪くない、何も不満がない、そんな毎日が不安だった。そんな時から、『起業』という選択肢が自分の中に芽生えてきた。

この頃、DeNAは2年近く在籍もしたし、エンジニアとして行けるところまで行ってみたい、そして起業をしようと思い始めていた。でもまだアイデアはない。そんな時、Google、Facebook(現Meta)を受けてみようと思い、LinkedIn経由でたまたま連絡をもらっていたので、思い切って受けることにした。同時に国内の最高峰のエンジニアリングも体験したいということでメルカリも受けることにした。

アイデアとの出会い

3社全ての企業でコーディング試験があり、Google、Facebookにおいては初回スクリーニング通過後、なんと現地に飛行機で一泊二日で丸一日試験を受けるということを聞かされて驚きを隠せなかったのを覚えている。飛行機代も宿代も全て負担される、驚きの体験だった。

1泊2日ではるばるシンガポールへ面接に

現地での時間割は、10時からコーディング試験2回、お昼を食べて設計試験を行い、その後行動面接で夕方前に解散。そこまでして優秀なエンジニアを採用するという、モノづくりへの妥協を見せない姿勢は痺れた。このアイデアがのちに起業のアイデアとなり、今の事業につながる。

結果としては一番早くオファーをもらったメルカリに入社することにした。入社時から将来起業したいという話を面接時にしており、それを許容してもらった上、テックリードとして採用をしていただいた。入社後はメルカリの素晴らしい組織力、カルチャーに圧巻された。入社して良かったと心から思う。

そして起業

メルカリに在籍して一年、入社当初からアサインされたプロジェクトも無事に終わり、一定成果が出た。テックリードとしてチームを主導したり、スクラムのリードをしたり、素晴らしい経験を積めた。
https://engineering.mercari.com/blog/entry/20201204-imagesearch/

この頃から自分の中でも起業したいという思いが日々強くなり、仕事が始まる前、終わった後はシェアオフィスを借りて仲間と草ベンチャーをするようになっていた。一緒に草ベンチャーしていたのはDeNA時代にビジネスマッチングで出会った共同創設者の谷合と、谷合の後輩の伊藤の三人。全員エンジニア。ただただ一緒に集まってモノづくりをするのが楽しかった。

当時は今の事業とは全く関係ない駐車場アプリを仲間と作っていた。正直アイデアはどうでも良くて、ただモノづくりを楽しんでいた。根っからのエンジニアだった。ビジネスセンスがおそらくなさすぎて、当時本気で資金調達してリリースをしようと思っていたアイデアのキャッチフレーズは今見ても笑える。

今見ると正気の沙汰とは思えないキャッチフレーズ

結局このアイデアでアプリは作ったものの、世間にはリリースせず、日の目を見ることなくピボットをした。ピボットした先のアイデアは三人で頭を捻り、駐車場ビジネスから学んだ、ドメイン知識が豊富な領域という観点から色々議論を重ね、自身の経験もあったエンジニア採用のコーディング試験SaaSとした。そしてすぐにまたモノづくりが始まった。

プロダクトは日に日に形になり、3ヶ月もすればMVP(Minimum Viable Product)レベルになっていた。地に足ついたアイデアが形となり、とうとう起業をしようということとなり、3人全員が本職の退職日を決め、会社の設立メンバーとなることに。自分の退職日は2020年12月8日。メルカリ定番の六本木ヒルズの写真と一緒に退職ポスト。

入社直後フルリモートになり、数回しか出社しなかった六本木ヒルズ

この投稿にPhotoruction時代に知り合った投資家、プライマルキャピタルの佐々木さんが反応し、メッセージをいただいた。一度話そうということでオフィスにお伺いした。ジャズの流れるおしゃれなオフィスで、起業するアイデアだったコーディング試験の話をし、ほぼその場で出資オファーを頂いた。ピッチも何も用意していなかったので驚きを隠せなかった。ここから本格的にスタートアップが始まった。

立ち上げからこれまで

その後佐々木さん、メルカリ共同創設者トミーさんから資金調達を実施し、無事にシードラウンドの資金調達をクローズした。初めてのPR TIMESはドキドキしながら2021年3月25日にβ版公開と同時にプレスリリースを出した。

シード調達時プレスのアイキャッチが懐かしい...

リリース当時は問い合わせが5件あれば良いと考えていたが、結果50件近い問い合わせをもらい、その後も続々と問い合わせをもらい、あっという間に導入企業数は30社近くなった。良いスタートアップの出だしだった。何よりモノづくりの速度が圧倒的に早かった。

一年弱くらいβ版プロダクトを展開し、そろそろ次の調達に動き出そうという話になった。正式リリース後、数ヶ月で月次売上は100万円を超え、出だしは好調、市況も今ほど悪くなく、すぐに2億円の資金調達の成功した。

二回目の資金調達プレスリリース!

このあたりから、エンジニアだけでなく、現COOの高柴がジョインした。彼が入り、これまではとにかくモノづくりをして問い合わせがあったお客さんと商談するというオペレーションから、しっかりHubSpotで顧客管理をし、セミナー開催等、数字を伸ばすためにやることをしっかりやり始めた。お陰で彼が入った後、数字は月次で20~30%程安定的に成長した。

その後も仲間も増えた。当初3人程の立ち上げ時期から、気がつけば10人を超え、大分会社らしくなった。エンジニアメンバーだけじゃなく、ビジネスメンバーも徐々に増え、ますます会社らしくなってきた。同時に増える仲間もいれば、去る仲間も出てきた。それも含めてスタートアップなんだと振り返ると思う。

いつの間にか増えた仲間と合宿の思い出

その後は出だしほど順調ではなかったが、無事マイルストーンを達成し、数字も大台に乗り、成長期に差し掛かった。その中2023年末に入った、現CHROの玉田の存在は大きい。自分の苦手な組織マネジメントをカバーしてくれて、丁寧にコミュニケーションを取り、場を盛り上げるエネルギー量を兼ね備えている彼がいなかったら組織は崩壊していたと思う。本当に周りに恵まれているし、感謝の一言に尽きる。

スタートアップは大人の青春

起業してから早4年近く経つ。その後も色々なことがあった。これまで二回の資金調達、増える仲間、去る仲間、楽しいこともあれば、辛いこともたくさんあった。幸いにもこれまでは大きなハードシングスはなく、順風満帆にスタートアップを経営している。すごく恵まれている。

Quarterに一度みんなで集まるオフサイト時にパシャリ

スタートアップは大変なことばかりだ。それでも毎日ひたすらがむしゃらに前に少しづつ進んでいる。辛いことのほうが多いし、逃げ出せる環境だったら逃げ出したいものだと思うときもあるが、それでも毎日が死ぬほど楽しい。スタートアップを始めて一度も後悔したことはない。人生もう一度やり直しても多分またスタートアップしていると思う。

まだ設立して4年弱だが、すでに設立時を振り返ると遠い過去のように感じ、すごく懐かしい気持ちになる。色んな感情が毎日ジェットコースターの様に行ったり来たりしている。スタートアップは大人の青春なんだなと心の底から思う。今聞いている曲とか、仲間と行った場所とか、10年後、死ぬほどノスタルジックな気持ちになるんだと思う。そう思うと今そんな経験を28歳で積めている自分は本当に幸せだ。

ロジカルに考えるとスタートアップなんてやらないに越したことはないと思う。自分の場合は設立後、最初の二年間は年収12万円(月給1万円)だったし、背負うプレッシャー・責任と得られるものは勿論釣り合っていない。仲間と仕事の関係で上手く行かなくなり、そのまま人間関係が崩れることもある。一言でまとめると相当「タフ」だ。それでも毎日やっている。それはロジックでは説明できない、エモーショナルな何かがあるからだ。人はロジックでは動かない。人を動かすのはエモーションだ。

これから

上手くいくときもあれば、上手くいかないことの方が多いけど、それでもなんとか日々成長して前に進んでいる。そんなこんなあり、会社のフェーズはまた一つ前に進んだ。これからはコーディング試験だけでなく、新しい事業を本気で立ち上げる、そんな成長と革新がもとめられるフェーズに差し掛かった。毎日プレッシャーと責任感に押しやられそうになりながら、不眠症になりながら食らいついている。

次の2年でハイヤールーは大きく変わるだろう。コーディング試験という一本足打法から、エンジニア組織のプラットフォームへと変革する、まさに第二創業フェーズと言っても過言ではない。計画では2年後に組織規模は50名ほどになっている予定だし、近々新規事業のアイデアも現実になると思う。

我々は、”日本をもう一度、「モノづくり」で一番にする。”という壮大なミッションを掲げている。到達したい山頂からすると、まだ山の二合目にも到達していない。それほど我々が登ろうとしている山は大きく、そして道のりは険しい。これからもたくさんの出来事があるだろう。増える仲間もいれば去る仲間もいると思う。それもこれも全て含めてスタートアップなのだから。

おわりに

タイトルにある通り、『起業』という選択肢は自分が人生で取った選択肢の中で一番大変だけど、一番選んで良かった選択肢だと思う。ことの発端はエンジニアとしてただただモノづくりが楽しかった、それが起業に繋がり、仲間ができ、もっと大きなことで社会に貢献する。起業って本当に素晴らしい。

自分自身モノづくりにすごくこだわりがあるエンジニア出身起業家なので、特にモノづくりに関わるエンジニアの起業家がもっと増えてほしいと思う。自分でモノが作れるし、仮に上手くいかなかったとしてもなんとかなるし、転職と同じくらい気軽に起業という選択肢が出てきてほしいと感じる。

今の日本はインターネット時代においてのモノづくりで遅れを取っている。失われた30年というのは高度経済成長期にモノづくりでJapan as No.1になった際に築かれた過去の遺産にすがっていた結果だと思う。日本がもう一度一番になるには、モノづくりからこの国を盛り上げないといけない。そしてそんな今の時代のモノづくりを担うのはエンジニアなのだ。

モノづくりが大好きで、エンジニアという職に誇りを持っている我々ハイヤールーがまずフルスイングしホームランを打ち、そして轍を作る。その先には『起業』という選択肢がもっと身近になる未来があると信じているから。そしてその先にはこの国がもう一度、モノづくりで一番になる未来があると心の底から信じている。さぁ、明日からもフルスイングしよう。

いいなと思ったら応援しよう!