愛鳥が亡くなりました
大好きだった文鳥の文ちゃんが亡くなりました。
3歳で、来月には4歳になる予定でした。
羽にできてしまった腫瘤が、ここ数か月の間にみるみる大きくなり、それを摘出する手術をすることになっていました。手術は無事に終わったそうですが、麻酔から覚醒のタイミングで亡くなってしまったそうです。
手術をしなければ、今、死ななくて済んだのに。
あんなに小さな身体で、頑張らせ過ぎてしまった。
私の選択が間違っていた。
考えても仕方がないのに、どうしても思ってしまうものなのですね。
ただ私としては、生命って「ああしておけば」なんてものではなくて、それぞれの生命に決められた寿命みたいなものがあるのだと信じています。
ときに受け入れ難い理不尽さを伴うことだったとしても。
これは、私なりのとてつもなく悲しい出来事への臨み方であり、自分を責めてしまうひとを守るための信念であり、ご遺族から教わってきたことでも、あります。
これまで多くの大切な生命と、さまざまな理由でお別れしなくてはならなかった方々と向き合う中で、私はたくさんのことを教えてもらってきたと、改めて思いました。
そんな私が、今回、愛鳥と死別を通して経験したことや気持ちについて、忘れないうちに、記しておきたいと思います。
そもそもの治療の経過
ここ数週間の経過については、インスタグラム投稿の内容を引用します。
いつも「最悪」を考えて生きている
先生がお話してくださる中で、この小さな身体にメスを入れることがどれほどに命がけであるかを、理解できました。
私は、小学校1年生の国語の教科書に載っていたハンス・ウィルヘルムの「ずーっとずっとだいすきだよ」を読んでから、「いつかお別れが来る」ことに対して、ずっと特別な怖さを抱えていました。
だからこそ、大好きな相手には毎晩寝る前に「ずっとずっと大好きだよ」と声をかけ続けてきたし、相手がいつ亡くなってもおかしくないことと向き合い続けてきました。
そういう日々を過ごしてきて、気づけば、命あるものは皆死にゆくという諦念も備わっていたように思います。自虐的に言えば、そんな冷たさもあったから、手術を選べたのかもしれません。
私が夫と「絶対にその日のうちに仲直りする」という家庭内ルールにこだわるのは、明日の朝、目を覚まさないかもしれないと毎日真剣に思っているからです。
そんな背景もあり、私だけが大げさに「最悪」を想定して沈んでしまっているのかもしれないとも思いました。
先生は「負け戦はしない」と言ってくださっていて、それを信じていたし、もしものことがあってもそれはもうどうしようもなかったことなんだというイメージトレーニングもしていました。
手術当日、動物病院からの電話
お昼過ぎ大学で作業をしていたら、電話がかかってきて
「亡くなってしまいました」
と連絡を受けました。
このとき、私は全く文が死ぬことを受け入れられてなかったと自覚しました。
私は手術で亡くなることもあるといわれ、
剖検もお願いしますとはっきり心に決めていたのに
いざ死んでしまったら
悔しくて、悔しくて
(先生が助かると思ったから手術に踏み切ったはずなのに、なぜ?)
と、本当に怒りと否認の感情が湧きました。
また、
(亡くなってしまったのに、剖検することになんの意味があるんだろう)
というのが素直なそのときの気持ちでした。
同時に、
まさか私でさえもこんな風に思うなんて、剖検に対して考えがあって決めていたことなのにと、自分自身の揺らぎに戸惑いました。
やはりいざというときの気持ちと、平常時の考えとは一致しないものだと、客観視している自分もいました。
そして、先生もそういう心変わりがあるという可能性も汲んでくださっていたのも、話し方で分かりました。
でもこれは決めていたことで、一瞬の揺らぎに従ったら私の場合は後悔するだろうと思ったので、
「よろしくお願いします」
と振り絞って、電話を切りました。
張り詰めていたものが切れて、大学の誰もこなさそうなオープンスペースで、泣きました。
剖検が終わったという電話
共同研究室で仕事をしており、このお部屋ではめったに雑談がないため、めそめそ鼻を啜っていると、響きます。お迎えのこともあるので、仕事をまとめていったん帰宅することにしました。
「よろしくお願いします」と1度目の電話を切ってから数時間後、再び電話をいただき、
というような説明を受けました。
なんだろうこの感じ。
術前の画像検査でも問題なさそうだと言われていたから、まあそれはそうという結果にもかかわらず、何もなかったらこんな気持ちになるのかと、思い知らされたような気持ちです。
羽の腫瘤部分も、いずれにせよ、病理検査に出すと決めていたのに、(やっぱりやめようかな)という考えも脳裏をよぎりました。
良性だったと分かった時
悪性だったと分かった時
はたまた調べなかった時
どう考えるか?
どう意味付けるか?
悪性だったら、手術によってのみしか助からなかったと、納得できるかもしれません。
もし、良性だったら。
手術を選択せず、見守る選択としていたならば、腫瘤はあったとしても、これからもずっと長くいられたのではないか。
そんなふうに責めてしまう気持ちになるんだろうなと想像すると、やはり病理に出すのは怖かったです。
でも、仮に良性だったとしたら、
「良性でもこのスピードで大きくなるんだ」
とか、学べることは必ずあるんじゃないかと、思いました。
調べなかったら、私の場合、きっと後悔する。
結局はそのとき取り得る選択肢を取り切ったこと自体が、自分自身を慰めるのかなと思います。
剖検して、学べることって結局なんだろう
先に、「学べることはあるだろう」、と述べました。
では本当になにか学べたのか。
私は、世界から悲しみをゼロにすることはできない、という大きな諦めがあります。
でも、せめて、そこからなにかを学び取ることはできるのだと希望を持っています。執念とも言えるかもしれません。
それはこれまでもこれからも、失いたくないものです。
その上で、自分が死や哀しみを前にしたときに、大切にしている言葉があります。
本心を言えば、過去の哀しみから学んだことで、哀しみと闘うための武器、哀しみから守るための防具を作りたい。
そういう研究がしたい。
でも、ひとつひとつの生命は何にも変えられず、哀しみは消せない、無力なんだと、自覚しておく必要があると思っています。
たまに、「剖検を提案されたけど、科学の役に立つかもしれないと思ったけれど、選べなかった」と謝罪のような言葉を述べる方を見かけます。
どうか、謝らないでほしいと思います。
哀しみに対しては、どんな学びも、無力なのだから。
そのときのあなたが精一杯振り絞って決めたことを、誰も責めません。
遺してもらったもの
剖検を終えた文の身体は、本当にきれいに遺していただきました。
剖検ときくと、グロテスクなイメージを持たれるかもしれませんが、文の剖検に関しては毛をかきわけないと(かきわけようとしても)全くわからないくらい、本当に最小限の傷だけで、ふわふわのそのままでした。
剖検時に摘出していただいた臓器は、きれいにホルマリンに漬けていただいていました。
DNAも、遺しました。
私は「遺らないこと」「不可逆なこと」がとても怖かったんだと思います。
少し周りからみたら特殊で狂気じみたように思えるかもしれないけれど、どうしても遺したい文の生きた証みたいなものがありました。
けれど、肝心の文の亡骸はみたらどうしても涙が出てしまう。
それでもやっぱりちゃんと見て、触れること。
「亡くなってしまった事実」をまじまじと突きつけられるような気持ちになるのは本当に本当に辛いです。
でもきっとこうして最期に触れられたということは後から私を救ってくれるんだと、思っています。
遺すものを遺す手続きをして、ちゃんと見て触れて変わらないふわふわを確かめて、火葬に進めた今、とても安堵しています。
皆様への御礼と、お願い
生前、文と遊んでくれた皆様、手術にあたって励まし成功を祈ってくださった皆様、亡くなった後に心を寄せてくださった皆様、ともに涙してくださった皆様すべてに感謝しています。
友人や知人が遊びにきてくれて、文と遊んでくれているとき、いつも本当に文はうれしそうでした。
特に、子どもが産まれてから、お兄ちゃんになった文と遊んであげられる時間は減り、我慢させたこともあったと思います。
そんな中で友人たちが遊びに来て
「お文〜〜〜〜♡」
と遊んでくれたときの、僕が主役です感たるや。
本当に感謝してもし切れません。
そして最後に、私からのお願いです。
どんな形であれ「死」に触れると、その人の中の「死の意識」みたいなものも増大しがちで、それはわりと自然なことだと理解しています。
だからこそ、読んでくださった方々には、よく食べてよく寝ていただきたいし、せっかくなのでうちのかわいい「しっとり文ちゃん」を見ていってもらえたらこの上なくうれしいです。
居眠りしている文とか、恐竜みたいな文とか、飛ぶ直前の腰が引けてる文とか。
もう更新することはないかもしれませんが。
楽しかった時のことを思い出すと、
ちょっと元気が出るようなきがします。
@shittori_bun
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