KKL 20210428 研究室会議レポート
M2の大栁です。今回のnoteは、去る4月28日に行われた研究室会議のレポートです。
限界を書き換えるー構成員による個人発表をつうじて
4月28日の研究室会議、プロジェクトの発表はわずかでしたが、卒業設計および、修士論文の個人発表においては、構成員それぞれの興味や、それをもとにしたリサーチのプレゼンが続きました。色彩や複雑系、人類と生態系、社会的な弱者と空間、対象としての山などなど…いずれも興味深く、しかし一筋縄ではいかないテーマがずらっと並びます。さまざまなテーマに出会うたび、私は次のことをよく思い起こします。
人は、ある情報を目の前にしたとき、自分が知っている形でしか、その情報を知りえないということ。つまり、情報に対する接し方そのものが、自らの限界を規定し、思考の輪郭を露呈させるのです。
そういった意味で、卒業設計および修士論文の発表では、私自身、緊張しながらの参加になります。前述したとおり、私は私が知っている範囲でしか、そのテーマを受け取ることができない。であるならば、聴講者としての私は発表をうけ、自らが持つ限界のフチに触れ、そのフチを再度見つめ直し、点検する作業に追われることになるのです。
数年前の門脇先生の指摘は、いまだ私の中で思考を繰り返しています。そしてこの指摘は、修論という枠組みを超えて、門脇研における、制作への向き合い方の根本原理として深く作用しているのではないかと感じます。
同じく構成員の村上さんが指摘したとおり、門脇研の卒業設計は、個々人の興味や欲望から設計がスタートすることが多く、それらは独自性を持つと同時に、完成度の高い設計物として、評価を受けるものが多く見られます。それら評価の遠因として、粗雑な言い方をすれば、膨大なリサーチを経たあとの着地点が、問題解決に向かうのではなく、常に問題提起的であること。この道しかないとソリューションを考えるのではなく、批評的かつ、新しい可能性や価値とは何かを考えること。門脇研の中に通底する、自分の枠を書き換えようとする制作としての態度が、結果的に、人々や、社会が備える認識そのもののフレームを書き換えることに繋がり、それが成果として表れているように感じています。(外部からやってきた私は、その部分が特に強く印象に残ります。)
自らの認知限界を超えた情報をもとに、論理を組み立てていくこと。門脇研における制作とは、つくるときに表れる、自ら、あるいは社会の限界を認識し、その限界を書き換えようとする、不断の行為に他ならないのではないか。これからもまだ見ぬ知見に出会い、葛藤しつつも向き合っていきたいと思わせられる、4月28日、Zoom越しの研究室会議でした。