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人にカメラを向けるということ

ミャンマー・スーレーパゴダ。私はこの国の祈りの文化が好きだ。

もちろん、皆が皆というわけではないが。生活の中に祈りが根付いているということの美しさを、うまく言葉にできない。ミャンマーの魅力に直結する言葉なのに。

人にカメラを向けることは勇気がいる。ズームをかけ、対象に迫ろうとするときは、より一層心拍数が上がる。大きなレンズの存在感は、人を萎縮させ、訝しげな顔つきにさせてしまう。かといって、ふとした瞬間を狙うのは、盗みを働くような気にもさせられる。ついスマホで写真を撮ってしまうのは、自分の勇気のなさと、それでも日常を撮らせて欲しいといういやらしさの表れなのか、とつい嫌味なことを考えてしまう。

けれど、撮影した写真や映像の中に、人々の生きるありさまがうまく映し出されていると、豊かな気持ちになれるし、時には生きることを教えてくれる。言葉ではうまく伝えられない空気感が、その土地の良さが、旅をしていたときの心の揺らぎまでもが、つぶさによみがえる。

私は一介の旅好きに過ぎず、そんな大そうな写真など撮れた試しはないが、私はこの先もささやかに写真を撮らせてもらうのだろう。

ありのままを映す

とあるカメラマンが、「撮らせてもらう」という意識の大切さを説いていたように思う。写真にはカメラマンと被写体の関係性が偽りなく現れ、被写体への謙虚な心は、被写体自身の映りを大きく変える。それは1枚の写真を取り巻くストーリーにも繋がり、1枚の深みが増す。撮影者と被写体の関係性は、写真や映像に関わる人間にはもう語り尽くされていることではあるが、いつになっても、何度も考え直してしまうセンシティブな問題なのかもしれない。

先月、中野で開かれていた亀山仁さんの写真展「日常のミャンマー」で見た写真は、現地を歩いた時に感じた「人々の魅力」、また「土地の魅力」を確かに感じられるものだった。撮影者の意識やエゴを感じさせない、素朴な写真。被写体が柔和な顔でこちらを見ている。カメラマンとの対話と、心のつながりを感じさせる1枚だ。「ありのままを映し出している。」観覧に来ていた、自身もカメラマンだという女性は涙ながらに話していた。

緻密に撮影された写真のバランスの取れた構図、ドラマチックな陰影、巧妙な色彩などは、感覚的に美しいと思わせてくれる。SNSをひと度開けば、茶目っ気たっぷりの写真だって、夢のような光景だって溢れている。それでも、心にじわっと温もりを感じられる写真は数少ない。カメラマンの主体性よりも、レンズの先に向く世界を映す喜びがある。人々が撮られることを受容し、ありのままでいられる。先の写真展では、そんな心の折り重なりを感じながら、素朴な暮らしを覗かせてもらうことができた。

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▲亀山さんの写真集。

ありのままを演じる

また別の日に、岩波ホールで「ブータン 山の教室」という映画を見た。元カメラマンであるブータン人監督の長編デビュー作である。
この映画で驚いたのは、主人公である都会人教師の赴任先、秘境・ルナナ村に暮らす人々を、実際にその地に暮らす人々が演じているということだった。
ヒマラヤの山深く、電気も通らない村では、映像そのものを見たことがない人が多く、実際に演じたのもそのような人々だったという。演技とは何か、映画とは何か。時間をかけて監督は演者と歩み寄っていったのだろう。彼らの演技は素朴なのに、観るものに力強く訴えかけてくるのだ。
とりわけ、映画のポスターにも大きく映し出されている少女ペム・ザムちゃんの演技には目を奪われた。演技未経験どころか「映像」すら見たことがない少女が、都会人教師との別れのシーンで涙を流すのだ。

彼らは自分の生きてきたバックグラウンドをそのままに、役として演じていた。ペム・ザムちゃんも、両親は離婚し、父は酒に溺れ、祖母に育てられたという複雑な境遇を、映画の中でも生きていた。だから、生の声が伴っていて、心が揺さぶられたのかもしれない。
あの映画を観てからというもの、秘境に暮らすペム・ザムちゃんの日々に思いをめぐらせ、涙したわけを想像してしまう。

カメラ一つで撮影する写真とは違い、映像撮影となると、より一層多くの機材と人手が必要となる。軽量化されたとはいえ、カメラ、三脚、レール、照明、音声機材など、まとまった機材の与える圧迫感は依然凄まじい。それは、撮影者を超え、見知らぬ視聴者の姿すら想像させ、緊張感を増幅させる。見るからに大ごとの環境下で、ありのままでいるというのは、正直不可能に近いように思える。その絶望的な距離感を詰めていけるのは、やはり人の心である。映画にも、監督者の心、撮影チームの空気が如実に映る。
秘境に住む彼らにとって、山々を越えてやってきた多くの機材と人と、時間をかけて大掛かりな撮影を行うというのは一世一代の大仕事だったであろう。そんな彼らの素朴さを優しく丁寧に映し出した監督の心と手腕に感服する。

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▲岩波ホールで展示されていた写真パネル。
 写真上の下段左から3人目がペム・ザムちゃん。写真下には撮影クルーの姿が。村までは山道を徒歩8日。電気が通っていないため、太陽電池を持ち込んだそう。 

目の前の「ありのまま」を映す

今や1人1台が当たり前のスマホには、当然のようにカメラが備わっている。誰もが気軽に撮影し、公にできる時代。自分自身や家族、友人、景色などのありのままを映し出すことも容易くなった。

しかし、カメラマンや映画監督のように、自分のコミュニティの外側で、機材を手に、被写体との対話を重ね、心の距離を縮めて撮る写真や映像がある。そこに映るものの姿は、奥深い味わいを持って、私たちをあらゆる想像へ誘ってくれる。

彼らが勇気を持ってカメラを向け続けることに、そして人々がカメラを受け入れ続けてくれることに感謝しなくてはならない。


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亀山さんは撮影者を再訪し、写真を渡すなど撮り逃げしない姿勢も素敵だ。
撮影に協力してくださった方を想う気持ちを、私も大切にしていきたい。
また、展示会は、今や混乱により別物となりつつあるミャンマーの本来の姿が覗ける大事な機会だった。一人でも多くの人がミャンマーの現状について興味を持つことが、ミャンマー国民への支援の第一歩であると感じる。

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