死刑制度の無責任体制ー小坂井敏晶著「増補 責任という虚構」を読んで
死刑制度は、誰もが責任を感じさせないシステムになっているからこそ、維持可能である。
この指摘が、本当にショッキングでした。
第1章で、ホロコーストは、高度な組織化のもと作業分担が行われ、責任が分散化することによって可能だったということを具体的かつ丁寧に論じた後、第2章(表題は「死刑と責任転嫁」)で、終局的な死刑執行場面のまざまざしい描写にはじまり、死刑制度も分業体制がこれを支え責任が分散化されているからこそ、維持可能だと説得的に論じていくので、全体として第2章は、心情として読むのが非常につらかった。つらすぎました。
死刑執行人、命令に署名する大臣、書類を作成する官僚、判決を下す裁判官・裁判員、捜査起訴・求刑する検察官、それぞれの心理負担を軽減するメカニズムなしには、制度が機能しない。
「受刑者を死に至らしめる罪悪感は、こうして組織全体に限りなく転嫁・希釈される。」
第3章以降では、責任は、因果関係ではとらえられず、「主体」「責任」「自由意思」は、虚構性を巧妙に隠された、社会に必要な虚構にすぎないというのを、脳科学の知見などあの手この手で論じています。
ただ、自由意思という概念を持ち込まないと、近代の処罰制度は機能しない。スケープゴートを正面から受け入れる制度に戻ることは、もっとできない。他方、処罰がない、社会規範からの逸脱がない社会は、突き詰めると恐ろしい全体主義でしかない。
死刑への責任の分散化は、さらに辿れば「国民の大半は死刑制度の維持を望んでいる」とする法務省、死刑制度の正当化の「根拠」たる国民の「意思」へ行きつく、とも考えられますが、その「意思」すら無根拠の虚構となってしまい、もうどうすればいいのか。
できることは、虚構性を認める視点を持ち合わせ、その上に立っていることを自覚して、社会に、処罰制度に、向き合うことでしょうか。
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