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商売の限界,幻想の売り買い


客を小馬鹿にした商品があまりにも溢れている気がする.世の中は大変世知辛い.

健康食品なんて謳うものはだいたいこれに該当するだろう.これを食べると健康になります,痩せます,病気が治りますという雰囲気を出してはいるが,よーく読んでみると「気がする」「らしい」「感じがする」と曖昧模糊とした表現に徹し,その食品を取ること得られる効用を一切断定しないにも関わらず,何か劇的な効用を得られるような錯覚を消費者に与えようとする.

文章を読めない人(書いてあることを正しく認識せず,雰囲気で判断してしまう人,”書いてないこと”を読み取れない人)はころっと騙されてそれにお金を払ってしまう.

多くの人は「楽して儲かる方法」のような有料noteや非公開PDFを売りつける情報商売小僧を回避する嗅覚はあるようだが,それをちょっとマイルドにしつつも,本質的には同じことをしている商品に対しては耐性がないようだ.それを見抜けない人々は効用と錯覚した幻想にお金を払い,消耗しているのである.

一見真っ当な商品に見えるものも少なからず,「幻想を売っている商品」はあまりにも多い.

例えば自動車.自動車は,燃費,最高速度,安全性能といった,自動車の運転において必要不可欠といえる比較項目があるにもかかわらず,広告を通じて幻想を発信し,この幻想で餌に客を釣ろうとしている.(これがブランディングと呼ばれる類だろうか.)

憧れの俳優がその車をカッコよく乗りこなしていたら,その自動車を持つことが,憧れの俳優に近づく自己実現の手段と見てしまうかもしれない.ある女性アイドルが嬉々としてその車の助手席に乗るシーンを見たら,自分もその車を手にしてアイドルのような子を助手席にのせられるかもと思ってしまうかもしれない.家族が嬉々とした表情で週末のドライブに行く映像を見せられたら,車を手にすることで自分も円満な家庭を得られると思ってしまうかもしれない.

これらは「安全で快適な移動手段である鉄の塊」としての自動車において何も寄与するものはない.コマーシャルでみたような俳優になれたり,アイドルが助手席に乗ってくれたり,家庭円満にしてくれたりはしない.

さらに,その幻想のインプット活動にかかった経費は,自動車の販売価格として消費者に転嫁される.私は払いたくもない幻想植え付け代金を支払わされていることになる.一方でそれがあるからといって,眼前にある移動手段(自動車)がより安全になったり,燃費が上がるといった実利的なものは何も得られない.

自動車は数え切れないほどのパーツを組み合わせて一台の車が構成され,そこには文字通り数え切れないほどの企業努力が詰め込まれている.商品としてはまだマシな部類だと思う.(これすらも自動車販売会社のプロパガンダの賜物かもしれないが)

幻想を売る商品には枚挙に暇がない.健康・長寿食品,美容系商品,情報商材,プログラミング教室,本を書くのことが仕事の人が書いたビジネス本,ソシャゲ,記念系商品etc

そう思うと,冒頭にあげた有料情報商材とこれら商品の違いは「幻想の純度」でしかない.

そして高純度かつ,幻想を売っていると気付かれない商品が濡れ手で粟の儲けを出しているんだなあということが考えられる.

では,なぜ,比較的真っ当な商品ですら,幻想を消費者に植え付けないと売れないんだろうか.

消費者がバカ&世の中は便利になりすぎた

現代は商品間の競争において,「花より団子ならぬ,団子より花」状態になってしまっているんじゃないんだろうか.実効的なメリットをひたすら追求しそれを正面から訴求する商品ではなく,最低限の実装と嘘ギリギリのPRでパッケージを豪華にした商品の方が売れてしまうという現実があるから,幻想パッケージングをすることが企業の合理的な選択になってしまっている.

もし消費者全員が,一切の幻想的な訴求に揺さぶられないリテラシーを身につけたらどうなるだろうか?中身すっからかんで外見だけ豪華絢爛な詐欺商品は,質実剛健な競合商品にあっさり敗れてしまうだろう.消費者に幻想を植え付けるコストは全くリターンを得られないとして合理的な企業は幻想を植え付けるためのプロモーション活動をやめるだろう.

言うなれば消費者は往々にしてバカであり,企業はそのバカに付け込んでいるのである.

また,世の中が便利になりすぎたのも一つの原因だろう

古くから続く商品の発明とその改善で繰り広げられる商品の進化を経て,世の中にある商品がもたらす効用はサチってしまったんじゃないだろうか.

サチってしまった結果,企業が「利益をあげる」という至上命題をクリアするためには,現実にはない虚無な課題,コンプレックス,欲求の換気をでっち上げて,消費者を一度谷底に落とし,「うちの商品を買えば救われますよ」という寸劇を展開することでしか,”今までにはないもの感”を出すことができなくなってしまったんじゃないだろうか.

美容系商品がプロパガンダするコンプレックスの植え付けがいい例だろう.男性の髭があることが恥ずかしいことだという価値観は誰が作っているか?女性は体の至る部分を脱毛してしかるべきだと諭すのはどういうポジションにある人たちなのか?
私たちは彼らが仕掛けるマッチポンプにまんまと引っかかり,コンプレックスを植え付けられ,そのコンプレックスの代償に多額のコストを支払うのである.こんな馬鹿馬鹿しいことはあるだろうか.

もちろん,世界には研究開発や試行錯誤,ひらめきの集大成として本当にイノベーションと呼ばれる技術や製品,サービスを作り,世に広め,その対価としてお金を稼ぐ企業や個人も当然存在する.今もそれに挑戦している無名の英雄がどこかにいるだろう.しかし,その割合は50年前,100年前と比べ大幅に激減しているんじゃないだろうか.T型髭剃りが初めて世に登場したときの衝撃は如何程だろうか.水洗トイレが初めて生まれたときの衝撃も然り,ライター,マッチ,石鹸,ボールペン....現代では珍しくも何ともない商品が初めて世に出たときの衝撃はさぞ刺激的で,生活に劇的な改善をもたらし,また,さらなる生活水準の向上という希望を与えてくれだだろう.

商品開発競争の行く末に,現代はまあまあ便利な時代になってしまった.新商品として何か新しい効用を訴求しようにも,訴求できるものがなくなってしまった.訴求できるものがなくなった結果,企業はマッチポンプ的に課題をでっち上げ,幻想を付与して,大したことのない商品を派手に盛るという荒稼ぎ技を身につけてしまった.消費者はバカなので,それに気付かず,マッチポンプに踊らされ,幻想を幻想と気付くこともなく,虚無にお金を出してしまった.企業はさらにアクセルを踏み,世の中は幻想パッケージング商品で溢れてしまった.今はそういう時代ではなかろうか.


(サムネイル画像には特に意味がありません,真っ直ぐな瞳とミステリアスな笑顔が魅力的で思わずチョイス)

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