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パタン・セオリーを学んで役に立ったことは?


はじめに

この記事はパタン・セオリーアドベントカレンダー5日目です。
https://adventar.org/calendars/10605

このアドベントカレンダーは、10月4日に発売した『パタン・セオリー』に関する記事です。

『パタン・セオリー』のクラファンを一緒にやった笹さんに、「パタン・セオリーを学んで日常の何に役に立っていますか?」と質問されて、回答できていなかったので、この場でこの問いについての回答をしてみようと思います。
おそらく、あまりに染み付いているので、何がパタン・セオリーで、何がそうでないのかを区別することは難しいですが、ひとまず『パタン・セオリー』に書いてあることに絞って、頑張って言語化してみます。

すべてに「いのちがある」と捉える

パタン・セオリーの最大のポイントは、「生命(いのち)の質」、つまり生命を生物学的な存在だけでなく、非生物や場に対しても適用するという考え方です。ある誰もが意味うすうすと感じていたことを断言している点で画期的です。

私がこの考え方を知ったのと同じ時期に知った、高知県の沢田マンションが、まさに建物や場として「生き生き」した生命を体現していたことが、よりその概念の理解に結びつきました。

それ以前も、ソフトウェアのソースコードや設計をみて「美しい」と感じたことはありますし、チームや働くワークスペースなどが活気があり、生き生きしているという感覚を非常に大事にして、それを作り上げようとしていました。そこでやってきた・感じてきたことが、パタン・セオリーによって言語化されたのです。

雑に一言でまとめてしまうと、「自然界における発展・発達の原理を知ることができた」ということになるでしょうか。

とにかく「構造保存変容」が大事

その中で重要な「構造保存変容(Structure Preserving Transformation: SPT)」という変容プロセスが、私にとってまず最初に浮かんでくるパタン・セオリーのキーワードです。私は、よく知られている、パタンやパタン・ランゲージよりもこのプロセスこそが一番重要だと感じています。

先ほど例にあげた沢田マンションも、生き生きとしたチームやワークスペースも、私たちが見て感じるときにはあくまでもその時点での結果でしか捉えることができません。しかし、その結果が生まれてきたのは、そこに至るプロセスがあるからです。そのプロセスが構造保存変容です。

沢田マンションは、地上5階、地下1階のRC造のマンションですが、単にゼネコンが同じものを作ってもおそらくその質は生まれません。沢田マンションは夫婦ふたりが時間をかけて、少しづつセルフビルドによって拡張していきました。部屋を作り、その部屋を貸して収入を得て、資金が溜まったら更に拡張してフロアや部屋を作る、というプロセスで作り上げたからこそ、この強い「生命の質」を宿したのです。

同じようにワークスペースのデザインも、デザイン会社に発注したオフィススペースではなく、自分たちで少しづつオフィスの机の位置や、壁の貼り物、収納の場所などを変えていくからこそ、自分たちにとって心地よい環境を生み出せるし、「生命の質」が高まります。

ここまで構造保存変容を強調するのは、現在の技術発展や人間の合理的思考に基づくと、構造を無視して一気に変えようとする「構造破壊変容」になってしまうからです。今の構造に敬意を払い、「いのち」あるものとみなして大切に扱うことが置いてけぼりになってしまいます。

映えはするが、生き生きしない棚

以前、ある有名な会社のオフィス見学に行ったことがありました。そこは全体的にいかにも「デザインしてます」といったオシャレな空間で、同じように「オシャレ」な棚がありました。しかし、その棚の中にはモノがほとんどおかれておらず、なにか違和感を感じました。

そこで社員である友人にその理由を聞いた所、「その棚は何かを収納するには中途半端な大きさで使いにくいため何も置いていない」ということがわかりました。

その棚に何かモノを置いて写真を撮れば、非常に「映え」のする写真が撮れるでしょう。しかし、その「映え」は実用とはまったく無関係です。「あえて空間を開けている」ならまた話は別ですが、そうでないとすると、そこで働く人と棚の関係性において調和がとれていないということになります。

もちろん、最初は専門家がデザインした見た目重視の使いにくい棚でも、そこで働く人たちが工夫して自分たちの使いやすいようにすることで、その生命の質は高まっていくはずです。しかし、完成品を手にした後で、そこに手を加える事ができなかった理由は私にはわかりません。確かなのは「使いにくいとわかっていても、何もしないままであった」ということだけです。

場の調和を生み出す構造保存変容

そこで働く人が、自分の手で使いやすいように変えていき、その積層によって働く人とワークスペースが調和していきます。そして、ただ単に有用・利便性のみを追求するだけでなく、ちょっとした遊び心を含めてその場にいる人にとっての「心地よさ」があることが、より調和の度合い(=生命)が高まっているといえます。

単に作業効率を重視するだけなら、真っ白な壁の工場で十分でしょうが、そこに人間性や、「生き生きとした」感じがするのかは疑問です。仮に作業者が自分の好きなフィギュアを作業場においた時に「そんなモノ置いても邪魔だ」とか「仕事場にそんなものがあるのはいけない」などという罵声が飛んでくるとするなら、その場所はその人にとって真の意味で心地よい場とは言えないでしょう。もちろん、頭では「仕事場だから関係ないものは置いてはいけないよな」と理解はしていても、その時点で「自分らしくいられない場」ということになります。

私たちは、対象を「今」というスナップショットでしか捉えることができませんが、そこに至るプロセスが生命を生み出すということに気づかせてくれたのが、パタン・セオリーの「構造保存変容」でした。

そして、その少しづつの変容のためには、専門家にその都度お願いするよりも、そこに関わる当事者が必要な時に必要なだけ手をかける方がより効果的です。家ならば住人、町ならば住民、オフィスならそこで働く人、ITシステムならそれを使う利用者、野菜ならそれを食べる消費者、となります。

そこで、もうひとつのパタンセオリーの重要なキーワードである「利用者(当事者)参加」が重要になってきます。

実現が難しい「利用者参加」

私は、これまでのパタン・ランゲージのムーブメントで一番困難なのが、この「利用者参加」という概念だと感じます。アレグザンダーらが、『パタン・ランゲージ』で設計の暗黙知をまとめたのも、専門家だけでなく、利用者(住人)自らがデザインを可能にするためでした。

この発想は、まちづくりのコンテキストでは、「住民参加型」という観点である程度は継承されていますが、オリジナルの建築の分野や、最初にパタン・セオリーを応用した分野のソフトウェア開発の分野では、なかなかうまくいっていません。どうしても、パタンは「専門家のための道具」として使うことに意識が向いていて、この利用者参加の概念が少なかった、というのが私の見立てです。[1]

もちろん、利用者参加を実現するには、専門家の意識変化と、利用者の意識変化の両方が必要となり、ハードルが高いのは事実です。専門家からすると「素人に任せられない」「できるはずがない」となりますし、利用者からすると「自分にはできない」「そんな時間をかけられない」「プロに任せたい」となります。ある意味、利用者参加はもっとも実現が困難かもしれません。

それでも、構造保存変容を行うのに、利用者参加は欠かせません。参加の度合いは様々ですが、どこまで利用者を巻き込んで、その人達が自信を持って取り組めるかが鍵となるでしょう。

時代的に、部屋のデザインをDIYで変えることが流行したり、ノーコードツールやAIを利用して、利用者が欲しいシステムやイラストを自分でも作れるようになってきたのは、この「利用者参加」の大きな流れの一部であると私は見ています。専門家の暗黙知だったものが、「XXXパターン」として形式知として表出するのも、この流れの一部でしょう。

私は、利用者参加とは、「専門家と素人」と完全に分断されてしまった関係性を、再び統合して一つに戻そうとする全体性回帰への働きだと捉えています。別の言い方をすると、ひとりひとりの個人が本来持っている力・可能性が、専門家や道具に分化してしまい失ったものを、再び取り戻す流れとも言えそうです。

日常でどう活かしてる?

最後に、日常でどう活かしているか、についても簡単に触れてみます。

構造保存変容は健康カイゼンにも応用できる

別途詳細なエントリを書く予定ですが、私が2022年に上梓した『「アジャイル式」健康カイゼンガイド』は、パタン・セオリーに基づいた取り組みを価値・原則・実践(パタン)としてまとめており、そのプロセスは用語こそ出していませんが、書籍の中で一貫してイメージしているのが構造保存変容です。

健康状態や身体の変化、生活習慣、そして性格(個性)はすぐに変えることはできません。様々な制約の中で、その状況にあった少しづつの変化を積み重ねていく必要があります。その変化についてもできるだけ「無理なく継続できる」ことが不可欠です。

『「アジャイル式」健康カイゼンガイド』では、その変容を促す価値・原則・実践(パタン)を紹介していますが、この根底にあるのが、身体や生活習慣を含めた、全体の構造保存変容をどうやって実現していくか、につきます。

子どもの成長も、構造保存変容

また、子供や自分自身の精神的な成長・発達についても、構造保存変容であると日々実感しています。喜び、悲しみ、苦しみ、痛み、を刻みながら、人は生きています。思い出したくもない過去の失敗や痛みがあっても、その過去を否定したりなかったことにするのでなく、その時の痛みや苦しみをただ味わい、感じつくして自分を癒やすことで、少しづつ人は成長し、前を向いて次に進むことができます。

私は3人の子どもがいますが、それぞれ生まれつきまったく個性が違い、それぞれ得手不得手があります。構造保存変容の観点から言えば、「足りない所を埋めよう」とするよりも「今あるものを活かそう」と考えることが、生まれつきの構造(=個性)を大事にした関わり方になります。

子どもにはそれぞれの人生があり、親はその変容を見守り、勇気づけ、支える存在として関わる事が重要です。もし、子どもができないことを、親が先回りして代わりにやってしまうことは、子どもの体験機会を奪うことになります。体験の中で、うまくいここと、いかないこと様々ですが、そういった体験の積み重ねで人は成長していきます。体験を奪うことは、その人の成長の機会を奪っているのです。

この関係性は、専門家が素人に任せずに仕事をやることにも似ています。こう書くと「そりゃ、素人がやったら時間もお金もかかるから、プロに任せるのがいいに決まっている」と反応したくなる人もいるでしょう。その場合、あなたは「時間やお金」を「自分の体験・成長の機会」よりも重視しています。もしかすると、「自分の無力さ」に対する諦めなのかもしれません。

同様に、親が子どもにはできないと決めつけて世話を焼いてしまったり、「親がやったほうが早い」「親がやったほうが安全だ」という理由で子どもの代わりに親がやってしまうことは「子どもへの信頼の欠如」や「子どもの体験・成長機会の剥奪」を「合理性・効率性」というモノサシで正当化しているのかもしれません。

自分が「生き生き」と変容できているか?

実は、他者と関わる前に、自分自身に対して構造保存変容で関われるか、『パタン・セオリー』に基づいた「あり方」で接することができるかという観点も重要です。

自分の生まれつきの個性を認知し、それを認め活かそうとすることができているでしょうか?自分の「できないこと・不得意なこと」に意識を向けて「できていないのがダメだ」と自分を否定していないでしょうか?自分が「感じた」ことを、他者の意見に迎合したり、嫌われるのが嫌で「なかったこと」にしていないでしょうか?

構造保存変容は、今の状況を受容した上で、次に強めるセンターに働きかけ続けるプロセスです。自分自身のこれまでを十分に認めて愛して受容できているでしょうか?

自分自身に対する構造保存変容に必要なのは「自己受容」です。

自分自身への認知(メタ認知)ができていないと、他者に反応行動を取ってしまってもそれに気づくことはありません。子どもへの叱責は、実は自分の感情抑圧や否定的な信念を投影した結果であったりすることが多々あります。

先に上げた、子どもと親の関係性において、「親がやってしまう」ことも、理屈では「親がやったほうが早い」と正当化していますが、実は子どもにまかせている間に、「子どもがうまくいかないのを見ているとイライラする」という不快の回避行動から生まれているケースが多々あります。この場合、「親のイライラの源泉が何か」に目を向けなければ、根本的な解決は望めません。

このような反応行動を持つ人は、内的世界に「きっちりやらないといけない」という信念を持っている場合があります。自分が「きっちりできない」ことに対して、自分自身が許せないのです。だから、外部で「きっちりできない人」を見つけて苛つくのです。

この人がもし、自分自身に対して「きっちりできなくてもいいじゃない」「今の自分でいい」と許すことができれば、このイライラは消え去ります。

このような内的世界の信念体系の認知とその解放については、様々なアプローチがあるので興味がある方は調べてみてください。

このような人の内的世界のメタ認知、そしてその解放プロセスも、構造保存変容です。自分自身を受容し、内側に残る感情を味わい、信念を手放し、人はゆっくりと変わっていきます。この人のゆっくりとした変容のことを、花のつぼみが開花する様に見立てて「開いていく」と呼びます。パタン・セオリーにおいても、構造保存変容は展開プロセス(Unfolding)とも呼びます。人もシステムもゆっくりと「開いていく」のです。

まとめ

『パタン・セオリー』はとにかく、すべてのシステムにおける変容について、応用可能なエッセンスが詰まっています。私は、仕事から日常生活に至るまでパタン・セオリーを常に意識しています。私の場合は、どちらかというと、それまで自分で大事にしながらやってきたことが、パタン・セオリーによって明確に言語化・整理された、という部分が大きいかもしれません。

これから読まれる方については、直接的に「これが役立つ」というものを探すというよりも、今の自分の取り組んでいる領域において、パタン・セオリーの概念、たとえば「構造保存変容」「生命の質」「センター」などを当てはめてみて、それぞれに何が対応するのか、または何が足りないのか・異なるのか、という観点で照らし合わせてみることをおすすめします。

「それはおかしい」と思ったならばそれでいいし、「よくわからない」けど「ちょっと試してみたい」と思うなら、是非試してください。いずれにせよ、「生命の質」は度合いであり、「やる・やらない」といった単純な話ではありません。

「センター」「生命特性」「全体性」など、まだまだ書きたいことはありますが、今回はここまでにしておきます!

[1]: もちろん、アジャイルソフトウェア開発、デザイン思考、ドメイン駆動設計の文脈で、利用者側の参加・巻き込みが別途必要とされているため、まったく無視されているというわけではありません。しかし、元々のコンセプトである「当事者がデザインをする」という部分までには踏み込めていないのも事実です。例外として、利用者が専門家(作り手)でもある、オープンソースソフトウェアの分野だけは、この利用者参加が実現できています。


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