私の武装解除日記イントロダクション
「私の武装解除」とは何か?
先日、Facebookでなんとなく書いた投稿に予想以上にコメントがついてちょっと驚きました。
ここで言う「武装」とは、人が人生の中で出会ってきた心の痛みを避けるために、無自覚に作り上げた信念や、正当化、それに伴う回避行動のことを指します。痛みを回避するための鎧、場合によっては他者を攻撃するための武器もあるでしょう。
由佐美加子さんの『ザ・メンタルモデル』に出会ってから、自分が無自覚にやってきた回避行動および正当化、それらの根っこにある信念に気付かされ続けています。
恐ろしいほど巧妙に、人は無自覚に痛みを回避しようとし、そのためにはなんでも行います。たとえばその一つが正当化です。
正当化というと、悪いものという捉え方をする人もいるかもしれません。しかし、ここでは正当化を責める・悪者にするのでなく、正当化しないとつらすぎて生きていけなかったためにせざるを得ない、自分を守るための行動と捉えます。言い換えると「これまでの自分の人生を守ってきてくれた鎧」です。
武装解除とは、その鎧をひとつひとつ剥がすことに他なりません。
なぜ武装解除をするのか?
自分を守ってきてくれた鎧なら、別に着けたままでいいじゃん?という考えが湧くかもしれません。痛みから自分を守る鎧をとったら痛いじゃん!
ごく普通の反応ですね。
しかし、ちょっとめんどくさいことに、これらの鎧をつけたまま日々を過ごしていると、鎧が重くて身動きがとれないのです。鎧を着たまま、つまり、自分を守るために生存本能が作り上げてきた信念や回避行動をとっていると、行動が制約されてしまうからです。
行動は精緻に自動化・パターン化されており、反応的に行動をとるため、無自覚ではそのパターンから抜け出すことができません。
人は、これらの無自覚な信念から解放されないと、本当の意味での自由を手に入れることはできません。なぜなら、行動が最終的には痛みの回避行動に集約されてしまうからです。自分で考えて行動しているつもりでも結局回避行動しかしてないという残念な結果になっているということです。
回避行動が悪いということではありません。その回避行動によって、これまで痛みを回避しながら生き延びてきたのですから。しかし、その代償として行動の自由を失っているということです。
武装解除とは、行動の自由を得るためのステップです。鎧を剥がし、中身をさらけ出すことで、本当の自由を得るのです。
わかっていても難しい武装解除
私たちを何重にも守っている鎧は、まだ未熟な幼少期に痛みの体験があり、他に癒やす手段がないため、自分の痛みを緩和するために作り上げられた鎧です。「私は〇〇だ」と信念を作り出すことで、痛みを緩和します。これはその当時は生きるためにせざるを得ない手段でした。
私の武装解除とは、大人になった自分には不要になったこれらの鎧を、ひとつひとつ剥がしていくことです。剥がすといっても、無造作に剥がすのではありません。
鎧を脱ぐためには、これまで自分を守ってきてくれた鎧に感謝するとともに、大人になって成熟した自分にはもう不要であると自覚し、気づいて、徐々にお別れしていく必要があります。
これは、片付けのコンマリメソッドでモノを捨てるときのように「ありがとう」と感謝を込めてサヨナラすることになります。
…と鎧のメタファだと、気づけば簡単に鎧をはがせる気もしますが、実際はそんなことはなく、自覚していてもなかなか鎧は剥がすことができません。
「あー、またやっちまった」
「今、ゾワゾワ反応している」
このように、頭だけではどうにもならず、身体は自動的に反応するため、いきなりきれいさっぱり消えるわけではありません。
自動的に反応した思考や行動に、後で気づくことはしばしばです。しかし、自分の反応に自覚してさえいれば、徐々に気づくタイミングも早くなり、反応も弱まります。鎧の装甲が薄くなっていつしか剥がれる時も来ます。そうなると、以前は反応していた場面でも、同じ反応をしなくなります。
不快な感情が湧き上がってきたら、それを解消して自動的に快にするのではなく、「自分は◯◯が本当に嫌なんだなぁ」という自分の感情について自己共感します。
自分の不快感情に向き合い味わうこと、感じることで、少しづつ痛みは癒やされていきます。不快な感情は消えないかもしれません。でもその度に自分によしよししてあげる、これが痛みに寄り添うということです。
鎧は、玉ねぎの皮のように何重にも何重にも重なっています。それだけ、人は自分を痛みから守るために精巧な防御システムを作り出しているということです。その一つ一つに対して、大事に扱い、癒やし、必要に応じて剥がしていくというステップを行っています。
誰かの痛みは、自分にもある
人の痛みについては、由佐さんが大まかに4つに類型化しています。(『ザ・メンタルモデル』参照)。しかし実際にはかなりの多様性があり、類型をまたいで皆が濃淡はあれど持っている人類共通の痛みともいえます。(この類型について深く知りたい人は、由佐さんの講座がおすすめです。https://hmt.llt.life/jts/)
これまで様々な同じジャーニーを歩んでいる仲間たちの痛みの体験を聞いてきた結論として、誰かの痛みは自分にもある、と言えます。
自分を知ると他人の理解が進む
もうひとつ、大事なのは自分の武装解除を行う=自分自身の内的世界を知ることで、他者へのかかわり合いも大きく変わるということです。
誰かの言動に反応していた構造に気づくと、だんだん反応は弱まっていくし、湧いてくる感情も変わり、何より反応自体に気づく存在が自分の中に生まれます。
この現象は、私たちが他者の言動に、自分自信を投影していたため起きていた事象だからです。自分の構造に気づいて、その不快感情が伝えようとしていたニーズにつながると、不快感情は存在はしますが、無自覚な回避行動ではなく、ニーズを満たす行動が選択できるようになります。
そして、他者の反応についての理解も進みます。自分が鎧を身にまとい反応していたように、他者もそれぞれ違った鎧を身にまとい自動的に反応しているということがわかるからです。この理解ができると、他者の言動にいちいち反応することが徐々に減っていきます。
「ああ、この人は、こういうのが嫌なんだなぁ」というのがわかれば、その感情に寄り添いやすくなります。痛みの回避行動は、たとえ外部からは意味不明であっても、内的世界においては合理的なロジックがあるからです。人の痛みを感じることは、その人の内側の構造に気づき、内的世界のロジックを理解しやすくなることです。
たとえ自分に攻撃的な人に対しても「ああ、この人は痛みから自分を守ろうとするためにこんな言動しているのだなぁ」と感じることできるようになれば、反応が弱まります。
結局の所、人間関係とはどれだけ自分自身を知り尽くせるかによって決まるということが、自分の体験を通じてわかってきました。外側をどうやってテクニックでなんとかしようとしても、自分自身につながらないことには平穏は訪れないのです。
もちろん、人間関係をより円滑にするためには、内的世界を知ると同時に、他者とのコミュニケーションにおいてお互いのニーズ(満たしたいこと)とリクエスト(ニーズを満たすための手段)をやりとりしながら、両者のニーズを満たせる超越解を探索していく必要があります。この手法についてはNVC(非暴力コミュニケーション)を始めとする手法がありますが、スタートはやはり自己理解・自己共感にほかなりません。
そもそも自分自身を知ることができていないと、自分のニーズを知ることができません。そのためには不快感情につながることが不可欠だし、その不快感情が湧き上がってくる源泉につながり、自分の痛みとその裏にある願いに自覚的になることで一層クリアになります。
もちろん、そんなにうまくいったら苦労はしません(笑)痛みに自覚的に向き合うのは、忍耐力が必要な面もありますし、そもそも一人では気づくことが難しいことも多々あります。そのような場合には「紐解き」と呼ばれるセッションを他者に行ってもらい、自身の無自覚な構造を一緒にみていきます。
「あ、またやっちゃった」を繰り返しながらも、それでも自分を発見することは楽しいことでもあります。少しづつ、少しづつ、反応の仕組みに気づき、「あー、この行動の裏にはこんなパターンがあったのか!」と自己に隠された構造を発見していくことで、少しづつ自分とつながっていく、そんな日々です。
私自身の武装解除の体験を公開することで、読者の方が、自分にもその痛みがあると気づき、自分の鎧に自覚的になり、少しでも自由な行動ができる人が増えれば良いなと考えています。