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『さかなのこ』を見て気づいた、好きなことの向き合い方〜親として、自分として

『さかなのこ』をみた

https://sakananoko.jp/

遅ればせながら『さかなのこ』を見た。想像していた以上に、さかなくんの「魚一筋」の人生を描いていた。性別を感じさせない、のんさんの演技も素晴らしかった。

子供の頃に生き物が好きな人は、たいていは「歩く図鑑」と呼ばれ、生態に詳しくなり、生物部に入り、大学で専門課程を学び、と言うレールが引かれていると思いがちだ。しかし、さかなくんはその道ではなく、まったく独自の道を進んでいたのが印象的だった。

魚が好きすぎて、勉強に身が入らず、専門家の道には進めなかった。興味対象としての魚というだけでなく、魚に共感し、魚と対等に接し、魚の世界に没入し、魚を描くことに没頭する独自の感性は、普通の道を進むことを許さなかった。仕事を転々としながらも、魚への愛、得意な絵、天真爛漫なキャラクターで、悩みながらも独自の道を切り開いた。

興味深かったのは「魚を食べる」ことに抵抗がないことだ。むしろ「美味しく食べる」ことも魚好きの範疇に含まれていた。彼は「魚(水生生物全般)」と言う存在すべてを愛し受容していると感じた。

好きを育む親の役割

そしてきっと、この映画を見た人は、井川遥さん演じるお母さんの「好きを貫く子供を応援する親」の姿勢に、皆感動し、こうありたいと感じるだろう。

ただ、子供の好きをひたすら応援し続けるのは、言うほど簡単なことではない。親の常識・価値観で判断し、子供の好きなことを否定したり、子供の将来を考えたり、不安を感じて、「よかれ」と思って子供の行為をとがめようとする光景は、いろいろな家庭でも見かける光景だろう。

思い返すと、子供の頃は自分もさかなくんのように生き物に夢中だった。小学生の頃は、特に水生昆虫が好きだった。水の中に住むという独特の生態に惹かれた。フィールドに採集に行ったり、お店で買ったりして飼育していた。

実家に帰った時に、当時の作文があったので読んでみたが、ゲンゴロウを飼っていた頃の記憶が思い起こされた。

小学3年生のときの作文

別の日記で、友達と遊んでいても、虫を見つけるとすぐ捕まえてしまう様子には思わず苦笑した。友達と遊んでいる、虫を見つけて捕まえる、友達は帰ってしまう、でも最後は「よかったです」。

友達と遊んでいても虫を見ると捕まえてしまう

他にも、自宅の中にオニグモを放したら卵を産んで、孵化して蜘蛛の子が生まれてきたことや、畑で自分の背丈ほどのアオダイショウを捕まえ自宅に持ち帰り、容器に一緒に卵を入れておいたら次の日にはなくなっていたのを見て「ヘビが卵を食べた!」と興奮して母親に話した、というエピソードも思い出した。

この話題を妻に話すと
信じられない!お義母さん凄い!
と驚いていたが、自分もそう思う。

今思うと、これらのことを、子供の頃に一切両親から咎められた記憶がないのに改めて驚く。

親の立場になってみると…

自分が親の立場になってみると、子供が好きなことを、暖かく見守るということがなかなか難しいということを実感してきたた。

子供が自分の理解を越えたことや、自分が無自覚に反応してしまうことをやってしまうと、つい否定的な目で見たり、反応的になってしまうからだ。

「XXXのやり過ぎはいけない!」
「XXXばっかりしてないで。。。」
「もっと意味のあることをしなさい」

自分が子供の頃は、親の言う事など聞かずに好き勝手にやっていたのに、親の立場になって、ついつい子供に小言を言っていることに気づいた時、己のこれまでの行動との矛盾に愕然とした。

自分は親にまったく(そういうことを)言われた記憶がないのに、なぜこんなに子どもたちにあれこれ言ってしまうのだろうか?」と。

子供を暖かく見守るということは、自分のモノサシで子供の行うことを、評価判断するのでなく、子供が好きなことをさえぎらずに、見守り、応援するということだ。このことに気づくまで、少し時間がかかってしまった。

親が子供に言いたくなる理由

親にも、もちろん言い分はある。

「子供が心配だから」
「良かれと思って」
「そのままではろくな結果にならないから」

すべて、親の子供への愛から出ている行為ではあるが、その結果として「子供の可能性、選択肢、意志」を奪っているかもしれない。

その事に親が気づくことができるかが、まず大事だ。

そして、もうひとつ大事な点は、その反応は自分が抑圧している投影かもしれない、という点だ。

「自分の好きなようにしてはいけない」
「意味のないことをしてはいけない」

そうやって、自分を抑圧している人ほど、自由に好きなことをやっている他者をみて無意識に反応してしまう。好きなことを自由にやっている様を観ていると、自分が不快なのでつい文句を言ってしまう。

当人はあくまでも「子供のため」と考えているが、実は「子供のためではなく、自分の不快の回避のため」に言っていることにまったく気づいていない。

このことは自分の子供との間の体験でもある。

「ゲームをやりすぎだ!」
「動画ばっかりみて!!」
「もっと生産的なことはできないのか?」

などなど、自分の子供たちに何年にも渡っていい続けてきた。
ルールを定めるがそれを守らないことにもイラついていた。

しかし真実は、他者ではなく自分自身にOKを出していない、それだけだったことに気づき、これまた愕然とした。

「生産的であろうが、なかろうが、自分がやりたいことをやればいい」

このことを自分に許した途端に、子供への過剰な反応はピッタリなくなった。

「好きでは食っていけない」という人たちの反応

2015年にIKIGAIマップに出会い、紹介しはじめた頃、この図を見た人から、色々な反応があったことを思い出す。この図は「好き」「得意」「社会のニーズ」「報酬」の4つの円が重なるのがIKIGAI(生きがい)だ、と表現するものだ。


IKIGAI

この図を見たときの反応は、人によって大きく2つに分かれる事に気がついた。まずはこの図をみて「好きなことで食っていくことを目指したい」から重ねたいという反応だ。もう一方は「好きなことで食べていくのにこだわらない方がいい。現実はそんなに甘くないから」という反応だ。

「真ん中で重ね合わせたい」と考えるなら、純粋にそこに向かえばいいが、「真ん中に重ね合わせなければならない」と半ば強要される感じがするならば気をつけたほうがいい。なぜなら「しなければならない」という強制力に駆動されている可能性が高いからだ。

一方、「辛いからやめたほうがいい」と考えるなら、一見、世の中を知った賢い反応にも見えるが、実は単に「辛いことを回避したい」という危機回避かもしれない。

「好き」は「楽しい」だけじゃない

アニメ『ブルーピリオド』、そして、ブルーピリオドにインスパイアされた、YOASOBIの『群青』に次のような歌詞が出てくる。

好きなことを続けること
それは「楽しい」だけじゃない
本当にできる?
不安になるけど

群青(YOASOBI)より

『ブルーピリオド』では、高校二年で絵画に目覚めた主人公が、現役で藝大受験を目指し始めるのだが、劇中にも出てくる「好きなことを続けるのは楽しいだけじゃない」というセリフは、まさにそのとおりだ。

「好き」を貫くということは、痛みも受容した上でもなお、そこに向かいたいという願いに向かうことでもある。たとえ到達しなかったとしても、そこに向かい続けるプロセスが、その人の内側から生まれた願いへ向かういのちの働きだ。

「好きを貫くのは甘くないからやめたほうがいい」と言い放つ人は、
「好きを貫くために、痛みを経験した人」なのだろうか?
「痛みを回避するために、好きを貫くことを諦めた人」なのだろうか?

外側からはわからない。真実はその人の内側にある。

拠り所は己の中にしかない

人生の進む道は、ひとつではないし、正しい道もない。
すべて自分で選び、選択は自分の責任で行う。
「しなければならない」も「すべき」もない。

そんな中で、重要な指針となるのは、自分の内側にある真実だ。

「どうしたい?」
「何を恐れている?」
「それは本心なの?」

周囲がなんと言おうと、自分の内側に何があるのか、でしか、その人が進みたい道はわからない。

頭で考えるのではなく、胸に手を当ててただ感じてみる。

自分で自分を納得させようとしているのかもしれない。
無意識に何かを恐れているのかもしれない。
心の奥には何があるのだろう?
その奥にあるものが、あなたの真実だ。
その真実に、あなたは繋がれているだろうか?

怖いけど、踏み出してみたいと思うなら、何かがきっとそこにある。

自分の内側にある真実を信じて、それに従って生きること。
それこそが、その人の「いのち」を生きる方法なのではないだろうか。

『さかなのこ』はそんなことを気づかせてくれた。

皆様のサポートによって、より新たな知識を得て、知識と知識を結びつけ、実践した結果をアウトプットして還元させて頂きます。